宇治川電気51形電車

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宇治川電気51形電車
基本情報
運用者 宇治川電気電鉄部
製造所 藤永田造船所・田中車輛・汽車製造会社東京支店
製造年 1927年 - 1928年
製造数 25両
運用開始 1927年
運用終了 1962年
廃車 1970年
消滅 1983年
主要諸元
編成 1両・2両編成
軌間 1,435 mm
電気方式 直流 1,500 V・直流600V(複電圧対応)
最高運転速度 80 km/h(後の改造により100 km/hに向上)
自重 25.9t
車両定員 92 名(座席44 名)
最大寸法
(長・幅・高)
14,833 mm × 2,387 mm × 3,809 mm
車体長 14,020.8mm
車体幅 2,286 mm
車体高 2,705.1 mm
床面高さ 1,104.9 mm
台車中心間距離 7,772.4 mm
台車 BW-1(ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス(BLW) 78-275-A同等品)
車輪径 864 mm
固定軸距 1981 mm
主電動機 ゼネラル・エレクトリック(GE) GE-263・芝浦製作所 SE-107B
主電動機出力 52.22kW[1]
搭載数 4 個/両
端子電圧 750V
駆動方式 吊り掛け駆動方式
歯車比 2.74
定格出力 208.88kW
定格速度 46.5km/h
制御方式 抵抗制御・直並列制御
制御装置 GE PC・芝浦製作所 RPC-101 電空カム軸式自動加速制御器
制動装置 GE E-J7・芝浦製作所 RE-J7 非常弁付直通ブレーキ
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宇治川電気51形電車(うじがわでんき51がたでんしゃ)は、宇治川電気(宇治電)が自社電鉄部[* 1][3]の兵庫駅 - 姫路駅前駅間直通運転開始に備え1927年より製造した通勤形電車である。

本項では宇治電社内で制御器形式からPC形車と呼ばれた[4]51形とその同系増備車である初代76形の2形式、及び神姫電鉄1形の木造車体を流用改造し、手持ち機器で電装して製造された2代目76形、それらの後身である山陽電気鉄道100・1000形についても紹介する。

製造経緯

第一次世界大戦後、日本の電力業界は供給力過剰に陥っていた。この時期に電力販路の確保を企図した電力会社各社は大口需要家であった電気鉄道を自社傘下に置く事を目指し、兵庫県下でも中国水力電気[* 2]と宇治電が兵庫電気軌道(兵庫電軌)の買収を目論んで交渉に火花を散らす状況となっていた[6]。この交渉の結果、兵庫電軌は宇治電との合併を決定[* 3]、これを受けてかねてより兵庫電軌との合併論があった神戸姫路電気鉄道(神姫電鉄)と宇治電の合併交渉が進んだ[* 4]。かくして宇治電は兵庫電軌・神姫電鉄の2社を順次吸収合併し兵庫-姫路間57.4kmの鉄軌道を保有する電鉄事業者となった[8]。

これに伴い宇治電は合併した両社の事業を承継・統合する形で電鉄部を発足、明石で接する両社線を繋いで兵庫 - 姫路間の直通運転を実施すべく地上施設[* 5]および車両の整備・改修を開始した。

しかし、元来軌道条例に依拠して道路上の併用軌道を走る路面電車からスタートした初期の都市間電気軌道であり、路面電車の面影を色濃く残していた兵庫電軌線と、建設当時のアメリカで流行していたハイスピード・インターアーバンを手本として、地方鉄道法の下で高規格かつ本格的な都市間高速電気鉄道として建設された神姫電鉄とでは、その地上設備・車両ともに規格差が極めて大きく[* 6]、いずれか一方の車両をそのまま直通運転することも不可能であった[14][8]。

このため、双方の規格の最大公約数をとって[* 7]車体寸法を決定し、主要機器については高規格な旧神姫電鉄のものを基本に旧兵庫電軌区間への対応機能を付与する折衷設計を行うことで兵庫 - 姫路間の直通運転を可能とする直通車の製造計画が立てられた。こうして設計されたのが51形[* 8]である。

製造

本形式は神姫電鉄1形からの主要機器流用による車体新製車 (51 - 65) と完全新製車 (66 - 75) の2グループに大別され、さらにその改良増備車として76形 (初代・76 - 85) が追加製造された。

まず、1927年12月[15]に神姫電鉄1形1~15の内13両分の更新名義で以下の13両が藤永田造船所で製造された[16]。

51形51 - 63

続いて1928年4月[15]に最初の2両は前回改造されなかった神姫電鉄1形2両分の更新名義で、残り5両は新造名義で、田中車輛にて以下の7両が製造された[16][17]。

51形64 - 70

また同じく1928年4月[15]に汽車製造会社で全車新造名義で以下の5両が製造された[16]。

51形71 - 75

そして1930年[15][* 9]に増備車として川崎車輛で以下の10両が製造された[19]。

76形76 - 85

もっとも、いずれも細部寸法や形状の相違はあれど基本的には同一設計で性能も同一であり、後述の通り76形が100形(初代)に改形式・改番された後、一時的に特急に限定運用されていたのを除けば、その車歴を通じて共通に運用された。

車体

基本的には神姫電鉄1形の車体デザインを踏襲しつつ軌道線対応の装備を施し、構体を鋼製化したものであり[17]、設計当時の旧兵庫電軌線で運用可能な最大寸法である車体幅7フィート10インチ (2,386mm) 、車体長48フィート (146,304mm) 、車体高8フィート10 1/2インチ (2,705mm) の車体を備える[20]。

既に鋼製車の時代に入っていたことから、神姫電鉄1形の木造シングルルーフ車体ではなく半鋼製リベット組み立てによるシングルルーフ車体となった[17]。

軌道線直通に伴い車体幅が縮小されたことから、神姫電鉄1形では左右2枚が広幅で中央に狭幅の窓を備えた貫通扉が設けられていた前面窓はいずれも同寸の3枚窓構成に変更されており、妻面は緩い曲面を描く丸妻で、非貫通構造である[20][17]。

窓配置は1D (1) 121 (1) D221 (1) D1(D:客用扉、(1):戸袋窓)で、戸袋窓と運転台のある両端の細窓以外の側窓は1段上昇式で、扉間の窓は戸袋窓を含め装飾は無いものの神姫電鉄1形のデザインを踏襲した2枚単位でまとめた構成となっている[16]。戸袋窓は1段固定式、両端の細窓は上方に横桟が入った2段式で、下段は開閉可能で上段相当部分は神姫電鉄1形の該当部分と同様に行先表示窓として使用された[21][22]。

側窓下方に2本の保護棒が取り付けられていたが、これは後に1本が撤去された。

客用扉は両端扉の下部に切り欠き構造の蹴込みを設けたステップと折り畳みステップを追加したステップ2段構成となって併用軌道区間と鉄道区間の双方に対応する[17]。ただし本形式と同様に3扉構成であったが、中央扉に引き戸と連動する折り畳みステップを備えていた兵庫電軌36形[23]とは異なり、中央扉は鉄道区間での乗降専用でステップは未設置とされている[20]。

