ルチアーノ・パヴァロッティ
ルチアーノ・パヴァロッティ | |
|---|---|
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Luciano Pavarotti | |
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2003年 | |
| 生誕 |
1935年10月12日 |
| 死没 |
2007年9月6日(71歳没) |
| 職業 | オペラ歌手 |
| 活動期間 | 1961年 - 2006年 |
| 配偶者 |
アドゥア・ヴェローニ
(結婚 1961年、離婚 2002年) ニコレッタ・マントヴァーニ
(結婚 2003年、死別 2007年) |
| 子供 | 4人 |
| 親 |
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| 受賞 | #賞歴を参照 |
| 公式サイト | Pavarotti Official |
| 音楽家経歴 | |
| ジャンル | |
| 担当楽器 | テノール |
| レーベル | デッカ・レコード |
| 共同作業者 | |
| YouTube | |
| チャンネル | |
| 活動期間 | 2019年1月31日 - |
| ジャンル | 音楽 |
| 登録者数 | 93.6万人 |
| 総再生回数 | 4億1,136万5,445回 |
| チャンネル登録者数・総再生回数は 2026年8月24日時点。 | |
| 署名 | |
ルチアーノ・パヴァロッティ(Luciano Pavarotti、1935年10月12日 - 2007年9月6日)は、イタリアのオペラ歌手。声域はテノール。
史上最も成功し名声を獲得したオペラ歌手の1人と考えられており[1][2][3]、申し分ない声量、艶やかながら明るく澄み切った声質、力みのない発声、やわらかく均質な響き、明晰な発音、滑らかなレガートおよびパッサッジョ、そして輝かしい高音などによって特徴付けられた歌声[4][5][6]は、クラシック音楽の愛好家や評論家だけにとどまらず一般大衆からも高い支持を受け、「神に祝福された声」「キング・オブ・ハイC(二点ハの王者)」「イタリアの国宝」とまで評された。
概要
1961年に初舞台を踏んだのち、キャリア前期は世界各地のオペラ公演への出演とオペラ全曲やアリア集の録音を中心に活動し、1970年代にはすでにオペラ界でその確固たる名声を築いたが、1990年代以降はポピュラー・ミュージック界へ進出したり慈善活動を積極的に行うなど活躍の場を広げ、キャリアとしてのピークを迎えた。2000年代に入ると長年の肥満による脚の不調や体調悪化が目立つようになり、2004年にはオペラ公演から引退、2006年には歌手活動そのものに終止符を打ち、翌年9月6日に膵臓がんから併発した腎不全により71歳で死去した。
1960年代から1980年代にかけて、批評家たちから彼の声は「奇跡的」「神の声」などと圧倒的な称賛を受けたが、キャリア後期には歌唱力や表現力の低下が徐々に目立つようになり、それに伴い観客を喜ばせる手法やセルフパロディに頼りはじめたとの指摘や、ポップクロスオーバーや後述する三大テノールとしての派手な活動がオペラの芸術的価値を損ね、商業主義的で世界的名声に依存しているとの指摘も生まれるなど、その存在の大きさゆえに賛否両論が巻き起こったことも事実である[7]。ニューヨーク・タイムズ誌は、パヴァロッティを「高度で崇高な芸術性と大衆的で低俗な娯楽性というオペラの二面性をその歌手人生で見事に体現した」と評している[8]。
プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラスとともに結成した三大テノールとしての活動は広く知られ、なかでも最年長のパヴァロッティは最も人気を集めたスター歌手で[4]、カレーラスはパヴァロッティについて、「ルチアーノは天性のコミュニケーターであり、私がこれまでに舞台で目にした中で最もカリスマ性のある人物の一人です。彼が口を開き、最初の音を発した瞬間、聴衆はたちまち彼に魅了されてしまいます。それは彼が生まれながらにして持っている才能なのです」と述べ[9]、ドミンゴは「紛れもない音色と完璧な声域を持つ神々しい声」と彼を讃えている[10]。指揮者のリッカルド・ムーティは、パヴァロッティを三大テノールのなかで最も美しい声と評した[11]。
