佐藤ひでこ

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佐藤 ひでこ(さとう ひでこ、1962年5月24日- )は、日本のピアニスト。東京都出身。旧姓 佐藤秀子。ゲンリフ・ネイガウス、ヤコブ・ザーク、エミール・ギレリスの孫弟子。日本人で最初のダンタイソンの弟子[1]。

人物

生い立ちから桐朋学園の音楽教室をやめるまで

1962年 東京都新宿区の慶応義塾大学病院で生まれる。東京都渋谷区代々木で育つ。私立代々木幼稚園 (祖父の従兄弟が経営: 後の渋谷区立山谷幼稚園)卒業。渋谷区立山谷小学校(現: 渋谷区立代々木山谷小学校、1978年渋谷区立代々木中学校卒業。中2から東京音楽大学付属音楽教室で研鑽を積み、そのまま東京音楽大学付属高校へ進学。

物心付く前から東京音楽大学ピアノ科講師をしていた永井進門下の実母 佐藤麗子からピアノの専門教育を受け[2]ていたが、次第に母の指導に従わなくなったことから、母は小2から桐朋学園大学音楽学部附属子供のための音楽教室に入室させたという[2]。佐藤麗子の師は東京芸大の永井進だったが、秀子はピアノの練習をあまりしない子供だったことから、麗子は「永井系の先生だとご迷惑がかかるから」と言う理由で、麗子とは全く関係のない桐朋学園に入室させたという。小3からは、小林愛実の師の二宮裕子の実母のピアニストの山口喜久子に師事していた[2]。レッスンも順調だったという。当時、二宮裕子はアメリカに留学中で、山口喜久子と交友関係にあったアリシア・デ・ラローチャが二宮不在のピアノの部屋によく練習しに来ていたとのことだが、もし秀子がラローチャの演奏を聴いていたとしたら秀子のピアノ嫌いは、それほど酷くならなかったのではないかときく。順調に進んでいたはずのレッスンだが、秀子が小5の時に山口喜久子は健康上の問題で桐朋学園を辞めた。山口の退職後、秀子は桐朋学園側から自動的につけられた師の下でピアノを学ぶことになった。当時、生徒側から大学側に希望の師を届け出ないと、大学側が自動で振り分けるシステムだった。しかし新しい師のレッスン場所は一軒家の地下室にあり、そこにはアップライトピアノ以外はおかれていない裸電球1つだけがぶら下がってるコンクリートの壁の湿った薄暗い部屋でレッスンが行われ、K先生はピアノの鍵盤の端に足を投げ上げてレッスンをするのが常であった。小6の秀子は、そのようなレッスンに嫌気をさしていた。当時、秀子はまだ芸術性のあるピアノ演奏を聴いたことがなく、機械的な訓練や、周りから聴こえてくる汚いピアノの音色から、ピアノを好きになれなかったため[2]、桐朋学園大学音楽学部附属子供のための音楽教室6年生でやめ、ピアノもやめた。[2]

※ 当時、桐朋学園子供のための音楽教室はピアノのレッスンは先生の自宅、聴音ソルフェージュの授業は仙川の桐朋学園内で行われていた。

東京音大の音楽教室から高校中退まで

ピアノを辞めていた秀子は中学2年の1976年より東京音楽大学付属音楽教室で再びピアノを学ぶことになった[2]。井口愛子が1974年に桐朋学園大学から東京音楽大学に移った際、東京音楽大学付属音楽教室を設立した。東京音楽大学ピアノ科で指導にあたっていた秀子の母 佐藤麗子は、当時、東京音楽大学助教授の志村安英から「お嬢さん東京音大の音楽教室で学びませんか」と薦められ、秀子は東京音大附属音楽教室で志村安英と井口愛子の下、再びピアノの専門教育を中2から受けることになった。

