分かれたる家演説

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演説が行われたスプリングフィールドの旧イリノイ州会議事堂(2009年撮影)。

分かれたる家演説(わかれたるいええんぜつ、英: House Divided Speech)は、1858年6月16日、エイブラハム・リンカーンがイリノイ州スプリングフィールドで、共和党イリノイ州大会の閉会にあたって行った演説。大会は同日、リンカーンを上院議員候補とする決議を採択していた[1][2]。

演説名は、冒頭近くで引かれた聖書の句「分かれたる家は立つこと能わず」に由来する[3][4]。邦訳(岩波文庫)はこの句を題とし、同書の解説は「『分かれたる家は立つこと能わず』演説」と呼ぶ[5]。

リンカーンは冒頭で、国が「半ば奴隷、半ば自由」の状態のままでは永続できず、全体が一方のものになると述べた。演説の大半は、カンザス・ネブラスカ法とドレッド・スコット判決を結びつけた共謀の指摘と、スティーブン・ダグラスを共和党の味方とすることへの反論に費やされている[6]。

演説は、ブキャナン政権と対立した民主党の現職上院議員ダグラスに、共和党内で接近論が広がる中で行われた。[7]。ダグラスはこの演説を攻撃の材料とし、リンカーンは急進派との非難への対応に追われた[8]。一方、長期的にはリンカーンの声望を大きく高め[4]、のちに全国に報じられるリンカーン・ダグラス論争の枠組みを決めた演説とされる[9]。

背景

1858年5月7日に撮影されたリンカーンのアンブロタイプ。撮影者はエイブラハム・バイヤーズ。

1854年のカンザス・ネブラスカ法は、それまで奴隷制が禁じられていたルイジアナ買収地の一部に、準州の住民が奴隷制の可否を決める人民主権の原則を適用した。1857年のドレッド・スコット判決で最高裁は、連邦議会には準州で奴隷制を禁じる権限がないと判断し、ダグラスの人民主権論の前提を揺るがした[10]。政治学者の高木八尺は邦訳版(岩波文庫)の解説で、リンカーンの奴隷制に対する姿勢を、西部の準州への奴隷制の拡大を防ぐ政策に重点を置くものと説明している[11]。

直接の政治的文脈は、ダグラスの離反であった。1857年末から1858年初めにかけて、ダグラスはルコンプトン憲法(英語版)によるカンザスの州昇格に反対してジェームズ・ブキャナン政権と対立し、共和党寄りに向かうかに見えた。ホレス・グリーリーは『ニューヨーク・トリビューン』紙などで、ダグラスはもう一期の上院議員に値し、イリノイ州の共和党もその再選に協力すべきだと論じた[12]。修辞学者・コミュニケーション学者のデイビッド・ザレフスキー(英語版)によれば、ダグラスは決別後に共和党の議員らと会い、党を移って再選を目指すのではないかという観測が広がったが、4月の民主党州大会が人民主権の綱領を再確認したことで、信憑性を失った[13]。東部の共和党指導者について、ドン・E・フェーレンバッカー(英語版)は、ウィリアム・スワードもダグラスを支持する用意があったようだとし[14]、ザレフスキーによれば、5月末にスワードやサーロウ・ウィードら東部の指導者は、イリノイ州の選挙に干渉する意図はないと表明して身を引いた。この表明にグリーリーは加わっていなかった[13]。

ダグラスと戦ってきたイリノイ州の共和党員は、これを受け入れがたいとして東部からの干渉に反発した。5月下旬から6月初めの各郡大会の多くで、リンカーンを上院議員の唯一の候補とする決議が採択された[15]。6月16日の州大会の決議は、この動きの再確認であると同時に、ダグラスを支持する東部の共和党員への反発でもあった[15]。

さらに、シカゴ市長ジョン・ウェントワースが上院議員候補になるという噂を民主党系の新聞が流しており、フェーレンバッカーはこれを事実に反するとする[16]。ザレフスキーは、噂の多くは作られたものだったが、リンカーン自身もこれを深刻に受け止め、州大会で正式に指名される目的は、何よりもウェントワースをめぐる絶え間ない不平を封じることにあると述べたと記す[17]。一方、リンカーンの伝記を著したマイケル・バーリンゲーム(英語版)(Michael Burlingame)は、指名の動議が予告なく出されたと報告している。ザレフスキーは、このことからリンカーンの説明は後から付けられたものだった可能性があるとみる[18]。