指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンは、彼の歌声を「神が声帯に口づけをした」と表現し[5]、同じく指揮者のカルロス・クライバーは、「パヴァロッティが歌うとき、世界に太陽が昇る」と讃えた[12]。ソプラノのジョーン・サザーランドは、パヴァロッティについて「音のクオリティが他と全く異なっていた」と述べ、同じくソプラノのルネ・フレミングは、「彼は録音音楽の歴史の中で最も完璧な技術を持っていた」と評している[13]。
仕事や私生活では問題行動も少なくなかった一方、権威や気取りがなく、気さくで愛嬌に満ちた"太陽のような"人柄から人望を集め、自身が主催する慈善コンサート「パヴァロッティ&フレンズ」を中心にジャンルを超えて数多くのポップミュージシャンと共演し、フランク・シナトラ、ジェームス・ブラウン、B.B.キング、アレサ・フランクリン、ポール・マッカートニー(ビートルズ)、エリック・クラプトン、エルトン・ジョン、スティーヴィー・ワンダー、ライオネル・リッチー、ジョージ・マイケル、ホイットニー・ヒューストン、スティング、セリーヌ・ディオン、マライア・キャリー、ボノ(U2)、ジョン・ボン・ジョヴィ(ボン・ジョヴィ)、ブライアン・メイ(クイーン)、ディープ・パープルなど、その総数は100組以上にのぼる。欧州委員会委員長のジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾは、「彼は気さくで社会的コミットメントに溢れていた」と評した[10]。
その生涯で1億枚以上のレコードを売り上げ[14]、三大テノールとしての最初の録音である『三大テノール 世紀の競演』は史上最も売れたクラシック・アルバムとなった。
経歴
生い立ち
1935年、イタリアのモデナ生まれ。父親はパン焼職人の傍ら、アマチュアのテノール歌手としても活動していた。同郷で同い歳のソプラノ歌手、ミレッラ・フレーニとは同じ乳母によって育てられた。師範学校を卒業後、声楽を学ぶ。
初舞台
1961年にレッジョ・エミーリアの声楽コンクールで優勝し、同年4月29日、同地の市立劇場で『ラ・ボエーム』のロドルフォ役を歌い、オペラの初舞台を踏んだ。この役はその後彼の十八番となり、1963年にはウィーン国立歌劇場とロンドンのロイヤル・オペラ・ハウス(コヴェント・ガーデン)に、1964年にはミラノ・スカラ座にそれぞれロドルフォを歌ってデビューを飾っている。1964年にはオペラ・アリア集をデッカ社に録音、レコード・デビューも果たす。
世界的名声

1965年2月、マイアミでジョーン・サザーランドと『ランメルモールのルチア』に出演してアメリカデビューを果たした。1967年、サザーランドとその夫の指揮者リチャード・ボニングと共演のベッリーニ作曲「ベアトリーチェ・ディ・テンダ」全曲盤でオロンベッロを歌い、初めて歌劇全曲盤録音に参加(デッカ)。1968年、やはりロドルフォでニューヨークのメトロポリタン歌劇場にもデビュー。このときニューヨーク・タイムズ紙の大物批評家ピーター・G・デイヴィスが、「彼の声の自然な美しさ」に驚嘆し、「明るく、開放的で、高音部に金属的なピンとした響きがあり、中音域では温かくなって均一で艶やかな輝きを放つ」と絶賛したことから、一層の注目を浴びる[10]。
世界的名声を不動のものとしたのは1972年2月17日にメトロポリタン歌劇場でドニゼッティの『連隊の娘』に出演したときで、パヴァロッティはトニオ役の高難度アリア「僕にとっては何という幸運」(Pour mon âme, quel destin!)でハイC(「二点ハ」音)を9回苦もなく歌ってのけ、聴衆を熱狂させたのである。輝かしい高音を持つリリック・テノールとして彼は名声を確立し、「キング・オブ・ハイC」という異名をとるに至った(このニックネームは彼が録音したアリア集の題名に由来する)。
きらめく高音で一世を風靡する一方、軽やかな美しさと共に強い響きもそなえた声質を生かし、レパートリーの拡充を計画。1970年に録音でリッカルド(ヴェルディの『仮面舞踏会』)に挑戦したのを皮切りに、より劇的な歌唱を必要とされるスピント系諸役へと進出し、高い評価を得た。その後、声質が重く変化していく(このため高音の輝かしさには翳りがでた)につれスピント系の役を増やし、ヴェリズモ時代までの歌劇をレパートリーに加えている。