ピアノのレッスンは桐朋の頃とは違い、先生たちとの相性も良く、与えられた課題も秀子の特質に合致していたためか、順調に上達していった。高校入試ではサン=サーンス:第5協奏曲のフィナーレによるトッカータ Op.111-6などを演奏した。順調に入学した附属高校だったが、入学2カ月目の5月、高校の階段の上から足を踏み外し下まで落ちた。左手骨折、右手のひらをザックリ切り、7月頃までギブスをはめていたため全く練習ができない日々となった。9月にエチュードとバッハの試験があり、1か月程でピアノ演奏家コースの課題曲のショパンとリストのエチュードを仕上げた。井口愛子が秀子へ与えた課題は、ショパン25-1、リスト超絶技巧練習曲 第7番「エロイカ」だった。試験を一緒に受けた生徒は、小川典子、東誠三、大竹道哉などがいたと聞く。無事に試験も終わったが、当時の15, 16才にしては大曲を短期間のうちに仕上げなければならない過度な集中練習で秀子の精神は疲労、次第にピアノから興味がなくなり学校へも行かなくなり中退した。

4年間のブランクを経て、再び東京音大へ、美しい演奏を求めて

秀子が16才で東京音大附属高校を中退してから2年遅れての20才で大学入学までの4年間は謎が多い。空手をやっていたと聞くが、高校も複数通ったようだ。秀子は日本女子体育大学付属二階堂高校から東京音大に進学しているが、ピアノを再開すると決めたのは高3の夏だと公式HP[2]から知ることができる。当初はあまり真剣にピアノを始める気持ちはなく、桐朋学園短期大学(現: 桐朋学園芸術短期大学)、国立音楽大学の保育科などを視野にいれ夏期講習などにも出席していたようだ。東京音大のピアノ科の受験を決定したのは入試の数か月前だと知ることが同じく公式HPから知ることができる[2]。附属高校で当時は、少人数制の英才教育を実施するために井口愛子が設立した「ピアノ演奏家コース」に、選ばれて所属していたが、4年間のブランクを経て再び東京音大に外部から入学した際には、ピアノはあまり真剣にはやらない予定であったと聞く。秀子は大学入学直後の1年生の5月に1回目の結婚をしている。紀尾井町のホテルニューオータニでの挙式および披露宴には、東京音大の当時の野本良平理事長や、井口愛子、志村安英などが招待されたときくが、主賓テーブルには誰1人と出席がなかったようだ。大学1年生の12月、秀子の母は、どこからか日本フィルとダン・タイ・ソンのチケットを手に入れ母娘で聴いたことが、後の秀子の運命をピアノの世界へ誘うきっかけとなった。秀子は生まれて初めて「ピアノの音はこんなに美しい響きであったか」を知ったという。秀子は「ONTOMO MOOK 人生をより豊かにする音楽と医学(2024年3月発売 音楽之友社)」で伊熊よし子氏からのインタビュー内で「ダン・タイ・ソンの美しい演奏や、その奏法を手に入れたいと思った」と答えている。その頃、秀子のピアノへの情熱が生まれた。