この設計変更に伴い、前後客用扉下部の蹴込み部や折り畳みステップとの干渉を防ぐため、台車が車体内側へ若干移設された結果、心皿中心間隔は神姫電鉄1形よりも短縮されて25フィート6インチ(7,724mm)となり[20]、メーカーによる形状やリベットの位置などの差異は若干あるにせよ、いずれも神姫電鉄1形より鈍重な外観となった[17]。

ただし、増備車である初代76形の10両については扉間の窓配置が戸袋窓を含む6枚の窓を2枚単位ではなく均等に配した1D (1) 4 (1) D5 (1) D1に変更され、幕板寸法が縮小されたことで、51形の各車よりは幾分軽快な印象となっている[17]。

前照灯は当初は着脱式で昼間は装着せずに運転され、装着時には妻面中央窓下のトロリー・レトリーバーの下に着脱式灯具が1灯、取り付けられる構造であった[22][24]。後には後続の200形と同様に屋根上中央に1灯が固定搭載された。標識灯は新造以来妻面向かって左側の前面窓窓上に1灯のみ装着され、戦後になって妻面向かって右側の前面窓窓上に1灯が追加装着された[24]。

51形と初代76形は併用軌道区間を走行するため、いずれも前面下部にバンパー(折りたたみ式の救助網)[17]を、床下にフェンダー・ストライカーをそれぞれ装着して竣工した[25][21]が、これは後に連結運転が常態化すると自動連結器を用いた連解結作業に支障をきたす[* 10]ことから救助網は1935年に撤去され[26]フェンダー・ストライカーのみとなっている[* 11]。

車内運転台仕切りは床面から立ち上げた4本のパイプを天井の櫛桁に接合し、窓の下辺付近で横方向にパイプを渡して一部を可倒式とすることで乗務員の通行を可能とする、という開放的なデザイン[20][30]である。

座席はいずれも新造時はロングシートを各扉間に設置していた[20]。

51形は1927年の落成時点では暖房設備を備えていなかったが、同年冬までには電気暖房を設置したとされる[13]。

車体塗装は当時の定石通り茶色で、宇治電時代には側面の両端扉近くの腰板に社紋と車両番号を並べて掲げていた。

主要機器

車籍上は51 - 65はアメリカ製輸入機器を全面採用していた[31]神姫電鉄1形からの機器流用車である[17]。これに対し、66以降は日本製の同等機器を新製搭載したとされる[17]が、実際には台車の節で記すように当初より神姫電鉄1形からの機器の装着車について入れ替わりが発生しており、以後も検査の都合もあり輸入品と日本製が特に区別なく混用された。

主電動機

機器流用車はゼネラル・エレクトリック (GE) 社製直流直巻整流子式電動機であるGE-263[* 12]が、新造車はGE社の日本における提携先である芝浦製作所によるスケッチ生産品であるSE-107B[32][33][* 13]が、それぞれ各台車に2基ずつ搭載されている。

GE-263は神姫電鉄1形において採用され、同形式で全界磁にて80km/h運転を可能とする原動力となった機種[31][35][36]であり、歯数比は神姫1形の基本設計を踏襲した宇治電51形以降でも63:23(2.74)と高速運転を重視した設定となっている。このため、歯数比そのままで主制御器に界磁接触器を追加し主幹制御器に弱め界磁段の追加を実施した初代76形→初代100形などでは、界磁制御の併用により最高100km/hでの走行も可能となっている[37]。

駆動装置は当時一般的であった吊り掛け式である。

制御器

51 - 65は神姫電鉄1形由来のGE社製電空カム軸制御器であるPC制御器の直流1,500V対応モデル[* 14]が搭載され、66以降には芝浦製作所がこれをライセンス生産したRPC-101電空カム軸制御器が搭載された[* 15]。これらの制御器は共に直列5段、並列4段という構成で、前述の通り後の初代76形の特急起用に伴う改造で界磁接触器使用による弱め界磁1段が追加された。いずれも主回路の主電動機群で直並列切り替えを行い、また電動発電機などの補機の回路切り替えを行うための電圧転換機を付加[40]、直流600V電化の旧兵庫電軌区間と直流1,500V電化の旧神姫電鉄区間を直通運転可能な複電圧車としている[16]。

電動発電機

主制御器の制御電源用として、直流電動発電機(MG)である芝浦製作所CLG-1を搭載する[* 16][42]。

台車

他の主要機器と同様、51 - 65に旧神姫電鉄1形のボールドウィン(BLW)製で軸距78インチ(≒1,981mm)、心皿荷重上限27500ポンド(≒12.5t)の78-275-A[* 17]形鋼組み立て式釣り合い梁式台車が流用され、66以降の各車にそれと同等設計による日本国内メーカー製の新製台車が装着された[16][51]とされる[* 18]。

これらのボールドウィンA形及びその模倣台車群は第二次世界大戦後、1959年[52]に山陽電鉄社内においてBW-1という社内形式を与えられ、メーカーによらず完全に互換の同等品として扱われた[44][42]。

51形および76形(初代)が装着したこれらの台車は、新製当初はいずれも踏面片押し式の基礎ブレーキ装置を備えていた。

ブレーキ

空気ブレーキについても機器流用車グループについては神姫1形のそれをそのまま継承し、旧式のGE社製E-J7非常弁[53]による非常弁付直通ブレーキ[41]が採用された[54]。これに対し、完全新造車については機器流用車のGE製に対し芝浦製の同等品[* 19]が搭載された。

これにより、1両での単行運転に加え列車管と非常管の2本のブレーキホースの接続で2両連結運転が可能である[41]。

また、全車ともこの時代の電車の通例通り非常用としてブレーキシリンダーに代わってブレーキロッドを駆動し各台車の基礎ブレーキ装置を作用させる手ブレーキが搭載されており、車掌台側に巨大な手ブレーキハンドルが設置されている。

集電装置

当初は神姫電鉄1形と同様、ホイール式のトロリーポール[51]を前後に1基ずつ搭載した[* 20]。

連結器

多客時に連結運転を実施するため、神姫電鉄1形と同様に各車の前後に自動連結器を装着する[56]。連結器中心高は685.8 mm(27インチ)である[57]。

運用

就役開始後、本線全線で主力車として長く重用された。

宇治電時代には列車種別として兵庫 - 姫路間全線を運行する急行と直通、それに架線電圧が直流600Vの兵庫 - 明石[* 21]で運転される普通の3つの列車種別が存在し、51形と初代76形は電圧転換機を搭載する複電圧車であったことから急行と直通に充当された。急行は兵庫 - 姫路間を当初86分、途中駅の追い越し設備の整備や軌道改良などが進んだ1932年10月のダイヤ改正では所要78分まで所要時間の短縮が進んだ[60]。