完璧さを求めるあまりに、公演をドタキャンすることもしばしばあり、「キャンセルの王様」とまで揶揄されるようになっていた。有名なシカゴ・リリック・オペラでは、8年の間に41回の公演のうち実に26回をキャンセルし、このため激怒した同オペラの支配人から1989年に永久出入り禁止を言い渡された[15]。
幅広い活動

しばしばテレビに出演して大衆的な名声を得た。1977年3月には、『ライブ・フロム・メト』という番組に初めて出演してロドルフォを歌い、それまでにテレビで放送されたオペラ上演中最大級の視聴者を魅了した。
1990年代、野外コンサートをしばしば開き、多くの聴衆を集めたことでも知られる。1991年7月30日ロンドンのハイド・パークでデビュー30周年を記念し無料のオペラコンサートを開催[16]。コンサートはテレビで放送され、公園の歴史上初のクラシック演奏会となり、10万人という記録的な人数の聴衆を動員した。このコンサートの収益から10万ポンドが、「The Royal Parks Plant a Tree Appeal」に寄付される予定だった[16]。 1993年6月にはニューヨークのセントラル・パークの大庭園で行われた演奏会には50万人が集まり、テレビでもさらに数百万人がこれを視聴した。続いて9月にはパリのエッフェル塔の下でコンサートを開催、推定30万人を集めた。
また、同じオペラ界の実力者であるドミンゴ、カレーラスとともに行った「三大テノール」としての活動は広く知られている。演奏会のCDやビデオテープの売上げはプレスリーやローリング・ストーンズを超えている。2001年にケネディ・センター名誉賞を受賞した。
さらに1992年から2003年にかけては、戦争や紛争に苦しむ子どもたちの支援のために慈善コンサート「パヴァロッティ&フレンズ」を故郷モデナで開催、数多くのポップミュージシャンと共演する。
2004年3月、69歳でニューヨークのメトロポリタン歌劇場において『トスカ』のカヴァラドッシ役を演じた。これを最後にオペラ上演からは引退。また同年より、世界中を巡る引退ワールド・ツアーを開始(東京からスタート)。
来日公演
1971年、NHKイタリア歌劇団の一員として初来日、リゴレットのマントヴァ公爵を歌い、聴衆の一人が感激のあまり舞台に上り彼に抱き着き、話題を呼んだ。1975年、メトロポリタン・オペラの一員としてラ・ボエームのロドルフォを披露。1977年、単身来日、リサイタルとオペラ・アリア・コンサート。1989年、東京ドームと大阪城ホールで公演。1993年1月、横浜アリーナでコンサート。1996年、3大テノール東京国立競技場を皮切りに世界ツアー。¥75,000の高額チケットが話題となったほか、アンコールでは美空ひばりの「川の流れのように」をサプライズで3人が歌い[注 1]、観客を驚かせた。2002年、3大テノール、横浜アリーナ公演、日本での最後の3大テノール公演に。2004年引退ワールド・ツアーを東京から開始[18]、ここから世界各地で40回の公演を行い、最後のツアーを故郷モデナで終える予定であったが、のちに体調悪化を考慮してスケジュールが短縮された。
最後のステージ
2006年のトリノオリンピックの開会式では『トゥーランドット』の「誰も寝てはならぬ」を歌い、オリンピックに花を添えたが、これが人生最後のステージとなった。
しかしのちに、このトリノ五輪でのパフォーマンスは実際には生演奏ではなく1週間前に録音された物であったと、旧来の友人でありこのステージでも指揮を務めた指揮者のレオーネ・マジエラがその著書『Pavarotti Visto da vicino(近くで見たパヴァロッティ/日本未出版)』の中で明かした。レオーネはその中で「オーケストラは、聴衆のために演奏する振りをしました。私は指揮をする振りをしました。また、ルチアーノは歌う振りをしました。その効果は素晴らしかった」と述べている。この件について日本のニュースでは録音であった事が明かされたというその事実のみが端的に伝えられたが、直後の個人のブログやネット上の掲示板の書き込みなどではこの書籍がいわゆる暴露本の類としての扱いを受ける事も多く、しばしば著者に対して批判的な反応が見られた。
またマネージャーであったテリー・ロブソンは、当時70歳のパヴァロッティ自身が「2月の夜遅くに零下の寒空の中で歌う事は困難であろう」とオリンピック委員会の招待を何度か断ったのだが、最終的には委員会があらかじめ歌のパートをレコーディングするよう説得したと述べている。