州大会が上院議員候補を指名するのは米国政治で前例がなかった。当時の上院議員は州議会が選出しており(直接選挙になったのは1913年の修正第17条以降)、リンカーンも1855年にこの方式で挑戦して敗れている。フェーレンバッカーによれば、決議は州議会の権限への介入であり、上院議員の直接選挙への一歩でもあった[19][20]。フェーレンバッカーの論文は、この決議がなければリンカーン・ダグラス論争はおそらくなかっただろうとする。ダグラスはリンカーンの共同遊説の提案を退け、7回の討論を逆に提案したが、対立候補が共和党の候補として明確に指名されていたことが、そこまで応じさせたという[1]。

成立の経緯

準備

リンカーンは、大会の直前に友人たちに原稿を読み聞かせた[4]。リンカーンの伝記『Herndon's Lincoln』の共著者であるウィリアム・ハーンドンは[21]、演説の準備に約1か月をかけたと述べており、フェーレンバッカーは、最終稿についてはおそらく事実だろうとする[22]。

リンカーンの文書には、演説の骨子と一部の語句を含む未完の草稿(「ハウス・ディバイデッド断片」)が残る。バスラー編の全集はこれを1858年5月18日頃のものとしたが、フェーレンバッカーは、内容の検討から1857年12月下旬に書かれたと論じた。根拠として、ブキャナンの年次教書(12月8日)に触れながら翌年2月の特別教書に触れていないこと、12月18日にダグラスが提出した法案を現在の争点として扱っていることなどを挙げる[23]。ザレフスキーもこの推定を支持し、断片を演説の最初の草稿とみなしてよいとする[24][25]。フェーレンバッカーによれば、断片は、ダグラスとの提携の拒否、「分かれたる家」の一節、共謀の指摘の3部から成り、リンカーンは演説に際して、ダグラスを退ける部分を短くして末尾に移し、共謀の指摘を大きく拡充した[26]。断片が公の場で使われた記録はない[27]。

先行する言及

聖書の句は、すでに1843年に、リンカーンら3人のホイッグ党員が党の結束を訴える回状で引いている。フェーレンバッカーは、1858年までにこの句が一種の決まり文句になっていたとする[28]。ザレフスキーも、当時リンカーンがホイッグ党に、大会を開いて候補を一本化するよう促していたと述べる[29]。

「半ば奴隷、半ば自由」という定式の萌芽は、1855年8月15日付のジョージ・ロバートソン宛の書簡に見える。リンカーンはこの書簡で、国が永久にこの状態を続けられるかという問いを記した(原文: Can we, as a nation, continue together permanently—forever—half slave, and half free?)[30]。書簡は問いに答えを示さず、問題は自分には重大にすぎるとして、神の導きを願う言葉で結ばれている[31]。岩波文庫版はこの書簡をこの観念が初めて現れたものとして位置づけ、解説は、のちの演説の思想の核心がすでに述べられているとみる[32]。フェーレンバッカーは、同じ問いは他の人々も発しており、リンカーン自身も後に、この考えの創始者であることを否定したと指摘する。リンカーンに固有の貢献は、考えの創案ではなく、これを連邦解体の断固たる拒否と結びつけた点だとした[33]。リンカーンは、リッチモンドの『Enquirer』紙が1856年にこの概念を用いたことを繰り返し引いた[34]。ザレフスキーは、リンカーンが同紙上の奴隷制擁護論者ジョージ・フィッツヒューの論説に触発されたと自ら述べたとする[24]。

共謀論の萌芽として、フェーレンバッカーは、1854年10月16日のピオリアでの演説の一節を挙げる。奴隷制の拡大への宣言された無関心の裏に、真の熱意を見て憎む、という趣旨である[33]。ただし、1857年6月26日にスプリングフィールドで行ったドレッド・スコット判決に関する演説には、共謀の指摘も「半ば奴隷、半ば自由」の命題も含まれていなかった[35]。

1856年のブルーミントンでの演説でこの考えを述べたという伝承については、見解が分かれる。フェーレンバッカーは、ハーンドンの伝記の曖昧な記述が誤って受け取られた可能性が高いとし、元になった友人T・ライル・ディッキーの回想も後年に書き留められた裏付けのないものだと注意を促す[36]。一方ザレフスキーは、ブリッグズ(John Channing Briggs)が、この句が同年の「失われた演説」にあったとする同時代人の証言を挙げていると紹介する[24]。