特急運転

特筆すべきは、山陽電気鉄道発足後の1934年9月のダイヤ改正において新設され、所要70分で兵庫 - 姫路間を走破した速達列車種別である特急[* 22]へ、当時の山陽電気鉄道が保有する直通車の中で最新の初代76形76 - 85が起用・充当されたことである[62]。

途中長田、西代、須磨、塩屋、垂水、明石駅前、西新町、東二見、高砂、大塩、妻鹿、飾磨に停車するこの列車への充当にあたっては、初代76形76 - 85の10両について1935年に台車の基礎ブレーキ装置も踏面片押し式から踏面両抱き式に、つまり枕梁側からシューを車輪の踏面に押しつけるだけではなく、車輪の前後からブレーキシューを抱き込むように押しつけることでブレーキ力を増大させる機構に改造[63][26]されてブレーキ性能の向上が図られ、主制御器についても界磁接触器を追加して運転台の主幹制御器に弱め界磁段を新設、神姫電鉄1形以来の全界磁段における最高速度80km/h[31]を超える高速度での運転実施を可能とした。

ブレーキ装置の改造は後に他の51形全車(1938年)と直通運転に用いられる電動貨車5両にも実施され[48][26]、51形74が茶色一色の塗装のまま特急の種別表示板を掲げている姿も写真に残されている[57]が、これら初代76形10両については、さらに1935年に扉間で左右向かい合うロングシートのうち、中央扉を挟んで前後で千鳥配置となるように片方を撤去し、その跡に2人掛けの固定式クロスシートを設置する工事[* 23]が実施され、長距離直通客を重視する特急車としてのサービス向上が図られた[48]。

加えて同年には51形・初代76形の全車について端梁部バンパーの撤去が実施されている。

これらセミクロスシート化された初代76形10両については車両のイメージアップをはかるため[63]1936年に以下の通り改番が実施され、初代100形となった[24]。

76形76 - 80 →100形106 - 110
76形81 - 85 →100形101 - 105

また、同年からの200形1次車導入開始に伴い在来車についてもこれと同様な塗色とすることとなり、上半クリーム・下半ブルーのツートンカラーへの塗り替えが開始されている[64]。

もっとも、初代100形のクロスシートについては戦時体制下で山陽沿線への工場立地が急速に進み、網干線の建設が行われるなどして輸送力確保の要請が強くなったことなどから1940年に全車ともロングシートに復元され、長続きしなかった[48]。一旦はツートンカラーへ塗り替えられた塗装についても、資材入手難から粗悪な品質の茶褐色1色塗りへの変更が行われている[64]。

その一方で、200形以降の新型車で客用扉にドアエンジンが完備され自動扉となった[65]事から、この1940年から1948年にかけて51形・100形全車に対しても各客用扉へのドアエンジン追加による自動扉化工事が実施された[65]。

なお、複電圧設計の直通車である本形式は1940 - 1941年にかけて開業した網干線でも運用されるようになっている。

2代目76形

1942年には輸送力確保のため、直通運転開始時に主要機器を取り外された状態で明石工場周辺に留置されていた旧神姫電鉄1形の木造車体の内、宇治川電気時代に近江鉄道へ譲渡されなかった6両分の車体を線路方向に向かって中心線に沿って割断、約2.7m幅の元車体を中心部で0.3m分切り取って車体幅を51形などと同等の約2.4mとなるように切り詰めた上で各部材をつなぎなおし、前後扉にステップを追加した上で車体を組み立て直す工事を実施した[66][67][68]。こうして完成した車体に山陽電鉄自社手持ちの機器を搭載・装着して2代目76形76 - 81とした[51]。もっとも、主要機器、中でも電装品の調達はままならず、本来の計画では全て単行運転可能な制御電動車とする予定であったが、実際には76と78の2両のみが正規の制御電動車として落成、残る77・79 ー 81の4両は必要な電装品が完全には入手できなかったため、主電動機は搭載されていたものの、単独での運転は不可能となり51形と常に連結して固定編成で運用される事となった[66][26]。

このため51形59 - 62がその相方として選ばれ、以下の様に編成を組んだ[26]。

61-77
59-79
60-80
62-81

これらは架線電圧直流1,500Vの下で112kW電動機4基の制御が可能とされた[39]RPC-101主制御器の制御容量の大きさを利用して2両分のSE-107B 52kW電動機8基の制御を行えるよう結線を変更され、主抵抗器箱の追加や連結面間に制御系配線のための電気連結器の増設等を行った上で、51形の主制御器から2代目76形の主電動機を制御する後のMM'ユニット方式に近い2電動車1制御器方式の主回路構成にて、全電動車編成での運転を実施することとなった[69]。

なお、1941年頃に改造間もない76を撮影した写真では、200形と同様に前照灯を屋根上中央に1灯備え付けた状態となっており[56]、1948年撮影の電動貨車代用とされていた時期の写真[70]でも同様であった事から、以後もこれが踏襲されていた事が判る。

戦中

新造では初代76形に続く増備車となった200形第1・2次車の201 - 212は旧兵庫電軌車からの機器流用による車体更新車であったため搭載機器が直流600V用で、直流1,500V電化の明石以西への電動車としての入線は不可能であり[66]、また中期以降の200形増備車では51形相当の機器が搭載され複電圧対応の直通車となったものの、114 - 123の10両[* 24]以外は電装品の入手が叶わず、未電装のまま制御車として就役した[72]。

そのため、1941年に初代100形の一部についてブレーキの制御動作に必要となる空気管の増設工事が実施されて妻面に空気管3本が並ぶ構成とされ[70][* 25]、それらは同年に制御車として落成した200形3次車である111 - 113と連結して運転された[48]。

また1942年には先述の通り2代目76形のうち4両が資材不足で単独の制御電動車として使用出来ない状況であったため、51形59 - 62が改造されて2代目76形とペアを組む2両固定編成で運用された。

このように51・初代100形の山陽電気鉄道における主力形式としての役割や立場の重要性は戦前から戦時中まで変化はなく、そればかりか網干線開業による所要増もあり、戦時中を通じて酷使が続けられた。

被災

だが、1945年6月9日の第二次空襲[* 26]と、それに続く同年7月7日の第5次空襲に伴う火災[* 27]で直通車の基地であった西新町の明石車両工場及び明石車庫が繰り返し被災した結果、以下のように51形は25両中11両、初代100形は10両中5両、2代目76形は6両中3両をそれぞれ大破・焼損するという大きな被害を受けた[77]。

1945年6月9日の空襲での被災状況
全壊:52・62・70・78(2代目)
大破:66・74・101(旧76)
中破:58・60・69・71・80(2代目)・105(旧80)
小破:57・81(2代目)・104(旧79)・110(旧85)
1945年7月7日の火災での被災状況
全焼:52・54・57・58・60・62・66・69 - 71・74・78・80・81・105・106・110

