一条政房

ウィキペディアから、無料の百科事典
 
一条政房
時代 室町時代 - 戦国時代初期
生誕 嘉吉3年(1443年)
死没 文明元年10月17日(1469年11月20日)
官位 従二位、権大納言
主君 後花園天皇→後土御門天皇
氏族 一条家
父母 一条教房
兄弟 一条房家
テンプレートを表示

一条 政房(いちじょう まさふさ、嘉吉3年(1443年)? - 文明元年10月17日(1469年11月20日)は、室町時代から戦国時代初期にかけての公卿。関白左大臣・一条教房の長男。官位は従二位・権大納言。

生涯

室町幕府8代将軍・足利義政の偏諱を受け、政房と名乗った。

応仁の乱の時、京都の騒動から避けるため、単独で摂津福原に下向し、後醍醐天皇のゆかりの宿でもあったの福厳寺に隠れた。しかし、文明元年(1469年)10月17日に東軍の山名是豊・宇野政秀らが福原に乱入、長槍を持った兵士に心臓を一刺しされ、少しも抵抗せず「南無西方極楽世界阿弥陀仏」と唱えて死去した。その時の服装は装束のまま直衣狩衣の優美な御姿であったという。

政房の死は父・教房をはじめ、祖父・兼良や叔父・尋尊などの一族のみならず、天皇や公家といった朝廷の面々、さらには彼を知っていた東軍・西軍の武将まで悲しませたという。彼を殺した兵は政房と分かった後、自害したとも出家したともいうが明らかでない。

官歴

『諸家伝』による。

参考文献

  • 正宗敦夫編『諸家伝』日本古典全集刊行会、1940年