東京音大、鉄のカーテンの向こう側 ソビエト連邦へ、東京音大卒業まで

東京音大に入学はしたが1年生の12月から秀子の行動は次第に変化していった。当初、秀子は「東京音大は卒業をするだけ」で、ピアノを全く一生懸命に学ぶ気持ちはなかったため、東京音大附属高校で選抜されて所属していたピアニストを養成する「ピアノ演奏家コース」ではなく「ピアノ科」を入学時希望し受験した。秀子は1年生の5月に結婚をし、当初住んでいた世田谷区梅丘のアパートでは電子ピアノを置き、軽く練習をしていたそうだ。秀子は、日本女子体育大学付属二階堂高校に2年生に編入し卒業したとのことだが[2]、編入前の夏頃から通い始めた全日本空手道連盟に属する剛柔流空手道「拳剛会」(当時 世田谷区経堂)で空手の鍛錬に勤しんでいたという。全日本空手道連盟剛柔会は山口剛玄が創始者であり、秀子が入会したきっかけは、実父 佐藤宗司が「連日部屋にこもりピアノの集中練習ばかりしていると秀子は精神は破壊する、運動は必須」との考えで、当時 父 宗司が通っていた世田谷区経堂の拳剛会の空手道場に無理やり通わされたという。最初は気がすすまなかった空手であるが次第に楽しく通うようになったそうだ。秀子が物心ついた時、実父は既にニューヨークに単身赴任をしており、秀子が小学4年生あたりまでは海外勤務が多く、長い年数 離れて暮らしていたとのことだが、秀子にとり父と共に通った空手道場での日々が、父と過ごした唯一の良い想い出になっているという。秀子の最初の結婚相手は剛柔流空手道の当時 指導員(全日本選手権、国民体育大会、関東大会、東京都大会に出場、1980年剛柔会全国大会で初優勝し6年連続優勝、型10年連続優勝、1993年第1回空手道剛柔会世界大会で組手優勝、型優勝、自由組手2位。1997年第2回空手道剛柔会世界大会において組手優勝、自由組手も優勝 以上HPより)であった影響から、秀子も一時は空手家をめざしていたときく。1984年頃、次の1988年ソウルオリンピックでは空手かテコンドーが種目に入る噂があり、秀子の結婚相手を含む道場の指導員や師範たちはオリンピック出場を目指して鍛錬を積む日々であった。秀子もその影響を受けて極度の集中スクワットをし両膝を痛めたのもこの時期だという。しかし1年生の12月にダン・タイ・ソンの奏でる美しく芸術性のある演奏に出会い感激し、その演奏の美しさを手に入れたいと思った秀子はすぐにピアノに傾いたという。秀子はモスクワ音楽院のダン・タイ・ソンの師ウラディーミル・ナタンソン Vladimir Natanson(1909〜1994)の下で研鑽を積みたいと思ったとのこと。1983年当時ダン・タイ・ソンはモスクワ音楽院の大学院生で、第10回ショパン国際ピアノコンクールでアジア人出身ピアニスト初の第1位と金メダルを取得後、ドミトリー・バシキーロフに師事していたが、2つの派に分かれるロシア奏法のなかでも、ダイナミックなソビエト学派であるドミトリー・バシキーロフではなく、秀子はダン・タイ・ソンのようなメロディーを歌で歌うような美しい演奏を手にいれたいと思っていたため、ダン・タイ・ソンがモスクワ音楽院に留学しショパン国際ピアノコンクール出場前に学んでいたロシア学派のウラディーミル・ナタンソンの下で研鑽を積みたいと思ったときく。1983年3月頃、空手からピアノに気持ちが傾いた秀子は、実家のピアノでの練習に集中する時間が増えていき、結婚相手とは自然に別居、12月には離婚が成立し、秀子は当時のソビエト連邦白ロシア共和国の首都にあるミンスク音楽院(現 ベラルーシ国立音楽院)にレッスンを受けにいったという。ミンスク音楽院では、モスクワ音楽院でヤコブ・ザークとエミール・ギレリスの下で学んだロシア学派のNatalya Tyomkina教授およびソビエト学派のアレクサンドル・ツェリャコフ(当時ツェリャコフは助手、秀子が学んだ1983年から3年後には第8回(1986年)チャイコフスキー国際コンクールピアノ部門第4位に入賞している)に師事をした。秀子は初めて学んだロシア学派のレッスンの素晴らしさに感激をし、日本に帰国したらすぐに東京音大を中退しソ連に留学をしようと思ったそうだ。当時、日本からソ連との国家間の留学は当時の文部省によると交換留学制度であり、才能や音楽家の血筋を重んじる当時のソ連の音楽院への留学には教授や音楽院からの「招待状」をもらえないと留学は不可能であったそうだが、秀子はNatalya Tyomkinaからミンスク音楽院への受け入れの招待状を受け取っていた。ちなみに当時1970年代にソ連に留学可能ピアニストはレフ・オボーリンの弟子となった野島稔とヤコブ・フリエールの弟子となった高山三知子の2人のみであることは音楽界で良く知られているが、招待された日本人は秀子が日本人で3人目であったことから、当時の東京音大の理事長 野本良平もソ連の音楽院からの秀子への招待状には驚いたそうだ。ソ連の音楽院からの招待状がもらえたことで「日ソ音楽家協会(現 日本・ロシア音楽家協会)」でも、1987年当時は専門家のみの大人のみが入会可能であった会だというが、学生の身分で正会員となった。しかし秀子を待ちうけていたものは、秀子の実父 佐藤宗司と師の井口愛子の猛反対であった。実父 佐藤宗司は「国家間で何かがあった場合、ソ連からは出国不可能、日本には帰国できなくなる、鉄のカーテンの向こう側には助けにいくことは不可能」当時のソ連はそれほど厳しい国であったという。井口愛子は秀子が再びピアノに一生懸命になったことは知らず「私みたいな人間なら大学など卒業をしなくても構わないが、秀子さんは日本の大学くらいは卒業しておきなさい」と厳しく説教したそうだ。やむを得ず日本に留まり、将来の自分の演奏の理想を脳裏に強く置き、とりあえず東京音大を卒業することになった。