死去
その後、同年6月に膵臓がんが見つかり手術を受けたが、2007年9月6日に腎不全のためモデナの自宅で死去した。71歳没。同年9月8日、モデナの大聖堂で国葬級の大規模な葬儀が行われ、プローディイタリア首相、アナン前国連事務総長、ボノ(U2)やアンドレア・ボチェッリら著名人が参列し、市民約10万人も集まり弔意を表した。
レパートリー

元来、リリコ・レッジェーロ(叙情的で軽やかな表現に適した声質)と呼ばれる声質のテノールである。先述のようにデビュー後名声を築いていった1960年代は、高音が最大限に映えるドニゼッティ、ベッリーニなどのいわゆる“ベル・カント・オペラ”がレパートリーの中核をなし、これらの作品の上演、録音により、世界有数のテノールという評価を確立した。当時のレパートリーにおいて、ヴェルディなどベル・カント以降の作品も高音が特に必要とされる役が多くを占めていた。
やがて1970年代以降、劇的なスピント系の役に進出していく。一例としてヴェルディ作品を見ると、60年代にヴェルディ作品で歌った役は高音を必要とする3つの役だったが、前記のリッカルドや、1975年にはマンリーコ(『トロヴァトーレ』)、1981年にはラダメス(『アイーダ』)にそれぞれ挑戦、1991年には演奏会形式で、古今の歌劇の中でも特に重厚な歌唱を要求される『オテロ』(同名作品)を歌い、1992年に歌った『ドン・カルロ』(同名作品)までの挑戦を経て、彼の歌ったヴェルディ諸役は13に増えた(そのうち12のヴェルディ作品については録音している)。スピント系の役をレパートリーに加えていくに当たって、元来スピント系の声質でないことに由来する劇性の不足を補う意図から、アクセントの強調などを歌唱に取り入れていく様になった。このある種の誇張が後輩歌手たちにも影響があったといわれており、賛否のあるところである。
三大テノールの中ではもっとも恰幅のいい体型だが、それだけにネモリーノ(『愛の妙薬』)における喜劇性、マントヴァ公爵(『リゴレット』)やリッカルド(『仮面舞踏会』)における権力者としての側面など、純二枚目に収まらない要素が必要とされる役柄には無類の強みを発揮した。名を成してのちはほぼイタリアオペラに専心したが、唯一のドイツオペラに『ばらの騎士』歌手役がある。
録音では初録音以来デッカ・レコードと長く信頼関係を築いており、デッカ・レコードの歌劇録音には欠かせない看板歌手として親しまれ、レパートリーの殆んどを同社に録音している。
家族

1961年に結婚したアドゥア夫人との間に三子をもうけたが後に離婚、その後アシスタントのニコレッタ・マントヴァーニ(Nicoletta Mantovani)と結婚、双子を授かったが一人だけ生まれた。マントヴァーニは2015年12月現在、フィレンツェ市の副市長を務め、何度も来日経験がある[19]。
エピソード
人物
「パヴァロッティは楽譜が読めない」というまことしやかな噂があったが、本人は「オーケストラ総譜はほとんど読めないけど、テノールとピアノ(伴奏)のパート譜なら完璧に読めるよ」と語っていた[20]。
オペラ以外のコンサートなどで左手に持つ白いハンカチは、汗を拭くため、気分を良くするためのまじないとして持っていたものである。また、晩年は眉毛をそれと分かるほどはっきりと描いていた。
パヴァロッティの食べ物とワインへの愛情は、音楽への愛情とほぼ同等であったと言われ、モデナにあるミシュラン四つ星レストランのシェフは、「彼は音楽だけでなく料理にも完璧主義者でした」と語っている[21]。ツアーには大量のモデナ産トルテリーニ、パルメジャーノ、プロシュートを持参していた[10]。
コミカルな逸話として、満員の客席に向かって、パンツ一丁でカーテンコールを受けたことがある[10]。また最高体重は150kgもあり、舞台上の椅子を鉄棒で補強しなければならなかったという話もある[10]。
巨匠との共演
戦後において同じく最も名が知られ高い人気を誇ったクラシック音楽家の1人である指揮者のカラヤンとは、録音作品では1970年代に2度だけ共演経験がある(演目はプッチーニの『ラ・ボエーム』と『蝶々夫人』)。さらに、1967年に映像作品として製作されたヴェルディの『レクイエム』では、若き日のパヴァロッティがカラヤンの指揮に合わせて歌唱する姿が映像として記録されている。