演説

内容

演説は、現在地と進む方向を知れば何をなすべきかをよりよく判断できる、という前置きで始まる。この一文は、ダニエル・ウェブスターの「ヘインへの答弁」の冒頭の言い換えで、終盤の表現にもウェブスターの結びからの借用がある[37]。リンカーンは、奴隷制をめぐる動揺を終わらせるという公約のもとに政策が始まって5年になるが、動揺はやむどころか増しており、危機に達してそれを通過するまでやまないだろうと述べた[38][3]。そのうえで、聖句を引いて次のように述べる。

「分かれたる家は立つこと能わず」(マルコ伝三の二五)[注釈 1]。半ば奴隷、半ば自由の状態で、この国家(ガヴアメント)が永く続くことはできないと私は信じます。私は連邦が瓦解するのを期待しません――家が倒れるのを期待するものではありません。私の期待するところは、この連邦が分かれ争うことをやめることです。それは全体として一方のものとなるか、あるいは他方のものとなるか、いずれかになるでしょう。 — 高木・斎藤訳[3]

演説の原文には聖書の書名も章節も示されていない[38]。この句は、新約聖書のマタイの福音書12章25節、マルコの福音書3章25節、ルカの福音書11章17節に見える[39]。

続けてリンカーンは、二つの帰結を示した。一つは、奴隷制の反対者が拡大を阻止し、奴隷制が最終的な消滅(ultimate extinction)の途上にあると世論が信じる状態にすること。もう一つは、擁護者が奴隷制を新旧すべての州で合法にすることである[40]。

リンカーンは、事態が後者、すなわち奴隷制の全国化の方向に傾いていると論じる根拠として、ネブラスカ法の理論とドレッド・スコット判決が組み合わさってできた法的・政治的な機構を挙げた。この機構が整う経過を、第一にカンザス・ネブラスカ法による連邦議会の禁止(ミズーリ妥協)の撤回、第二にブキャナンの当選による人民の確認の取得、第三にドレッド・スコット判決とダグラスの無関心な政策の結合、という段階で述べている[41]。

さらにリンカーンは、ドレッド・スコット判決の要点を、黒人の市民権の否定、準州からの奴隷制排除の否定、自由州で奴隷として所有された者の地位を奴隷州の裁判所に委ねること、の3点とした。いずれも、将来の奴隷制の永続につながるよう考案されたものだと述べた[42]。

一連の出来事は建築の比喩で説明された。別々の時と場所で別々の作り手(原文はworkmen)が用意した部材が、家や工場の骨組みとして寸分違わず組み上がっているなら、作り手たちは最初から共通の設計に従って働いたと信じざるをえない、という論法である[43]。作り手の例としてファーストネームで挙げられた4人について、訳書の注記と原文の編者注(バスラー)は、スティーブン・ダグラス、フランクリン・ピアース、ロジャー・トーニー、ジェームズ・ブキャナンと同定している[44][45]。ただしリンカーンは、これらの符合がすべて事前の打ち合わせの結果だとは、はっきりわかっているわけではないとも述べている[44]。

その先の予測として、リンカーンは、準州だけでなく州についても奴隷制の排除を認めない新たな最高裁判決が出うると述べた。世論が準備されないうちはその判決は出ないが、人々が奴隷制の行方に無関心になったとき、イリノイ州のような自由州が、気づかぬうちに奴隷州にされかねないと警告した[46]。

終盤でリンカーンは、奴隷制の全国化をはかる勢力(演説の語は「王朝」)の力に立ち向かい、これを打倒することが、その完成を防ごうとする者の務めだと述べた[47]。この語の指す対象は、訳書が〔民主党〕と補うのに対し、ザレフスキーは共謀と補って読んでおり、補い方が分かれている[48][47]。

続けてリンカーンは、ダグラスを共和党の味方として使えるという声に反論した。ダグラスは奴隷制の拡大に抗する立場になく、共和党を助ける力を欠いた存在だと述べ、伝道の書の句を引いた[49][4]。また、ダグラス派の新聞がアフリカ奴隷貿易の復活に抵抗するにはダグラスの才能が要ると論じていることに触れ、ダグラスが奴隷制を財産権の問題として論じてきた以上、外国からの奴隷貿易に反対する根拠を持たないはずだと論じた[50]。結びでは、共和党が2年前に130万票を超える票を得たことを挙げ、勝利を確信すると述べた[51]。