この19両のうち101と104を除く17両は、6月9日の川崎航空機明石工場を目標とした爆撃で被害を受けた後に7月7日の火災[78]に遭っており、破壊、焼亡と二重に被害を受けたことになる。これらの復旧は鋭意進められたものの、資材不足に加え6月9日の爆撃で27名もの職員を喪った[79]こともあって工事は中々進まなかった。このため最終的に車体の焼損程度が大きかった以下の7両は修理不能で1948年に廃車とせざるを得なかった[80][81]。

51形:52・57・69・70
76形(2代目):78・80・81

戦後

1945年8月15日時点での山陽電気鉄道の保有する車両の内、複電圧の直通車で電動車として可動状態を保っていたのはこの51形を含め僅か5両足らず[82]という惨状であった。

この状況下で少しでも輸送力を復旧すべく、ひとまず故障電動車を制御車代用として使用することとなり、戦中製造の100番台電動車の内未電装分ともども資材と人員が揃うのを待って電装を施し、正規の電動車として復旧する方針とされた[82]。

だが、こうして復旧方針はさだめられたものの空襲に伴う車両被害の復旧が遅々として進まない状況下で、更に同じ1945年の9月18日の暴風雨、同年10月9日の集中豪雨、と相次いだ豪雨によって兵庫 - 高砂間の本線施設は各所で被害を受け、列車運行は麻痺状態に追い込まれた[83]。

1946年半ばには旧兵庫電軌の車両や200形を含めて明石以東の軌道線用車両が合計23両、51・初代100・2代目76形および200形の複電圧対応車グループよりなる明石以西の鉄道専用車両が合計12両、復旧や新製により可動状態になった。これにより兵庫 -明石(20分間隔)、明石 - 姫路(30分間隔)、姫路 - 網干(40分間隔)の3区間に分けて運転が開始されていたが、それでもなお車両不足は深刻であり、早急な車両の確保が急務になっていた[79]。

この危機的状況は当時国内の地方鉄道各社を監督していた運輸省も認識・把握しており、戦後すぐで資材調達困難から通常であれば新製車両の認可を得られる状況ではなかったにもかかわらず、また戦時中の仕掛かり品を仕上げただけで、車籍については書類上で事故廃車となった旧兵庫電軌車のそれを流用するという手順は踏んだものではあったが、200形グループの最終増備(第7次車)にあたる133 - 135が戦後の日本の私鉄では最初の新造旅客車として、並みいる他社の申請を差し置いて1946年に真っ先に認可された程の深刻さであった[84]。

こうした切迫した車両不足から、1947年に運輸省による国鉄63形電車の割り当て車であり、全長20m、車体幅2.8m、自重41tと当時の山陽電気鉄道の施設、特に明石以東の設備では受け入れがたい巨体を備えた63800形(後の700形)20両の導入強行が決定した[85]。

そのため1948年に明石以東の架線電圧の直流1,500Vへの昇圧と車両限界の拡大、それに軌道強化工事が完了し63800形による兵庫 - 姫路間直通運転が開始されるまで、その時点で可動状態にあった在来車計35両は、さらなる酷使が続けられた[86]。

1946年2月6日の須磨寺 - 境川付近[* 28]間下り線併用軌道[27]の移設完了による路上停留場の全廃に伴う乗降用ステップの撤去および前後扉車体下部の蹴込み部周辺の埋め込み[24]とその後の切り落とし[48]、1947年3月の架線張り替えによる集電装置のパンタグラフへの切り替え[* 29]、1948年10月21日の電鉄兵庫 - 電鉄須磨間架線電圧昇圧工事完成[* 30]に伴う電圧転換機など複電圧対応機器の撤去、改造、と線路施設の改良に併せて順次改修が行われたものの、この間充分な保守が行われていたとは言い難い状況であった。

この時期、山陽電気鉄道が保有していた電動貨車の内で複電圧装置を備えていた直通車5両中4両が戦災により使用不能であった事から、単独電動車として使用可能とされていた二代目76形76が1945年末~1948年末にかけて電動貨車代用として歯数比変更工事を実施の上で使用されていた[82]。

1948年には63800形導入に伴う車両限界の拡大でホームが削り取られた結果、ホームと在来車の間の間隙補正のためにステップの取り付け工事が実施され[87]、最大幅が2,740mmに拡大されている[42]。

1948年の昇圧完了後、車体幅2.4m以下の小型在来車については資材の調達次第で全電動車化の方針が立てられ[45]、後に200形に整理された定員100名のグループに属する車両の内、実際に制御車として落成した車両については電装品艤装による制御電動車化工事が進められた。だが、51・初代100形の一部についてはこの時期、逆に電装を解除し制御車化する工事が一部で実施された。対象車は以下の9両である。車番からも明らかなように1945年7月7日の明石車庫の火災で被災し、その後復旧された車両が電装解除の対象となっている[24]。

51形:54・58・60・62・66・71
100形:105(旧80)・106(旧81)・110(旧85)

改番

200形未電装車の電装実施と併せて1949年に実施された一斉改番の際には、定員92名であった51形、初代100形に2代目76形の残存車3両を加え、以下の通り電動車の100形100 - 123の24両及び、先に触れた戦災・車庫火災復旧の制御車である1000形1000 - 1009の10両、2グループ計34両に再編の上で改番が実施された[24][88]。

100形
旧51形:51・53・55・56・59・61・63 - 65・67・68・72・73・75 → 100 - 113
旧76形(初代)→旧100形:102 - 104(旧77 - 79)・107 - 110(旧82 - 85) → 117 - 123
旧76形(2代目):76・77・79 → 114 - 116
1000形
旧51形:54・58・60・62・66・71・74 → 1000 - 1006
旧76形(初代)→旧100形:101・105・106(旧76・80・81) → 1007 - 1009

この改番では従来1から起番していた車両番号を0から起番する様に改めている[88]。

この時期には、資材不足に起因する電動車の制御車代用での運転の必要により小型車の2両連結運転が常態化した事から、100・1000形グループの連結面側運転台の撤去工事が行われ[89]、偶数番号車が神戸向き運転台付、奇数番号車が姫路向き運転台付で統一されこれらがペアを組んで編成される様に整理された[82]一方で、このグループは老朽化に加え車体幅が狭く、1947年の国鉄モハ63形導入に伴う車両定規の拡大でホームが削られた結果、ホームとの広い隙間を埋めるためのステップが増設されてもなお乗降に不安があることが保安上問題視されるようになった[* 31][68]。

更新・改造・譲渡

このため、1950年に新造された850形に準じた軽量設計の2.8m幅車体[* 32]を兵庫の川崎車輛で新造し、これに本形式の台車や主電動機、制御器などの主要機器を艤装して準新車とする250形への更新工事が開始され、第1次車として以下の4両の更新が計画された。

1951年10月竣工予定
114 - 116(旧2代目76・77・79)・1000(旧54) → 250 - 253

このうち旧2代目76形の114 - 116は、前述の通り神姫1形の車体を流用改造したため、この時点でなおも車体が鋼製ではなく木造のままであった。

当初の計画では、ここで主要機器を抜き取って不要となった旧車体はそのまま廃棄・解体処分となる予定であった。だが、これら4両の車体の完成前の1951年9月7日に発生した西代車庫の火災により、状況は一変する。この原因不明の火災で看板電車であった820・850形各1編成、700形1編成[* 33]、そして100形・1000形グループのうち以下の8両の合わせて14両が西代車庫での留置中に焼失してしまったのである[100]。