オペラ史上同じく最も高名な歌手の1人であるソプラノのマリア・カラスとは、イタリア・オペラを主要なレパートリーとする点で共通していたものの、パヴァロッティがオペラ歌手として知名度を上げた頃には既にカラスは事実上の引退状態となっていたため、共演は実現しなかった。なお、絶頂期のカラスと当時人気を二分していたレナータ・テバルディとは、1970年に一度だけヴェルディの『仮面舞踏会』で共演が実現しており、これがテバルディ最後のオペラ全曲録音となった。
フェラーリとの関係
イタリアを代表するスポーツカーメーカーのフェラーリを創業したエンツォ・フェラーリとは、モデナ出身という同郷の間柄であることに加え、エンツォが幼少時代にオペラ歌手になることを夢見たこともあったために、年齢の差にもかかわらず2人は親交を深め、互いに尊敬しあっていた[22]。
クルマ好きで長年フェラーリを手にすることを望んでいたパヴァロッティは、世界的なテノール歌手の座を獲得すると当時の限定車「F40」を購入した[22]。すでに購入予約は閉め切られていたにもかかわらず、妻がフェラーリに電話し購入することができたが、その恰幅のよさゆえに「納車しても車内に入れないのではないか」と言われた。
なお、ともに「イタリアの国宝」と称されたパヴァロッティとフェラーリの深い関係性から派生して、「突き抜けるような高音とクリアで均質な響き、そして滑らかで乾いた音色」という、パヴァロッティの歌声とフェラーリのエキゾーストノートの親和性を指摘する声もある[23]。
ダイアナ妃との関係
エリザベス女王に何度も謁見するなど、英国王室と関わりが深いパヴァロッティであるが、なかでもダイアナ妃との友情関係は広く知られている[24]。当時の夫であるチャールズ皇太子にヴェローナでヴェルディの『レクイエム』の公演を観るよう強く勧められたことでその存在を知って以降、彼女はパヴァロッティの声に魅了された[24]。
1991年の夏、ロンドンのハイドパークで野外コンサートが行われ、15万人ものファンが集まった。その中にはダイアナ妃も含まれていた。当日はあいにくの土砂降りとなった。妃は後ろの席の人たちに配慮して自ら傘を閉じ、ボディガードが制するのも聞かず、びしょ濡れになってコンサートを楽しんだ。その後両者は、2人きりで食事を楽しむほどの親友となり、チャリティーの精神性でも2人の価値観は共感しあっていた[10][24]。
ダイアナ妃が1997年にパリで事故死した際、彼女の葬儀で歌うよう依頼されたパヴァロッティは、「悲しくてとても歌うことはできない」と辞退し、参列者の1人として彼女に別れを告げた[24]。
日本との関係
パヴァロッティと日本の関係は、引退ワールドツアーの皮切りに東京が選ばれるなどのゆかりがあり、パヴァロッティの未亡人ニコレッタ・マントヴァーニは、インタビューで日本のファンに対して「私たちは日本に素敵な思い出しかありません。彼はいつも日本に行くことを楽しみにしていました」と語っている[25]。
パヴァロッティと交流があった日本人として、彼と舞台上で共演した唯一の日本人歌手であるソプラノの中丸三千繪や、「ミラノでブーイングを受けたときに慰めてくれた」と自伝で語った指揮者の小澤征爾などがいる。また指揮者のレオーネ・マジエラによれば、パヴァロッティはある来日時に昭和天皇の弟宮と昼食を共にし、日本食を堪能したとの逸話もある[26]。
また、若きパヴァロッティの才能を見出した最初の師匠は、彼を指導した直後日本に移住して日本人声楽家を多数育てたテノール歌手、アッリーゴ・ポーラであり、パヴァロッティはのちに「親愛なる先生アッリーゴ・ポーラがいなければ、今の自分はありませんでした」と語っている[27]。
他メディアへの出演
1982年に一度だけ映画『イエス・ジョルジョ』(日本未公開)に主演し、性的欲求を抑えられないイタリア人男性の役をコミカルに演じたが、興行面でも批評面でも大失敗作となり、自伝の中でこの映画への出演を「人生最大の失敗だった」と語っている[10]。
広告にはあまり出演することがなかったが、1996年には日本航空のビジネスクラスのテレビCMにホセ・カレーラスとプラシド・ドミンゴとともに出演した。
死後の2019年には、アカデミー賞受賞経験のあるアメリカのロン・ハワード監督によって、ドキュメンタリー映画『パヴァロッティ 太陽のテノール』が製作された。
その他