東京音大卒業からポーランド留学まで

音楽歴[1]

1965年3才から東京音楽大学ピアノ科講師(1961-79)の実母 佐藤麗子よりピアノの手ほどきを受ける。1970-1974年 桐朋学園大学音楽学部附属子供のための音楽教室ピアノ科。1976-1978年 東京音学大学付属音楽教室ピアノ科。1978-1979年 東京音学大学付属高校ピアノ演奏家コース入学・中退。1983-1987年 東京音楽大学ピアノ科。1985年 旧ソビエト連邦ベラルーシ共和国国立音楽院(短期)。1988-1989年 ポーランド国立ショパン音楽アカデミー Postgraduate ピアノ科1年修了。1989-1990年 ポーランド国立クラコフ音楽アカデミーPostgraduate ピアノ科2年修了。[3] 1994年 第4回チッタ・ディ・カントゥ国際ピアノ協奏曲コンクール ロマン派部門 diploma[3] AfiA, ピアニスト・オーデション2018(派遣先イタリア / イタリア文化会館協力 / 2000年度第11回出光音楽賞受賞者の村中大佑主催)[3] 

佐藤は40人の評論家が選ぶコンサートベストテン2023(音楽之友社)に選ばれた[3] 。このベストテンは、毎年1回 音楽之友社の「音楽の友2月号」の誌上で発表され、40人の日本を代表する評論家が、日本人を含む世界的な一流オーケストラや演奏家が日本で開催した全てのコンサートのなかから10人(組)を選出するものだが[4]、佐藤が23年ぶりの復帰リサイタルを2018年に開催後[2]たった5年目で年間莫大な公演のクラシックのコンサートの中から10位以内にランクイン。

演奏の特徴 / 評論

佐藤はロシア学派の正統的な奏法を受け継ぎ、鋭い感性を究極に美しい音色で極めてデリケートな解釈で奏でる演奏家である。繊細で叙情的な面を持ち合わせている反面、非常に激しい気性も持ち合わせている。[5] 繊細で透明度の高いピアニズムの持ち主である彼女は、同時にすこぶるナイーブで感じやすい感性を有しており、自分が感じ取ったその純度の高い音楽を物おじせずに堂々と表現して、筆者に深い感銘を与えてくれた。[6] 驚くほどキメの細かい演奏であって、そのセンシティブな表現には、ショパンの音楽を深く追体験した者のみに可能な人間的な感情の機微が随所に息づいていた。[6] その純粋無垢(むく)な叙情的表現の質に特に見るべきものがあり、これほどまで清らかに歌い上げられたこのソナタの演奏は、筆者がこれまでに接したことがなく、そこで繰り広げられている天国的な世界は、あらゆる聴き手を引き付けるアピールを放っていた。[6] 白眉は、何と言っても最後のベートーヴェン『ピアノ・ソナタ第31番』であると指摘されなければならない。最晩年の傑作の一つとして誉れ高いこの作品は、確かに楽聖の精神美の極致を象徴する名作の一つに他ならないが、佐藤のアプローチは、それを筆者の想像を上回るほどまでに掘り下げており、特にフィナーレなどは、身震いするほどの神々しさを感じさせた。[6]

主な演奏歴[1]