フェーレンバッカーは、演説の所要時間を30分から35分程度とし、構成を、冒頭の「分かれたる家」の部分(全体の約7%)、共謀の指摘(約72%)、ダグラスを退ける終盤の部分(約21%)の3つに分けている[22]。

公刊

演説の全文は、まず『Illinois State Journal』(1858年6月18日)と『Chicago Daily Tribune』(6月19日)に掲載された。リンカーンは、『Journal』の社に原稿を持ち込み、イタリック体にする語に印を付け、校正を確認した[52]。のちにダグラスとの論争の記録集をまとめるにあたり、リンカーンは、自分とダグラスの演説の新聞切り抜きを貼った帳面を共和党中央委員会のジョージ・M・パーソンズに送った。『Tribune』の本文はその帳面に貼られ、リンカーン自身の訂正が書き込まれている。この帳面は、フォレット・フォスター社版の論争集(1860年刊)の編集に用いられた[53]。演説の冒頭の説明文(指名されたこと、ダグラスが出席していなかったこと)は、リンカーン自身が帳面に書いたものである[54]。

反応

リンカーンが事前に原稿を聞かせた友人たちは、ほぼ一致して反対した[4]。ザレフスキーは、ハーンドンを除く助言者の多くが、演説をしないよう勧めたと記す[52]。岩波文庫版の解説は、意見を求めた近親者十数名の全員が、半ば奴隷、半ば自由という言明に賛成しなかったと書く[55]。ハーンドンは、賛成したのは自分だけだったと回想しており、他の同席者の証言もこれを支持するとされる。ただしフェーレンバッカーは、ハーンドンが回想する、原稿のまま演説すれば大統領になれるという予言が実際にあったかは疑わしいとする[56]。ザレフスキーも、この回想はリンカーンの死後の神格化の影響を受けたものとみる[57]。活字になった演説を称賛したジョン・L・スクリップスは、奴隷州の奴隷制に戦争を仕掛ける約束と誤解されることを懸念した。レナード・スウェットは、のちにこの教義を不運で不適切だったと評した[58]。ザレフスキーによれば、スウェットは演説が選挙の敗因だったと考えていた[59]。

懸念の理由は、演説が、ダグラスを破るために必要な票を遠ざけかねないことにあった。上院議員選挙の帰趨は、州中部の接戦の郡で決まるとみられ、そこは旧ホイッグ系の勢力が強く、奴隷制廃止論の行き過ぎを嫌っていた。リンカーンの冒頭の言葉は、彼を危険な急進派とみなす民主党の非難にさらすことになった[60]。ザレフスキーは、助言者が、国が一方のものになるという言葉が奴隷制の廃止の主張と受け取られること、予測と自分の望みの表明とが混同されることを恐れたと述べる[61]。

ダグラスは、この演説を繰り返し攻撃の材料とした。冒頭の一節を、革命的で南北間の戦争を煽る試みだと非難し[62]、国が一方のものになるというなら、リンカーンは国を全面的に自由にすることを望む奴隷制廃止論者だと論じた。さらに、根拠を示さず、または文脈を離れて、リンカーンが人種間の社会的・政治的平等を支持していると主張した[63]。ザレフスキーは、討論の21の演説のうち20で、この演説が言及されたと数える[63]。

リンカーンは、演説の1週間後のスクリップス宛の書簡で、南部の奴隷制に干渉する意図はなく、奴隷制の拡大が阻止されれば奴隷制は最終的な消滅の途上に置かれると信じており、使った言葉はそれだけを意味したと述べた[64]。数週間後には、何かに賛成を表明したのではなく、起こると予想することを述べたにすぎないという趣旨の釈明もしている。フェーレンバッカーは、リンカーンの予測は共和党が特定の方針をとることを前提としており、この釈明は額面どおりには受け取れないとする[65]。

反対を押し切った際に、リンカーンが、この演説のために敗れるのなら真理とともに敗れたいと答えたとする逸話がある。ハーンドンの回想に基づく伝承で、岩波文庫の解説も同趣旨を伝えられる話として記す[55]。フェーレンバッカーは、記憶から掘り起こした直接話法は後世の脚色であり、動機の証拠としては不十分だと述べる[66]。