西代車庫火災被災車
101(旧53)・103(旧56)・104(旧59)・108(旧65)・1001(旧58)・1003(旧62)・1004(旧66)・1008(旧80→105)

このため、急遽更新予定の4両(木造3両と半鋼製1両)について250形への機器流用が中止され、焼損車4両分の機器の回収再利用が図られた。これにより、車籍は予定通り114 - 116・1000のものが利用されるものの、台車・制御器・主電動機といった機器については被災車1001・1003・1004・1008から回収されたものが250-253へ艤装されることとなった[101]。

その上で、車籍を喪った本来の更新予定車4両はそれら被災車の車籍と車番を利用することとなり、改番[101]の上でそのまま継続使用とする事となり、甚大であった車庫火災の被害の影響を最小限にとどめる努力が行われた。

かくして以下の組み合わせで100形木造車3両+1000形1両と1000形4両の車籍と車体・機器の振り替えと流用が実施された[24]。なおこれ以外の被災車である100形4両のうち、101・103は翌年の250形への更新対象とされ、残る104・108の2両は1951年中に廃車解体処分となっている。

西代車庫被災車関連の車籍・機器振り替え状況:[24][101]
114 (実車) + 1003 (車籍) → 1003 (2代目)
1003 (主要機器) + 114 (車籍) → 250
115 (実車) + 1004 (車籍) → 1004 (2代目)
1004 (主要機器) + 115 (車籍) → 251
116 (実車) + 1008 (車籍) → 1008 (2代目)
1008 (主要機器) + 116 (車籍) → 252
1000 (実車) + 1001 (車籍) → 1001 (2代目)
1001 (主要機器) + 1000 (車籍) → 253

この後、1952年、1954年と以下のように2両ずつ250形第2・3次車への更新が実施された。下記の通り1952年竣工分は2両とも西代車庫火災の被災車から回収された主要機器が流用され、その復旧を兼ねた[101]なお1954年竣工分の種車のうち2代目1003(→257)は西代車庫火災の後、一旦廃棄予定だった木造車体を用いて復旧された車両であった。だが、この車体は2代目1004の車体と振り替えられ、実際には2代目1004の車体が名目上は2代目1003の車体として、高松琴平電気鉄道へ譲渡され、元2代目1003の車体が3代目1004の車体となっている[24]。

1952年7月竣工
101 (旧53)・103 (旧56) → 254・255
1954年9月竣工
107(旧64)・1003 (2代目) → 256・257

この時期には63800形の導入に伴う全線昇圧工事以来、段階的に実施されてきた本線各変電所の増強工事が進展した事[* 34]と、1949年に820形の新製投入に合わせ復活した特急においてダイヤ改正の度に速度向上と停車駅の増加が実施された事[* 35]を受けて、100形電動車に1000形制御車を連結した編成と100形電動車を2両連結した編成の性能差の大きさがダイヤ編成上支障をきたす様になっていた。このため1000形制御車を連結した編成の速度向上をはかるべく、当時残存した1000形制御車4両について戦時中に2代目76形77・79 ー 81で実施したのと同様に主電動機を台車に取り付けて特殊電動車と称し、ペアを組む100形電動車のRPC-101制御器からそれらの電動機を制御するための電気配線を引き通し、2電動車1制御器方式とする改造工事が1953年から1957年にかけて実施され、固定編成化された[87][24]。

1953年再電装
1006(旧74)・1009(旧初代81→初代106)
1956年再電装
1007(旧76→101)
1957年再電装
1005(旧71)

また1957年から1961年にかけて継続工事として木製であった天井板の金属板への交換、従前白熱灯であった室内灯の蛍光灯への交換、そして車内放送装置の設備が実施されている[87]。

250形への更新については、第4次車258・259となるべき更新車の車体製作の準備が進められていたが、中止された[92]。これは日本国有鉄道(国鉄)山陽本線の電化工事進捗[* 36]をにらんで投入が開始された、画期的な高性能電車である2000系2000・2001の製作に258・259の車体新造予算が転用されたことによるものであった[92]。

だが、そうして特急用として2000系の増備が進む間にも、戦中戦後の酷使で疲弊しきった本形式の残存車24両[* 37]の老朽化は急速に進行していた。その間、2000系2002 - 2007の新造投入に伴う余剰発生で戦災復旧車の除籍が以下の様に実施された。

1957年廃車
1001 (2代目:車体は54のもの)
1002(旧60)
1004(3代目:車体は2代目76→114→2代目1003のもの)
1008(2代目:車体は2代目79→116のもの)

残存車20両についても長期に渡る酷使が原因で、既に車体の疲弊・老朽化が限界に達していた。このため、1959年より2000系3次車2008・2009に準じた準張殻構造の17m級軽量全金属製車体を新造[104]し、これに制御器・台車・ブレーキなどSE-107電動機[* 38]以外のほとんどの機器を新品に交換の上で搭載した[105]250形270番台への更新工事が再開された。

まず1959年に250形第4次車として以下の4両の更新が実施された。

1959年8月竣工[106][24]
101 (旧51) → 270
102 (旧55) → 271
111 (旧72) → 272
113 (旧75) → 273

以後の250形の増備は旧車籍を承継しない新造扱いとなり、これらへの機器供出に伴い以下の様に廃車が実施された。

250形第5次車274 - 283新造に伴う1960年廃車[24]
105(旧61)
106(旧63)
109(旧67)
110(旧68)
112(旧73)
117(旧初代82 → 初代102)
1005(旧71)
1006(旧74)
1007(旧初代81 → 初代101)
1009(旧初代76 → 初代106)
250形第6次車284 - 289新造に伴う1961年廃車[24]
118(旧初代83 → 初代103)
119(旧初代84 → 初代104)
122(旧初代79 → 初代109)

1962年に最後に残った120・121・123が以下のように魚菜商人の専用列車に用いられる貨車へ改造され[107][* 39]、これを以て全車旅客営業を終了した。

1962年改造[24]
120(旧初代87→初代107) → モワ10
121(旧初代88→初代108) → クワ30
123(旧初代80→初代110) → クワ31

貨車化されたこれら3両も1970年に廃車となり[107]、ここに宇治川電気電鉄部51形に始まる2.4m幅車体で定員92名の100・1000形グループ[63]に由来する車両は、250形へ車体更新されたものを除き全て消滅となった。

譲渡

250形への更新の際に機器を供出した結果、発生した旧車体の一部が以下のように高松琴平電鉄へ譲渡された[24]。

76(2代目)→114→1003(2代目)→琴電60形74
64→107→琴電920形920

実際には、前述の通り1003(2代目)については西代車庫火災の復旧に際して同時に復旧された1004(2代目)との車体の振り替えが実施されており、1004(2代目)の車体が1003名義で高松琴平電鉄へ譲渡され、その時点では1003(2代目)の車体は1004(3代目)として山陽で継続使用となっている[24]。