1985年旧ソビエト連邦白ロシア国立ミンスク音楽院 1990年 クラコフ音楽院大ホール(オールショパンプログラム Poland)。1995年 帰国記念リサイタル(東京・津田ホール、新潟・新発田市民会館、群馬・大泉町文化むら大ホール)。2018年 復帰リサイタル(すみだチェリーホール、赤坂ベヒシュタインセンター、浜離宮朝日ホール)。2019年 ピストイア市立マベリーニ音楽院[7](Italy)。2020年リサイタル(東京文化会館小ホール、 逗子文化プラザなぎさホール、二宮町生涯学習センター ラディアンホール)、11月YouTube動画収録(逗子文化プラザなぎさホール)、2021年3月二宮町生涯学習センターラディアンホール(YouTube動画収録)、2022年3月小田原三の丸大ホール(YouTube用動画収録)、5月逗子文化プラザなぎさホール(YouTube動画収録)、2022年9月小田原三の丸大ホール「宗次エンジェル基金/日本演奏連盟正会員のための公演活動支援事業」、2023年11月東京文化会館小ホール(CDリリース記念)「宗次エンジェル基金/日本演奏連盟正会員のための公演活動支援事業」

主な師事歴[1]

佐藤麗子、志村安英、井口愛子、野島稔、中島和彦、関根有子、Natalya Tyomkina、Dang Thai Son、岩崎淑、Irena Sijałowa-Vogel (student of H. Neuhaus).

ディスコグラフィ

2023/11/8 De Profundis(デ・プロフンディス) フォンテック FOCD9889[1][8][3]

プレスリリース

2024年3月発売 ONTOMO MOOK 「人生をより豊かにする音楽と医学」音楽之友社[1]

インタビュー / コラム など[1]

・プロの流儀をとことん聞き取る「キキゴタエ」

・伊熊よし子の クラシックはおいしい「佐藤ひでこ」

教育/審査員/音楽系学会[1][9]

1987-不明 日ソ音楽家協会(現: 日本・ロシア音楽家協会) 正会員(ワルシャワ留学で会費無納入のため資格消滅)、 1987-88 日ソ協会正会員、日本ベトナム友好協会 会員、 1992-(公社)日本演奏連盟正会員、 1995-2019 ピティナ・ピアノ・コンペティション 審査員、 1995-2019(一社)全日本ピアノ指導者協会 フェステバル実行委員(旧: 企画委員会)、 1995-2010(一社)全日本ピアノ指導者協会 国際委員、 1996-2013 東京音楽大学付属音楽教室 ピアノ科助手、 1996-2019 ピティナ・ピアノステップ アドバイザー、 1996-2019 日本音楽療法学会 正会員、 1996-2024 日本・ロシア音楽家協会 正会員、 2000-2010(一社)全日本ピアノ指導者協会 国際委員会 副委員長、 2014-2018 日本・ロシア音楽家協会 事務局、 2016-全日本ジュニアクラシック音楽コンクール 審査員、 2017- 東京国際ピアノコンクール 審査員、 2018- 楽器奏者のためのフォーカル・ジストニア回復レッスン、 2020- 【 M & H Music Festival in Pistoia 】CEO / 芸術監督 / ピアノ教授、 2022- HS classic International Piano Performance institut CEO / ピアノ教授

医学研究歴[1]

1989年ポーランド留学中にピアノのジストニアに罹患し、2016年に独自が開発したリハビリ方法で完全完治に至り完全に元の機能を取り戻し[10]、2018年23年ぶりに浜離宮朝日ホールで復帰リサイタルを開催し演奏活動再開[10]。ピアノ奏者のジストニアを解明、順天堂大学大学院医学研究科で研究をしている[1]。

2020年から HSclassic International Piano Performance Institute で専門的にピアノを学んだピアノジストニア患者にリハビリレッスンを実施している[11]。

2023-2025年 順天堂大学大学院 医学研究科 医科学専攻 神経学講座 修士課程(MMSc 医科学修士)[1] [2][3]、2023-日本神経学会(学生会員)、日本神経精神薬理学会(学生会員)、日本神経治療学会(学生会員)、2024-日本基礎理学療法学会(専門会員 B)、2025-順天堂大学大学院 医学研究科 医学専攻 神経学講座 博士課程入学予定[1][2]

