党進
経歴
幼くして魏博節度使の杜重威に仕えた。その誠実で人情に厚く、慎重な性格を杜重威に愛された。党進は壮年になっても、姫妾とともに雑侍をつとめた。杜重威が敗れると、党進は膂力によって軍隊に属した。後周の広順元年(951年)、散指揮使に任じられ、鉄騎都虞候に累進した。北宋の建隆元年(960年)、本軍都校に転じ、欽州刺史を遥領した。馬歩軍副都軍頭となり、虔州団練使を遥領した。虎捷右廂都指揮使に任じられ、睦州防禦使を遥領した。建隆2年(961年)、閬州防禦使を遥領した。乾徳元年(963年)、龍捷左廂都虞候に転じ、利州観察使を遥領した。乾徳4年(966年)、権歩軍をつとめた。杜審瓊が死去すると、党進は代わって点検侍衛歩軍司事をつとめた。乾徳5年(967年)、彰信軍節度使を遥領し、侍衛歩軍都指揮使を兼ねた[1]。
開宝元年(968年)、北漢の征討が計画されると、党進は河東行営前軍を率いることとなった。開宝2年(969年)、太祖趙匡胤の軍が晋陽の四面に砦を置くと、党進はその東面の砦の主となるよう命じられた。軍が整列しないうちに、北漢の将の楊業が突騎数百を率いて来襲すると、党進は自ら数人を従えて楊業を撃退した。楊業は急いで堀の中に入ると、援兵がやってきて、縁にすがって入城し逃れることができた。太祖は党進を称賛した。開宝6年(973年)、党進は侍衛馬軍都指揮使に転じ、鎮安軍節度使を遥領した。開宝9年(976年)、再び河東行営の兵を率いて北漢を討ち、北漢軍を城北で破った。太祖が死去すると、党進は開封に召還された[1]。
太平興国2年(977年)、党進は忠武軍節度使として出向した。許州に駐屯すること1年あまりのある日、外から帰ってくると、大蛇が寝台の上の寝巻の中に臥していたため、党進は怒って、大蛇を煮て食った。病のため死去した。享年は51。侍中の位を追贈された[2]。
子女
- 党崇義(閑厩使)
- 党崇貴(閤門祗候)[3]
脚注
伝記資料
- 『宋史』巻260 列伝第19
参考文献
- 『宋史』中華書局、1985年。ISBN 7-101-00323-0。