保存・転用

112(旧73)・117(旧:初代82→初代102)の車体が西代車庫で物置として使用されたが、これも後に撤去されている[109]。

山陽電気鉄道の歴史の上では、設立から戦中戦後にかけての最も困難な時期に主力車として重用された形式であるが、200形とは異なり保存車はなく、高松琴平電鉄への譲渡車体も解体処分されたため、全車とも現存しない。

車番の変遷

いずれも新製時→1回目の改番(初代76形→初代100形のみ)→1945年の被災状況(川崎航空機明石工場爆撃に伴う破壊(6月9日)・明石市市街地への焼夷弾空襲に伴う火災(7月7日)の被災車のみ)→1949年の一斉改番の順である。

51形→2代目100形・1000形

出典:[81]

51→100
52→1945年6月9日全壊、同年7月7日全焼→1948年廃車
53→101
54→1945年7月7日全焼→1000
55→102
56→103
57→1945年6月9日小破、同年7月7日全焼→1948年廃車
58→1945年6月9日中破、同年7月7日全焼→1001
59→104
60→1945年6月9日中破、同年7月7日全焼→1002
61→105
62→1945年6月9日全壊、同年7月7日全焼→1003
63→106
64→107
65→108
66→1945年6月9日大破、同年7月7日全焼→1004
67→109
68→110
69→1945年6月9日中破、同年7月7日全焼→1948年廃車
70→1945年6月9日全壊、同年7月7日全焼→1948年廃車
71→1945年6月9日中破、同年7月7日全焼→1005
72→111
73→112
74→1945年6月9日大破、同年7月7日全焼→1006
75→113

初代76形→初代100形→2代目100形・1000形

出典:[24]

76→106→1945年7月7日全焼→1007
77→107→117
78→108→118
79→109→119
80→110→1945年6月9日小破、同年7月7日全焼→1008
81→101→1945年6月9日大破→1009
82→102→120
83→103→121
84→104→1945年6月9日小破→122
85→105→1945年6月9日中破、同年7月7日全焼→123

2代目76形→2代目100形

出典:[24]

76→114
77→115
78→1945年6月9日全壊、同年7月7日全焼→1948年廃車
79→116
80→1945年6月9日中破、同年7月7日全焼→1948年廃車
81→1945年6月9日小破、同年7月7日全焼→1948年廃車

