劉重進
劉 重進(りゅう ちょうしん、899年 - 968年)は、五代十国時代から北宋にかけての軍人。もとの名は晏僧。本貫は幽州[1]。
経歴
後梁の末年、軍籍に属した。後晋の初年、契丹語を習い、契丹への使節に応募した。右班殿直となり、重進の名を賜った。西頭供奉官に転じ、再び契丹への使節をつとめた。契丹の太宗はかれの機敏で賢明なことを買って、帳前通事として留めた。まもなく契丹が華北に侵入すると、重進は許州忠武軍節度使をつとめた[1]。
後漢の天福12年(947年)、重進は鄧州威勝軍節度使に任じられた[2]。後漢の法では牛革の禁が厳しかった。鄧州の民の崔彦や陳宝選ら8人が鄧州から牛革を使った皮鼓を持って漢祖廟を訪れると、重進は杖罰を与えてかれらを派遣した。判官の史在徳は重進の法的判断が間違っているとして、極刑に処すよう言上した。大理寺と刑部が審議して、重進の判断は是とされた。史在徳は罪に問われて、杖罰を受けて死去した[1]。
乾祐3年(950年)、重進は節度使を退任して入朝した。郭威が起兵して封丘にいたると、重進は左神武統軍の袁義とともに兵を率いてこれを阻もうとしが、重進は郭威の進軍を望み見て退却した。後周の広順元年(951年)、太祖(郭威)に従って兗州を討った。ほどなく薛国公に封じられた。まもなく召し出されて右神武統軍となり、検校太師を加えられた。顕徳2年(955年)、世宗柴栄が南唐を征討すると、重進は右廂排陣使となった。顕徳3年(956年)、重進は趙弘殷・韓令坤らとともに揚州を奪取し、先鋒都部署となって、泰州を攻略した。かつて楊行密の子孫が海陵に居住し、永寧宮を号していたが、後周の軍が淮水を渡ると、李璟により殺害された。重進はその家に入り、玉硯・玉杯盤・水晶盞・瑪瑙碗・翡翠瓶を得て世宗に献上した。まもなく判廬州行府事を命じられ、行営都部署を兼ね、南唐軍1000人あまりを州境で破り、さらに500人を白城湖で破った。顕徳4年(957年)、世宗が再び南征すると、南唐軍は紫金山で壊滅した。南唐軍が東山口にいたると、重進は3000人あまりを殺した。周軍が寿州を下すと、重進は功により鄧州武勝軍節度使に任じられた。顕徳5年(958年)、淮南が平定されると、重進は邠州静難軍節度使に転じた。世宗が北漢を征討すると、重進は先鋒都指揮使をつとめた。顕徳6年(959年)、恭帝柴宗訓が即位すると、重進は開府儀同三司となった[3]。
北宋の建隆元年(960年)、重進は燕国公に進封された。建隆2年(961年)秋、右羽林統軍に任じられた。乾徳5年(967年)、左領軍衛上将軍に転じた。乾徳6年(968年)、死去した。享年は70[4]。
脚注
伝記資料
- 『宋史』巻261 列伝第20
参考文献
- 『旧五代史』中華書局、1976年。ISBN 7-101-00321-4。
- 『宋史』中華書局、1985年。ISBN 7-101-00323-0。