選挙結果とその後

当時の上院議員は州議会が選出したため、結果は州議会議員選挙の議席で決まった。ダグラスは中部の接戦の郡の約3分の2を制し、再選を確実にするだけの議席を得た。共和党の州議会議員候補の得票は、民主党を上回っていた[7]。ザレフスキーは、リンカーンが急進派だとの非難を払拭できなかったことが、結果の主要な要因の一つだったようだとみる。リンカーンは選挙戦の多くを演説の急進的な含意からの後退に費やし、討論では、白人の優位や、黒人の投票権・陪審への参加・白人との結婚への反対を述べた。ザレフスキーはこれを当時の政治的な損害抑制の試みと位置づけ、成功は限られたとする[57]。

ザレフスキーによれば、リンカーンは演説後も共謀の主張を捨てず、討論や1859年のオハイオ州での遊説でも用いた。1860年のクーパー・ユニオン演説は共謀を明言しないが、ダグラスを建国者の遺産に反する立場に置く点で、その前提を引き継いでいるという[67]。1858年の選挙戦の後、南部の民主党員は、準州での奴隷制を連邦が積極的に保護するよう求めるようになり(federal slave code)、1860年の大統領候補選びで踏み絵にした。ダグラスはこれを受け入れられず、民主党の分裂がリンカーンの当選を可能にし、可能性も高めたという。ザレフスキーは、この因果を演説だけに帰すべきではないとしつつ、演説が論争の焦点を当面の問題から長期的な傾向へ移したとみる[68]。

評価

演説の目的

演説の意図については、いくつかの説明が提出されてきた。

旧来の説明として、預言者のように結果を顧みず語ったとする説は、ハーンドンの回想に由来する。フェーレンバッカーは、回想に基づく引用は史料として疑わしく、1858年のリンカーンの人物像とも合わないと批判する[66]。大統領選を見据えた賭けとする説は、アルバート・ベヴァリッジ(1928年)やリチャード・ホーフスタッター(1948年)らが唱えた[注釈 2]。フェーレンバッカーは、同時代の記録に裏付けがなく、リンカーンが選挙戦に大きな労力を注いだことと合わないとする[69]。アーサー・C・コールは、1923年の講演で、リンカーンが奴隷制擁護論による白人労働者全体への脅威を意識していたと論じた。フェーレンバッカーは、限定的な妥当性は認めつつ、演説にその主題は現れないとする[70]。

フェーレンバッカーは1960年の論文で、演説を、ダグラスの離反がもたらした共和党内の混乱への直接の応答とみた。奴隷制が最終的な消滅の途上にあるという共和党の目標を定義し、ダグラスらとの教義上の隔たりを際立たせることで、人民主権論への後退を防ぐことが狙いだったとする。この説によれば、演説を呼び起こしたのはダグラスの離反であり、ドレッド・スコット判決ではない[71]。ザレフスキーは2010年の論文で、これを引き継ぎつつ、演説の本文を選挙戦への応答として読んだ。目的として、(1)ダグラスとの違いを際立たせる、(2)ダグラスとブキャナンの決別の意義を小さく見せる、(3)党内の多様な勢力を結ぶ原則を示す、(4)事態の緊急性を示して投票意欲を高める、の4点を挙げる[72]。

ザレフスキーによれば、このほかにも読みが示されている。マイケル・レフ(Michael Leff)は時間の扱いが予測の説得力を高めている点を、マイケル・ウィリアム・ファウ(Michael William Pfau)は「家」が連邦と共和党の両方を指すという読みを、前述のブリッグズは共謀の指摘が聴衆を目覚めさせる緊迫感を与えたという読みを、それぞれ示している[73]。