- プッチーニ作『トゥーランドット』のアリア「誰も寝てはならぬ」は、パヴァロッティの歌唱によってオペラファンの枠を超えた世界的楽曲となった[28]。その発端は1990年のFIFAワールドカップ・イタリア大会であり、全世界で放送されるテレビ中継のテーマ曲としてパヴァロッティの歌う同曲が起用されたのに加えて、大会の前夜祭で三大テノールが同曲を歌い、その模様が全世界で8億人に視聴されたためである[28]。
- 1997年5月、イタリア・ミラノで開催されたテレビ賞「テレガッティ」の授賞式で"キング・オブ・ポップ"のマイケル・ジャクソンと対面を果たし、2ショットでステージに並ぶ姿がカメラに収められている。
- 1999年、チェコの天文学者ズデニカ・ヴァーヴロヴァーによって発見された小惑星5203に「パヴァロッティ」(Pavarotti)の名が付けられた。
賞歴
- 1979年 - グラミー賞 最優秀クラシック・ソロ・ヴォーカル・アルバム賞
- 1980年 - グラミー賞 最優秀クラシック・ソロ・ヴォーカル・アルバム賞
- 1982年 - グラミー賞 最優秀クラシック・ソロ・ヴォーカル・アルバム賞
- 1983年 - プライムタイム・エミー賞 舞台芸術部門 最優秀クラシック番組賞
- 1985年 - プライムタイム・エミー賞 バラエティ/ミュージック・プログラム部門 最優秀個人パフォーマンス賞
- 1986年 - ピープルズ・チョイス・アワード クラシック・パフォーマー部門
- 1989年 - グラミー賞 最優秀クラシック・ソロ・ヴォーカル・アルバム賞
- 1990年 - ビルボード・ディケイド・エンド クラシック音楽部門
- 1991年 - グラミー賞 最優秀クラシック・ソロ・ヴォーカル・アルバム賞
- 1993年 - ワールド・ミュージック・アワード クラシック・ベストセラー・アーティスト
- 1998年 - グラミー・レジェンド賞
- 1998年 - ミュージケアーズ・パーソン・オブ・ザ・イヤー
- 2001年 - ナンセン難民賞
- 2001年 - ケネディ・センター名誉賞
- 2014年 - ブリット・アワード 生涯功労賞(没後)
- 2022年 - ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム 殿堂入り(没後)
栄典
勲章
- 1976年 -
イタリア共和国功労勲章 コンメンダトーレ - 1980年 -
イタリア共和国功労勲章 グランデ・ウッフィチャーレ - 1988年 -
イタリア共和国功労勲章 カヴァリエーレ・ディ・グラン・クローチェ - 1992年 -
レジオンドヌール勲章 オフィシエ - 1993年 -
モナコ公国文化功労勲章 コマンドール
任命
関連項目
脚注
注釈
出典
- ↑ Christopher Cook / Michael Scott Rohan (2024年11月14日). “Pavarotti: a guide to the life and times of the world's most famous opera singer”. Classical-Music.com. 2025年9月14日閲覧。
- ↑ Georg Predota (2023年10月12日). “On This Day 12 October: Luciano Pavarotti Was Born”. Interlude. 2025年9月14日閲覧。
- ↑ Rosie Pentreath (2023年10月2日). “Who was Luciano Pavarotti? How this Italian tenor became the world’s most famous opera star”. Classic FM. 2025年9月14日閲覧。
- 1 2 香原斗志 (2020年9月4日). “映画『パヴァロッティ』に描かれた「神の声」と「葛藤あっての人生」──アカデミー賞録音技師、ジェンキンズにインタビュー”. GQ JAPAN. 2025年9月14日閲覧。
- 1 2 香原斗志 (2020年5月20日). “香原斗志「イタリア・オペラ名歌手カタログ」<第4回>ルチアーノ・パヴァロッティ(テノール)”. 毎日新聞. 2026年8月28日閲覧。
- ↑ Michael Zwiebach (2022年8月30日). “The Essential Luciano Pavarotti”. San Francisco Classical Voice. 2026年8月25日閲覧。