脚注

注釈

  1. ↑ 現在の山陽電気鉄道の前身[2]。
  2. ↑ 倉敷・津山など岡山県の高梁川・吉井川流域を勢力圏とした備作電気と岡山水力電気(未開業)が1922年に合併して成立した電力会社で、1926年3月には自社と同様に宇治電の攻勢に対抗策を講じる必要に迫られていた、播州一円を勢力圏とする姫路水力電気と合併し中国合同電気となった[5]。
  3. ↑ 1926年9月30日の兵庫電軌臨時株主総会で合併を承認議決、同年10月28日に両社連名で会社合併認可を申請、同年12月18日に軌道法に基づく内務・鉄道両大臣の認可を、同年12月27日に電気事業法に基づく逓信大臣の認可をそれぞれ得て1927年1月1日付で合併を実施した[6][3]。
  4. ↑ 1926年12月9日付で合併契約を行い、1927年1月25日に両社連名で鉄道大臣へ合併認可申請がなされ同年3月8日に認可が下り、同年4月1日付で合併を実施[7][3]した。
  5. ↑ まず、旧兵庫電軌明石駅前駅と旧神姫電鉄明石駅の統合を図り、両駅の間に工事費6,500円で連絡用仮線を設置[9]、ひとまずここにデッドセクションを設けて旧兵庫電気軌道線の直流600Vと旧神姫電鉄の直流1,500Vの間で電圧切り替えを行うこととし[10]、この工事は1927年12月6日に完成した。その後、旧兵庫電軌側の明石 - 明石駅前間を廃止して大蔵谷 - 明石駅前間の軌道を移設し、従来線の北側へ敷設して旧神姫電鉄明石駅構内へ直接乗り入れられる配線に変更する工事が1931年12月23日付で完成している[11][12]。なお、この間に旧兵庫電軌側の区間では線路曲線及び勾配の整正、道床及び橋桁の補強、板宿・大蔵谷への変電所増設、それにホームをはじめとする駅施設の改良が乗り入れ開始までに実施されている[9]。
  6. ↑ 兵庫電軌の車両は車体幅2.4m、架線電圧直流600Vで併用軌道からの乗降、神姫電鉄の車両は地方鉄道建設規程で定められた最大値である車体幅2.74m、架線電圧直流1,500Vでプラットホームからの乗降であり、橋梁や軌道など地上設備にも顕著な差異があって、最高速度も神姫電鉄線が50mph(80km/h)に達したのに対し、兵庫電軌線は約38mph(約51km/h)にとどまった[13]。そのため両線の共通点はトロリーポール集電であることと軌間が1,435mmであることだけであった。
  7. ↑ 実際には設備面で不利な旧兵庫電軌側施設の強化・改良を可能な範囲で実施し、自動信号機を設置するなど最大公約数が少しでも大きくなるよう努力が重ねられた[8]。旧兵庫電軌区間では塩屋付近にあった神明国道上の併用軌道区間の専用軌道への移設[12](1932年12月10日完成)などの大規模な線路改良・切り替え工事が順次実施されている。
  8. ↑ 旧兵庫電軌からの承継車が1~40までを使用していたため、51から付番された。
  9. ↑ 川崎車輌の記録では電車車体、製修731、昭和4年(1929年)3月出荷とされている[18]。
  10. ↑ 救助網(実態は救助柵)を畳んで板状の状態で自動連結器前に固定していたため、連結運転時には干渉するこの救助網を一旦取り外す必要があった。
  11. ↑ 軌道線区間専用の直流600V対応車として1936年新製の200形第1次車では救助網の装着は廃止され、フェンダー・ストライカーのみとなっている。併用軌道区間が電鉄兵庫 - 西代間のみとなった[27]戦後はそれらさえ全て撤去され、1947年新製の63800形はこうした安全装備を一切装着しないまま電鉄兵庫まで入線している[28]。また2代目76形はフェンダー・ストライカーを装着して落成していたことが当時の写真で確認できる[29]。
  12. ↑ 神姫電鉄→山陽電鉄での公称性能は端子電圧750V時1時間定格出力52kW(70馬力)/780rpm。
  13. ↑ 仕様・性能はオリジナルと同等とされ共通使用された。ただしメーカーである芝浦製作所の発行したカタログでは、750/1500V対応機種であるSE-107Bについてバーサスペンション式、平軸受、端子電圧750V時1時間定格出力70馬力/825rpmを公称した[34]。
  14. ↑ 型番は不詳である。但し、芝浦製作所による同等品として直流1,500V電化対応、かつ150馬力電動機4基までの制御に対応するRPC-101が採用され、また後年にはそれと本形式のGE製制御器が区別無く混用されていた事から、RPC-101のライセンス元製品であり直流1,500V電化対応で同一仕様のGE PC-101が搭載されていたと考えられる[38]。
  15. ↑ このRPC-101は芝浦製RPC制御器シリーズの中でも1500V電化線専用として用意されていた機種で、150馬力(≒112.5kW)電動機4基分、連続電流量560Aの制御容量を備えていた[39]。また鉄道省にもこれとほぼ同一仕様のRPC-105がCS1として制式採用されている。
  16. ↑ CLG-1は回路切り替えにより架線電圧直流1,500Vと750Vの双方に対応する機種で、定格出力1.5kW、出力電圧直流100Vを公称し、自励式のため750V設定で入力電圧が600Vの場合でも、出力電圧をほぼ一定に保てた。[41]
  17. ↑ 型番については鉄道研究家の吉雄永春は78-25Aと明記し[43]、交通ルポライターの亀井一男は記事ごとに78-275AA[44]と78-27.5A[45]とを混用、『関西の鉄道』誌の編集長であった藤井信夫はBW-1のプロトタイプをBW 78-25AAとしており[46]、更に戦後すぐの『鉄道模型趣味』誌上での編集部による紹介記事ではBW 78-275Aとされていた[47]。このように他の例も含めて荷重にかかる部分の表記の揺れが大きいが、当事者である山陽電気鉄道が公刊した社史(山陽電気鉄道65年史)にて78-275-AAと表記している[48]事を重視し、本記事では心皿荷重上限を27500ポンドとして扱う。なおBLW社の形式付与ルールでは心皿荷重が30000ポンド以下の台車をA形とし、これらについては心皿荷重の値を示す25(25000ポンド)、あるいは27.5ないしは275(27500ポンド)のいずれの値であっても30000ポンドを下回ることから、これらは社史のいうAA形では無くA形と同定される[49][50]。
  18. ↑ 台車研究家の吉雄長春によれば機器流用車は51 - 60が汽車製造製のデッドコピー品、61 - 70は神姫電鉄1形由来で純正のBLW製A形、71 - 85は日立製作所製のMI形と称するデッドコピー品をそれぞれ装着したとする[43]。いずれにせよ、運用開始後は定期検査などの際に機器の入れ替えが頻繁に実施されたりした事から、名目上と実際の装着台車は一致せず,最終的にはバラバラになっていた[43]。
  19. ↑ 芝浦製作所によるGE E-J7非常弁の同等品としてはRE-J7が提供されており、これに対応する運転台用ブレーキ弁としてはRS-N1が指定されていた[55]。
  20. ↑ 宇治川電気への統合後、旧兵庫電軌区間も複線式架線から単線式架線へ変更されており、本形式ではトロリーポールを2基ずつ搭載する必要はなくなっていた。
  21. ↑ 明石港に程近い、現在の明石市本町2丁目付近に所在した旧兵庫電軌明石停留場のこと。1927年12月の連絡運転開始後は接続駅となった旧兵庫電軌明石駅前停留所-同停留所間は臨港線となり、大蔵谷 - 明石間の専用軌道への切り替え工事完了に合わせ1931年12月22日をもって臨港線と共に廃止された。[58][59][12]。
  22. ↑ この特急は以後のダイヤ改正で僅かずつではあったが所要時間の短縮が増発ともども進められ、1941年7月6日の網干線全通に伴う大改正の際には兵庫 - 姫路間65分運転を実現した。もっとも、以後は戦時体制下で速度低下・所要時間の増大が繰り返され、1944年4月20日のダイヤ改正で特急の廃止・格下げと急行への統合が実施され、一旦終焉を迎えている[61]。
  23. ↑ 車体幅の関係で2人掛けクロスシートを通路の両側に設置することはできなかった。
  24. ↑ 戦後の改番で200形となった定員100名の小型車グループのうち第3次車以降の、初代100形相当の新製機器を艤装した複電圧車グループは未電装の制御車として竣工した車両を含めて初代100形101 - 110の続番となる111以降の番号が与えられた[71]。
  25. ↑ 空気管の構成については詳細は明らかにされていないが、通常は列車管と非常管の2本の空気管の連結で空気圧縮機を搭載しない制御車であっても正常なブレーキ作用が得られる非常弁付直通ブレーキの機器・配管構成[41][73]から、ブレーキの使用頻度を考慮し元空気溜管(Main air Reservoir Pipe:MRP)相当の空気管の追加が実施されたと考えられる[74]。
  26. ↑ 500kg・250kg・100kgの爆弾約60個が投下された[75]。
  27. ↑ 油脂焼夷弾7万個が投下された[76]。
  28. ↑ 現在の山陽塩屋 - 須磨浦公園間にある境川という河川の近くまで、神明国道上を走行していた。
  29. ↑ この工事に際しては制御車代用となっていた車両の屋根にパンタグラフを仮設、そこから母線を屋根上に敷設して屋根伝いに電動車の連結面側ポールのトロリーベースに結線することでポール集電とパンタ集電の切り替えを容易にする改造が実施された[82]。
  30. ↑ 電鉄須磨 - 電鉄明石間は63800(700)形入線に伴う地上施設の改修で1948年3月1日に直流1,500Vへ昇圧済み。
  31. ↑ 旧兵庫電軌区間への直通運転のために幅の広い神姫1形の車体を放棄し狭幅車体を新製した本形式の製造経緯からすると皮肉な状況であった。
  32. ↑ 軽量化設計の進歩で850形並に17m化が可能となった最後の256・257を除き、流用台車の心皿荷重制限と車体の大型化に伴う定員の2割増[90]等の事情から車体重量は850形の13.5t(電動車・制御車とも)[91]より約2.5t軽い約11tに制限された[90]。このため、車体長は約2m縮めて15.2mに短縮され、850形比で客用扉間の側窓数が2枚減らしてあった[46]。なお、側引戸の耐食軽合金化[92]などによる車体の軽量化で車体長17mを実現した256・257については後年本形式由来のBW-1を営団銀座線1000形の台車交換で発生した日本車輌製造D-18(社内形式BW-3。心皿荷重上限18t。ただしメーカーの日本車輌製造では当初D形とのみ呼称し、後にD-16と称した[93])に交換、車体寸法に見合った心皿荷重上限の台車としている[94]。
  33. ↑ 820形は825・826[95]、850形は854・855[96]、そして700形は712・713[97]が該当する。特急車であった854・855は1951年12月に、同じく825・826は翌1952年2月に、それぞれ850形相当の新車体を川崎車両で製造され復旧した[98]。一方712・713についてはしばらく復旧が保留され、搭載していたDT13S形台車およびMT40形電動機が機器を焼損していた825・826の復旧に際し一時転用された後、1957年7月に当時最新の2000系2次車と同等の18m級2扉セミクロスシート車体を新製し2700形2700・2701に更新された[99]。
  34. ↑ 1948年の昇圧工事に際し新変電設備を設置した事で不要となっていた大蔵谷変電所の回転変流器2基を1950年に板宿変電所へ移設して同変電所を増強、更に変電所間の並列運転を開始、1957年に東二見変電所を新設、1959年に高砂変電所へ水銀整流器を追加設置し出力増強、と段階的に変電所の新設。増強が進められた[102]。
  35. ↑ 1949年4月15日の復活時点では特急は電鉄兵庫 - 電鉄姫路間所要75分、長田・明石・飾磨の3駅停車で普通は同区間で所要115分であった。1952年12月19日に高砂が特急停車駅に加わり、1953年10月1日のダイヤ改正では東二見が追加されて特急は5駅停車、電鉄兵庫 - 電鉄姫路間所要66分となり普通車も所要109分に短縮された。更に高性能な2000系2次車やそれと同等の車体を備えた2700形1次車の新製投入が実施された1957年9月1日のダイヤ改正では特急の所要時間が1分短縮されて65分となり、普通も所要102分となっていた[103]。
  36. ↑ 1958年4月10日、西明石 - 姫路間電化完成。
  37. ↑ 中でも1004と1008は車庫火災に遭った後、本来廃棄予定だった2代目76形の、つまり神姫電鉄1形由来の車体を急遽再利用して復旧された物で、木造車体のままであった。
  38. ↑ これさえ強度面の不安があったことから車軸を電動機構造の許す限り従来より大きな直径の物に交換するという改造が施されている[68]。
  39. ↑ 121・123については電装解除を合わせて実施。これら3両の改造で発生したSE-107B電動機は250形第6次車に転用された[108]。