冒頭の一節について、ザレフスキーは、リンカーンが示した二つの帰結が非対称だと指摘する。一方は奴隷制の全国化だが、もう一方は廃止ではなく、拡大を阻止して世論が奴隷制の最終的な消滅を信じる状態にするという封じ込めである[74]。内戦の予言とする通俗的な理解については、リンカーンが連邦の解体を予期しないと明言していることを挙げて退け、演説は修辞の巧みさよりも先見の明で記憶されがちだとする[75]。フェーレンバッカーも、冒頭の挑発性は主張の中身より修辞の力強さにあると指摘する。この箇所には南部への非難も攻撃的な行動の提案もなく、「永続的に」(permanently)という語が遠い将来を見ていることを示している。リンカーンは討論でも、戦争も暴力もないと述べた。一方で、この一節は予測であると同時に、共和党の目的の表明でもあったとする[76]。岩波文庫の解説は冒頭の一節を演説でもっとも重要な部分とみる[77]。これに対しフェーレンバッカーは、冒頭の数分以後を尻すぼみとみなす風潮に異を唱え、演説は一貫した主題に貫かれていると述べる[22]。

共謀の指摘

フェーレンバッカーは、1960年の時点で、多くの歴史家がこの指摘を党派的な誇張とみなしていると述べる。1858年に奴隷制を自由州に押し込もうとする組織的な動きや、最高裁にそうした意向があったことを示す証拠は見当たらず、アラン・ネヴィンズは1950年の著書でこれを馬鹿げた幻影(absurd bogey)として退けた[78][79]。フェーレンバッカー自身は、当時の状況では、4年前のカンザス・ネブラスカ法に始まる出来事の連なりに不吉な型を見て、背後に何らかの申し合わせを想像することは、理性的な人にも自然だったと論じる。リンカーンは後の演説で、共謀の存在は推論できても証明はできないと認め、ダグラスが共犯者ではなく利用された側かもしれないとも述べた。また、警告は絶対的なものではなく、奴隷制への無関心が広がれば何が起こりうるかを述べた条件付きのもので、主な標的はダグラスとその追随者だったという[78]。リンカーンの論法を擁護する議論としては、ハリー・V・ジャッファ(1959年)がある[80]。

ザレフスキーによれば、ファウは、歴史家が共謀の主張を真剣に扱わず、リンカーンを非難さえしてきた傾向に批判的である。この傾向は修正主義の歴史家に特に強かったが、彼らに限られなかったという[81]。ザレフスキー自身は、事実として誤りだと退けるだけでは、指摘の意味と演説の中での働きを見落とすと論じる。ブキャナンはカンザス・ネブラスカ法の成立時に国外にいた、トーニーはこの法と無関係だった、ドレッド・スコット判決はダグラスの人民主権論と相反した、リンカーンもダグラスとブキャナンが対立中だと知っていた、というデイヴィッド・ハーバート・ドナルドの指摘を紹介したうえでの議論である[82]。ザレフスキーは、リンカーンが指摘を主流の議論として受け入れさせるために、次のような手法を用いたとする[83]。

  • 行為から意図を推論する。
  • 部材が組み上がる物語で、個々には弱い論拠を一つの型にまとめる。
  • 後から見れば不可解だった出来事を、共謀を想定すると説明できると示す。
  • 将来の判決(ザレフスキーのいう「ドレッド・スコット第二判決」)との類比を用いる。
  • 具体的な語やイメージを選ぶ。
  • 証明できる範囲を超えて断言しない。

またザレフスキーは、リンカーン自身が指摘を信じていたとし、同年夏の覚書に、この演説で動かしがたい事実を並べて共謀の存在が証明されると考えたと記していることを挙げる。リンカーンは、証拠が状況証拠であることを認めつつ、共謀の存在以外のどの仮説とも両立しないと考えた[84]。ザレフスキーは、共謀の主張が19世紀の政治言説の常套の型であり、新しい党が自らの存在を正当化する手段でもあったとする議論(ファウら)を紹介し、犯罪の告発としてではなく言説の型として理解すれば、事実として誤りだと切り捨てるのは適切ではないと論じる[85]。将来の判決の可能性についても、ザレフスキーは、当時レモン事件が下級審を進んでいたと述べる。ドレッド・スコット事件の研究で知られるフェーレンバッカーが、最高裁が奴隷制に有利な判決を出した可能性はかなり高かったと評価していることを紹介している[86][87]。リンカーン独自の点として、ザレフスキーは、共謀者を南部の農園主ではなく北部の民主党員とみたこと、公然の政治的行為を重視したこと、標的を「この政府」としたこと、法的・政治的な手段を具体的に示したことを挙げる[88]。