- ↑ Rupert Christiansen (2019年7月12日). “Pavarotti review: Ron Howard's documentary lets him off too lightly”. The Telegraph. 2026年8月25日閲覧。
- ↑ Zachary Woolfe (2019年6月3日). “Pavarotti Captured the Sublime and Vulgar Sides of Opera”. The New York Times. 2026年8月25日閲覧。
- ↑ Lavin, Cheryl (10 December 2000). “Three Tenors And Grazie, Grazie, Grazie”. Chicago Tribune. 2015年8月1日閲覧.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 Scott Harper (2024年12月). “太陽のテノール、ルチアーノ・パヴァロッティ”. THE RAKE. 2026年8月28日閲覧。
- ↑ Aldo Cazzullo (2024年12月1日). “Riccardo Muti: «Non ne posso più dell’acuto di Vincerò. Nel Vaticano di Bergoglio si fa poca musica»”. Corriere Della Sera. 2025年9月14日閲覧。
- ↑ “Pavarotti, A Voice for the Ages”. medici.tv. 2026年8月28日閲覧。
- ↑ “Reactions to Pavarotti’s death”. Orange County Register (2007年9月6日). 2026年8月28日閲覧。
- ↑ “Pavarotti recovers from surgery”. BBC NEWS (2005年3月23日). 2025年1月24日閲覧。
- ↑ Lyric Opera history | Lyric Opera of Chicago
- 1 2 “Pavarotti sings in the British rain”. BBC ON THIS DAY|30|1991. 2026年7月30日閲覧。
- ↑ 3大テノール - 川の流れのように(Youtube)
- ↑ 『パヴァロッティ 太陽のテノール』プログラム15ページ
- ↑ 広報ぎふ 2015年12月1日号
- ↑ 2005年9月12日のBBCインタビュー
- ↑ Lai S. Reyes (2011年10月27日). “This Italian chef cooked for Queen Elizabeth, Pavarotti & Enzo Ferrari”. philstar GLOBAL. 2026年8月28日閲覧。
- 1 2 “エンツォ・フェラーリとルチアーノ・パヴァロッティ展”. AUTOCAR JAPAN (2015年2月19日). 2025年9月16日閲覧。
- ↑ “憧れのフェラーリを紐解く、キーワード「エンジン音」。乾いた音とハーモニー、音楽家をも魅了する音色”. BRUTUS (2026年5月31日). 2026年8月25日閲覧。
- 1 2 3 4 Annabel Sampson (2019年5月28日). “Pavarotti and the Royals”. TATLER. 2026年8月28日閲覧。
- ↑ パヴァロッティ~ザ・グレイテスト・ヒッツ50~夫人からのメッセージ、UNIVERSAL MUSIC JAPAN、Youtube、2013年11月6日。
- ↑ “インタビュー:レオーネ・マジエラ ― パヴァロッティと私、彼の最初と最後の公演を指揮した男”. LF CLASSIC (2026年8月13日). 2026年8月28日閲覧。
- ↑ Ruboli, Daniele (1995). Arrigo Pola: Il maestro di Pavarotti. Pacini Fazzi. ISBN 88-7246-198-7
- 1 2 “W杯で世界的人気に! プッチーニの「誰も寝てはならぬ」が“勝利の歌”になった理由”. ONTOMO (2026年6月5日). 2026年8月25日閲覧。