ヴァハン・テリアン

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ヴァハン・テリアン
Վահան Տերյան
Ваан Терьян
誕生 ヴァハン・テル=グリゴリアン
(Վահան Տեր- Գրիգորյան)
ヴァアン・スキアソヴィチ・テル=グリゴリャン
(Ваан Сукиасович Тер-Григорян)

(1885-02-09) 1885年2月9日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国チフリス県(ロシア語版)アハルカラキ郡ガンジャ
死没 (1920-01-07) 1920年1月7日(34歳没)
ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の旗 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国オレンブルク県(ロシア語版)オレンブルク郡(ロシア語版)オレンブルク
墓地 アルメニア コミタス・パンテオン(英語版)
職業 詩人、翻訳家
言語 東アルメニア語[1]
教育 モスクワ大学歴史・文献学部(1906年 - 1913年)
サンクトペテルブルク大学東方言語学部(1913年 - )
最終学歴 ラザレフ東方言語学院(ロシア語版)
活動期間 1902年[2] - 1919年
ジャンル 抒情詩
デビュー作 『黄昏の夢』(1908年刊)
配偶者 スサンナ・パハロヴァ
パートナー アナヒト・シャヒンジャニアン
子供 1女(婚外子)
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ヴァハン(ヴァアン)・テリアン(アルメニア語: Վահան Տերյան, ロシア語: Ваан Терьян、1885年2月9日 - 1920年1月7日)、本名ヴァハン・テル=グリゴリアン(Վահան Տեր- Գրիգորյան, Ваан Сукиасович Тер-Григорян〈ヴァアン・スキアソヴィチ・テル=グリゴリャン〉)は、アルメニア人の詩人、翻訳家。

生涯

1885年2月9日(ユリウス暦1月28日)、ロシア帝国チフリス県(ロシア語版)ガンジャ (ka) で、アルメニア人の聖職者の家庭に生まれた[2]。地元の学校からチフリスのギムナジウムを経て、1899年8月にモスクワのラザレフ東方言語学院(ロシア語版)へ入学した[2]。在学中から、友人たちと手書きの新聞を発行し、テリアンはその論説と詩のコーナーを担当していた[2](同級生にはアレクサンドル・ミャスニコフ、ツォラク・ハンザジャン (hy)、ポゴス・マキンツャンらがいた[5])。そしてこの頃から、詩人のアヴェティク・イサハキアン(英語版)とも親交を持つようになった[2]。同時期の1905年にロシア第一革命を目の当たりにしたことにより、テリアンは労働運動や社会民主主義への共感を強くしていった[6]。

1906年5月にラザレフ学院を卒業すると、しばらくの間公証人役場に勤めたがほどなく退職し、同年8月にモスクワ大学歴史・文献学部 (ru) ロシア語・ロシア文学科へ入学した[2]。この間にも詩作を重ね、1908年夏にチフリスで最初の詩集『黄昏の夢』(hy) が出版されるや、テリアンの名は瞬く間に知れ渡った[2]。1910年には、大学での研究の傍ら文芸・芸術年鑑『春』«Գարուն» を編集・発行し、同時期にはオスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』の翻訳も行った[2]。翌1911年2月、テリアンはモスクワでスサンナ・パハロヴァ (Сусанна Пахалова) と結婚した[2]。1912年には、アルトゥル・シュニッツラーの小説『ベルタ・ガルラン夫人(ドイツ語版)』や、ヴァレリー・ブリューソフのいくつかの詩を翻訳し、テリアンの詩集はモスクワでも出版されるようになった[2]。だが、この頃のテリアンは金銭的には困窮した[2]。革命運動への関与によってブトゥイルキ監獄(ロシア語版)への勾留も経験した[1]。

1913年10月、テリアンはモスクワ大学からサンクトペテルブルク大学東方言語学部 (ru) へ移り、ニコライ・マルに師事した[2]。テリアンは詩作や翻訳、文芸誌の編集を続けたが、1917年に結核の診断を受け、療養のためスフミのサナトリウムへ入った。この年と前年には妻が女児を出産したが、いずれも死産か夭逝であった[2]。

十月革命がペトログラードで勃発すると、テリアンはボリシェヴィキのステパン・シャウミャンから、新たなソビエト・ロシア政府でのポスト就任を打診された[2]。そして1917年12月、テリアンはヴァルラーム・アヴァネソフの副官として、民族問題人民委員部アルメニア人部門の委員に就任した[2]。同年にはボリシェヴィキに入党し[7]、ウラジーミル・レーニンの要請に基づいて「トルコ領アルメニアについて」の布告草案を作成した[8]。翌1918年のブレスト=リトフスク条約締結交渉においても、テリアンはロシア側顧問として交渉に参加している[2]。6月には、アヴァネソフとともにアルメニア人向けのロシア政府機関紙の発行を開始した[2]。また、アルメニア人虐殺を逃れた避難民を援助するため、医療チームを引き連れて北カフカースやヴォルガ地域へ赴いたりもした[2]。第3回 (ru)・第4回 (ru) の全ロシア・ソビエト大会(英語版)にも出席者として選ばれている[7]。