一方、岩波文庫の解説は、4人の共謀の指摘を、歴史の事実に基づく法律家の堅固な理論の展開として肯定的に読んでいる[77]。

長期的な影響と評価

フェーレンバッカーは、演説は長期的にはリンカーンの政治的な声望を大きく高めたとする。広く読まれて称賛され、党の指導者たちの中でリンカーンを際立たせ、共和党の名句の作り手としてスワードと並ぶ水準に引き上げた。ただし、演説が当面のイリノイ州の必要に合っていたかは別問題だとする[4]。

ザレフスキーは、演説は短期的にはリンカーンを傷つけたが、全国的な経歴の出発点になったと論じる。論拠として、(1)ダグラスが演説を攻撃し続けた結果、全国に報じられる論争に発展し、演説が選挙戦の枠組みを決めたこと、(2)共謀の論理を主流の政治に持ち込み、共和党の主張に緊迫感を与えたこと、(3)同年の秋にウィリアム・スワードが行った、奴隷制と自由のあいだの抑えがたい対立(irrepressible conflict)を説く演説と比べ、リンカーンの説明が分裂の指摘にとどめた抑制的なものだったことが、旧ホイッグ系の支持を保つうえで役立ったこと、を挙げる。スワードが示したのは社会を破壊する道徳的・文化的な分裂で、廃止論に近く受け取られかねなかったのに対し、リンカーンが示したのは「この政府」を損なう政治的な分裂で、争点は選挙での選択だったという。ただし因果関係は単純ではないとし、1854年のピオリア演説(英語版)や1860年のクーパー・ユニオン演説を転機とみる立場にも触れている[89]。

後世の言及

2007年2月10日、バラク・オバマはスプリングフィールドの旧州議事堂の前で大統領選への立候補を表明し、この場所でかつてリンカーンが「分かれた家」に団結を呼びかけたと述べた[90][91]。マーシャル(Chris Marshall)は、立候補表明にはこの演説の反響が見られる一方、オバマの語る「分裂」が何を指すかは明示されず、聴衆の解釈に委ねられているという[92]。この用法に対しては、リンカーンの演説は奴隷制を擁護する南部との妥協を拒むものだったとして、オバマは趣旨を逆に解しているとする批判もあった[93]。

マーシャルはまた、オバマが2008年の選挙演説で、この演説をゲティスバーグ演説などとともに意識的に参照したと論じる[94]。オバマは2008年のスーパーチューズデーの演説でも、自らの選挙戦がこの聖句の確認から始まったと述べた[95]。

脚注

注釈

  1. ↑ 引用中の「(マルコ伝三の二五)」は訳書による補足で、演説の原文にはない。
  2. ↑ この項で挙げる人物の見解は、フェーレンバッカーの論文での紹介による。原著は参照していない。