親族

父は、佐藤宗司(1932-2008、慶応義塾大学法学部卒、元日本フィリップス株式会社相談役およびフィリップス・ライティング株式会社取締役会長)[1]。母は、佐藤麗子(1934- 新潟県新発田市出身。東洋音楽短期大学ピアノ科卒(現:東京音楽大学)永井進に師事、昭和36年-54年東京音楽大学ピアノ科講師)。[1] 父の実兄(伯父)は、佐藤隆一(1920-1983 慶応義塾大学医学部卒 医師 医学博士、元国立ガンセンター内分泌治療研究室長、日本実験医学研究所所長(現 SRD生物センター)、吉田富三博士が発見したラットの腹水癌である吉田肉腫の植えつけに成功したドンリウラットおよびセロシオンの開発者 )。実母の麗子には実兄が2人いる。実母の上の兄(秀子の伯父)は、大岩泰[12] 東京大学法学部卒、元通産省官官僚(インドネシアなど)太平洋金属、第51回(昭和52年)に(一社)資源・素材学会で学会賞受賞 が記録から知ることができる。実母の2番目の兄(秀子の伯父)は、大岩明雄(東京工業大学卒、元東芝役員 原子炉設計[13])。

外部リンク

・HSclassic  International  Piano  Performance  Institute

・M & H Music Festival in Pistoia(Italy)

・HSclassic official channel(YouTube)

脚注

  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 “佐藤ひでこ OfficialSite | HSclassic”. hidekosato.com. 2025年3月6日閲覧。
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 “Profile”. HSclassic. 2025年3月6日閲覧。
  3. 1 2 3 4 5 6 “佐藤 ひでこ(秀子) (Hideko Satoh) - マイポータル - researchmap”. researchmap.jp. 2025年3月6日閲覧。
  4. ↑ 音楽の友 編『コンサート・ベストテン&ベスト・アーティスト2023』音楽之友社、2024年2月、37-68頁。
  5. ↑ “Review”. HSclassic. 2025年3月6日閲覧。
  6. 1 2 3 4 “アリス=紗良・オット『ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番、エリーゼのために 他』【今月のクラシック】:時事ドットコム”. 時事ドットコム. 2025年3月7日閲覧。
  7. ↑ “La scuola” (イタリア語). Teatri di Pistoia. 2025年3月5日閲覧。
  8. ↑ “佐藤ひでこ/De Profundis | フォンテック fontec web shop powered by BASE”. フォンテック fontec web shop. 2025年3月6日閲覧。
  9. ↑ “佐藤 ひでこ(秀子) (Hideko Satoh) - マイポータル - researchmap”. researchmap.jp. 2025年3月6日閲覧。
  10. 1 2 長谷川, 修; 佐藤, ひでこ (2023). “音楽演奏家ジストニアの発症機序と治療への考え方”. 日本病院総合診療医学会雑誌 19 (1): 62–67. doi:10.60227/jhgmwabun.19.1_62.
  11. ↑ “ピアノ奏者のための佐藤ひでこPianoAcademy┃HSIPPI┃日本”. HSIPPI. 2025年3月8日閲覧。
  12. ↑ 大岩泰 (1977-8). “「アンタム社ポマラ・フェロニッケル精錬所建設について」”. 『日本鉱業会誌』 (日本鉱業会) 93巻 (1074号).
  13. ↑ 大岩明雄 (1968). “火力発電用タービンのルブ” (日本 (JPN)). 配管と装置 (逐次刊行物 (A)) (巻: 8 号): 13-18. JSTOR S0250A JST資料番号: S0250A. "抄録/ポイント: 抄録/ポイント 文献の概要を数百字程度の日本語でまとめたものです。部分表示の続きは、JDreamⅢ(有料)でご覧頂けます。 J-GLOBALでは書誌(タイトル、著者名等)登載から半年以上経過後に表示されますが、医療系文献の場合はMyJ-GLOBALでのログインが必要です。火力発電所のタービン用として使用されるバルブの形式,材質,ロ径の選択,配管系統に使用されるバルブで特に火力発電タービン用として特色のあるものについて,それらの特殊性および問題点などについて記載している。また火力発電タービン用バルブの実例として,高圧給水筒管用弁,大形バルブのエアモータ駆動装置,抽気逆止弁,タービン駆動ボイラ給水ボンブタービン用,復水ポンブ吸込側バタフライ弁,品質管理などを紹介;写図8表2"