同年秋からテリアンの結核は悪化し、モスクワのサナトリウムへと入ったが、アルメニア第一共和国のダシュナク党政府から派遣された医師による治療は拒否した[2]。この時期、テリアンは人民委員部の部下であったアナヒト・シャヒンジャニアン (Անահիտ Շահինջանյան) との間に女児を儲けている[2]。1919年には全ロシア中央執行委員会(ロシア語版)メンバーとしてトルクメニスタンへの派遣が予定されていたが[1]、病状の悪化により秋には療養のためサマーラへ、次いでオレンブルクへと移り、このオレンブルクへの列車内で最後の詩を書いた[2]。そして、テリアンはそのまま回復することなく、1920年1月7日にオレンブルクで死去した[2]。

遺体はオレンブルクの墓地に葬られたが、正確な墓所はいつしか分からなくなり、1964年に娘の手によって、墓地の土のみがエレヴァンのコミタス・パンテオン(英語版)へ改葬された[2]。

作風

テリアンの詩は抽象的かつ感覚的であり[6]、その頭韻法や擬音語を駆使したスタイルは西洋文学にはあまり見られない特徴を持っている[9]。韻律やリフレインが多用されるため、他言語への翻訳には困難が伴う[9]。テリアンはトリオレ(ドイツ語版)、ソネット、ガザル、テルツァ・リーマなど様々な詩形をアルメニア語詩へ持ち込んだ第一人者であるが[6]、死後に社会主義リアリズムの時代が始まると、その抽象詩は退廃的であるとして当局からの批判にも晒された[9]。

遺産

脚注

  1. 1 2 3 "Vahan Teryan". Writers.am. 2016年9月17日閲覧。
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 “Vahan Teryan - A Chronological Biography Compiled for Teryan.com Site”. Teryan.com. 2015年8月15日閲覧。
  3. ↑ Терьян // Стансы — Фортегуерри. — М. : Художественная литература(ロシア語版), 1939. — (Литературная энциклопедия : [в 12 т.] / гл. ред. А. В. Луначарский ; 1929—1939, т. 11).
  4. ↑ Hachikyan, Agop J.; Basmajian, Gabriel; Franchuk, Edward S. et al., eds (2005). The Heritage of Armenian Literature. III: From the Eighteenth Century to Modern Times. Detroit, Michigan: Wayne State University Press. p. 958. ISBN 978-0814332214
  5. ↑ Арутюнян А. Александр Мясникян и становление Второй Республики // 21-й ВЕК : журнал. — Ер.: НОФ «Нораванк», 2015. — № 1 (34). — С. 60.
  6. 1 2 3 Ганаланян О. Ваан Терьян, биография. Teryan.com. 2015年8月15日閲覧。
  7. 1 2 Терьян // Струнино — Тихорецк. — М. : Советская энциклопедия, 1976. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 25).
  8. ↑ 中島偉晴『閃光のアルメニア - ナゴルノ・カラバフはどこへ』J.P.P. 神保出版会、1990年、422頁。ISBN 978-4915757037。
  9. 1 2 3 Der Hovanessian, Diana. "Vahan Derian". Teryan.com. 2015年8月15日閲覧。
  10. ↑ Վահան Տերյանի տուն-թանգարանը, Գանձա, Ջավախք. Ջավախք Մեդիա. 1 November 2013. 2017年4月17日閲覧。
  11. ↑ ՀՈՒՇԱՐՁԱՆ` ՎԱՀԱՆ ՏԵՐՅԱՆԻ. Հայաստանի Հանրապետության մշակույթի նախարարություն Պատմամշակութային ժառանգության գիտահետազոտական կենտրոն. 2017年4月17日閲覧。
  12. ↑ Երևանի քաղաքապետարանի տեղեկատվությանև հասարակայնության հետ կապերի վարչություն (10 February 2016). Տերյանական ընթերցումներ` Վահան Տերյանի ծննդյան տարեդարձի առիթով. Երևանի քաղաքապետարանի պաշտոնական կայք. 2017年4月17日閲覧。
  13. ↑ Հուշարձաններ. Երևանի քաղաքապետարանի պաշտոնական կայք. 2017年4月17日閲覧。

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