出典

  1. 1 2 Fehrenbacher 1960, p. 615.
  2. ↑ Zarefsky 2010, pp. 421, 428.
  3. 1 2 3 高木・斎藤 1992, p. 43.
  4. 1 2 3 4 5 6 Fehrenbacher 1960, p. 618.
  5. ↑ 高木・斎藤 1992, pp. 43, 164.
  6. ↑ Fehrenbacher 1960, p. 627.
  7. 1 2 Zarefsky 2010, pp. 423, 446.
  8. ↑ Zarefsky 2010, pp. 445–446.
  9. ↑ Zarefsky 2010, pp. 446–447.
  10. ↑ Zarefsky 2010, p. 424.
  11. ↑ 高木・斎藤 1992, pp. 159–160.
  12. ↑ Fehrenbacher 1960, pp. 616–617.
  13. 1 2 Zarefsky 2010, p. 426.
  14. ↑ Fehrenbacher 1960, p. 616.
  15. 1 2 Fehrenbacher 1960, pp. 617–618.
  16. ↑ Fehrenbacher 1960, p. 618, 脚注8.
  17. ↑ Zarefsky 2010, p. 427-428.
  18. ↑ Zarefsky 2010, p. 450, 注22.
  19. ↑ Fehrenbacher 1960, pp. 615–616.
  20. ↑ Zarefsky 2010, p. 423.
  21. ↑ Zarefsky 2010, p. 453, 注64.
  22. 1 2 3 Fehrenbacher 1960, p. 631.
  23. ↑ Fehrenbacher 1960, pp. 637–639.
  24. 1 2 3 Zarefsky 2010, p. 428.
  25. ↑ Zarefsky 2010, p. 450, 注25.
  26. ↑ Fehrenbacher 1960, pp. 640–641.
  27. ↑ Fehrenbacher 1960, p. 639.
  28. ↑ Fehrenbacher 1960, pp. 639–640, 脚注62.
  29. ↑ Zarefsky 2010, p. 427.
  30. ↑ Basler 1953, p. 318.
  31. ↑ 高木・斎藤 1992, p. 31.
  32. ↑ 高木・斎藤 1992, pp. 31, 160, 165.
  33. 1 2 Fehrenbacher 1960, p. 634.
  34. ↑ Fehrenbacher 1960, p. 634, 脚注52.
  35. ↑ Fehrenbacher 1960, pp. 636–637.
  36. ↑ Fehrenbacher 1960, pp. 635–636.
  37. ↑ Fehrenbacher 1960, p. 622, 脚注20.
  38. 1 2 Basler 1953, p. 461.
  39. ↑ Zarefsky 2010, p. 451, 注27.
  40. ↑ 高木・斎藤 1992, pp. 43–44.
  41. ↑ 高木・斎藤 1992, pp. 44–48.
  42. ↑ 高木・斎藤 1992, pp. 48–49.
  43. ↑ 高木・斎藤 1992, pp. 50–51.
  44. 1 2 高木・斎藤 1992, p. 50.
  45. ↑ Basler 1953, p. 466, 注5.
  46. ↑ 高木・斎藤 1992, pp. 51–53.
  47. 1 2 Zarefsky 2010, p. 442.
  48. ↑ 高木・斎藤 1992, pp. 52–53.
  49. ↑ 高木・斎藤 1992, p. 53.
  50. ↑ 高木・斎藤 1992, pp. 53–54.
  51. ↑ 高木・斎藤 1992, p. 55.
  52. 1 2 Zarefsky 2010, p. 444.
  53. ↑ Basler 1953, p. 461, 注1.
  54. ↑ Basler 1953, p. 461, 注2.
  55. 1 2 高木・斎藤 1992, p. 166.
  56. ↑ Fehrenbacher 1960, pp. 618–619, 脚注10.
  57. 1 2 Zarefsky 2010, p. 446.
  58. ↑ Fehrenbacher 1960, pp. 618–619.
  59. ↑ Zarefsky 2010, p. 453, 注57.
  60. ↑ Fehrenbacher 1960, p. 619.
  61. ↑ Zarefsky 2010, pp. 444–445.
  62. ↑ Fehrenbacher 1960, p. 622.
  63. 1 2 Zarefsky 2010, p. 445.
  64. ↑ Fehrenbacher 1960, pp. 624–625, 脚注27.
  65. ↑ Fehrenbacher 1960, p. 623.
  66. 1 2 Fehrenbacher 1960, pp. 619–620.
  67. ↑ Zarefsky 2010, p. 447.
  68. ↑ Zarefsky 2010, pp. 447–448.
  69. ↑ Fehrenbacher 1960, pp. 620–621.
  70. ↑ Fehrenbacher 1960, pp. 631–633.
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  72. ↑ Zarefsky 2010, pp. 422, 428.
  73. ↑ Zarefsky 2010, p. 422.
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  75. ↑ Zarefsky 2010, pp. 430–431, 448.
  76. ↑ Fehrenbacher 1960, pp. 622–623.
  77. 1 2 高木・斎藤 1992, p. 167.
  78. 1 2 Fehrenbacher 1960, pp. 628–630.
  79. ↑ Zarefsky 2010, p. 451, 注32.
  80. ↑ Fehrenbacher 1960, p. 629, 脚注38.
  81. ↑ Zarefsky 2010, p. 451, 注33.
  82. ↑ Zarefsky 2010, pp. 433–434.
  83. ↑ Zarefsky 2010, pp. 434–439.
  84. ↑ Zarefsky 2010, p. 440.
  85. ↑ Zarefsky 2010, pp. 440–441.
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参考文献

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  • Zarefsky, David (2010). “Lincoln and the House Divided: Launching a National Political Career”. Rhetoric & Public Affairs (Michigan State University Press) 13 (3): 421-454. ISSN 1094-8392. 
  • エイブラハム・リンカーン 著、高木八尺・斎藤光 訳『リンカーン演説集』(第29刷)岩波書店〈岩波文庫〉、1992年7月16日。ISBN 978-4-00-340121-7。 

関連項目

外部リンク