出典

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  2. ↑ 『鉄道ピクトリアル』通巻528号 pp.34-36
  3. 1 2 3 『鉄道ピクトリアル』通巻711号 p.10
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  7. ↑ 『山陽電気鉄道65年史』pp.84-86
  8. 1 2 3 『鉄道ピクトリアル』通巻528号 p.35
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  12. 1 2 3 『鉄道ピクトリアル』通巻528号 p.55
  13. 1 2 『山陽電気鉄道65年史』p.91
  14. ↑ 『山陽電気鉄道65年史』pp.88-89
  15. 1 2 3 4 『私鉄の車両 7 山陽電気鉄道』p.159
  16. 1 2 3 4 5 6 『山陽電気鉄道65年史』p.241
  17. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 『鉄道ピクトリアル』通巻327号 p.37
  18. ↑ 『鉄道史料』 第62号 p.60
  19. ↑ 『山陽電気鉄道65年史』p.242
  20. 1 2 3 4 5 6 『鉄道史料』 第28号 p.26
  21. 1 2 蒸気機関車から超高速車両まで p.190
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  23. ↑ 『鉄道ピクトリアル』通巻327号 p.36
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  109. ↑ 里山工房 古い鉄道の写真 山陽電鉄 13 廃車体

参考資料

書籍

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  • 山陽電気鉄道株式会社社史編集委員会 編『山陽電気鉄道65年史』山陽電気鉄道、1972年。 
  • 中国地方電気事業史編集委員会 編『中国地方電気事業史』中国電力、1974年。 
  • 東京工業大学鉄道研究部 編『私鉄電車ガイドブック 7 (南海・泉北・神鉄・山電・神戸市)』誠文堂新光社、1978年。 
  • 山陽電鉄車両部・小川金治『日本の私鉄 27 山陽電鉄』保育社、1983年。ISBN 4-586-50607-5。 
  • 藤井信夫『私鉄の車両 7 山陽電気鉄道』保育社、1985年。ISBN 4-586-53207-6。 
  • 川崎重工業株式会社 車両事業本部 編『蒸気機関車から超高速車両まで 写真で見る兵庫工場90年の鉄道車両製造史』交友社(翻刻)、1996年。 
  • 日本車両鉄道同好部・鉄道史資料保存会『日車の車輌史 写真・図面集-台車編』鉄道史資料保存会、1996年。ISBN 4-88540-105-4。 

雑誌記事

  • 『交通と電気』 電通社
    • 小島保之助「電車の臺車に就て」6(4)、1927年4月。 
  • 『交通技術』交通協力会 
    • 平岩圭三「山陽電鐵の昭和25年度の新造車に就いて」第55巻、1951年2月。 
    • 岡村馨、平岩圭三「山陽電鐵のビニール電車」第74巻、1952年10月。 
  • 『鉄道模型趣味』 機芸出版社
    • TMS編集部(野村・赤井)「電車を訪ねて第16回 山陽電鉄」第40巻、1952年1月。 
  • 『鉄道ピクトリアル』 鉄道図書刊行会
    • 吉川寛「山陽電気鉄道スピード小史」『1976年11月臨時増刊号 山陽電気鉄道・神戸電鉄特集』第327巻、1976年11月、26 - 29頁。 
    • 亀井一男「私鉄車両めぐり[109] 山陽電気鉄道」『1976年11月臨時増刊号 山陽電気鉄道・神戸電鉄特集』第327巻、1976年11月、34 - 51頁。 
    • 久保田正一・長尾裕・川島令三・松本崇・田中康博・寺田力・小林庄三「山陽電気鉄道の車両変遷」『1976年11月臨時増刊号 山陽電気鉄道・神戸電鉄特集』第327巻、1976年11月、64 - 69頁。 
    • 山陽電気鉄道(株)車両部「車両政策と検修設備の概要」『1990年5月臨時増刊号 特集「山陽電気鉄道/神戸電鉄」』第528巻、1990年5月、19 - 22頁。 
    • 青木栄一「山陽電気鉄道のあゆみ その路線網の形成と地域開発」『1990年5月臨時増刊号 特集「山陽電気鉄道/神戸電鉄」』第528巻、1990年5月、30 - 39頁。 
    • 渡辺寿男「広軌63形の導入と820形製作当時の思い出」『1990年5月臨時増刊号 特集「山陽電気鉄道/神戸電鉄」』第528巻、1990年5月、40 - 42頁。 
    • 亀井一男「山陽200形の思い出」『1990年5月臨時増刊号 特集「山陽電気鉄道/神戸電鉄」』第528巻、1990年5月、43 - 48頁。 
    • 高山禮蔵「山陽電気鉄道の路線変更区間ノート」『1990年5月臨時増刊号 特集「山陽電気鉄道/神戸電鉄」』第528巻、1990年5月、54 - 55頁。 
    • 堀田和弘「私鉄車両めぐり [140] 山陽電気鉄道」『1990年5月臨時増刊号 特集「山陽電気鉄道/神戸電鉄」』第528巻、1990年5月、64 - 80頁。 
    • 山陽電気鉄道(株)総務本部総務・広報グループ「総説:山陽電気鉄道」『2001年12月臨時増刊号 特集「山陽電気鉄道/神戸電鉄」』第711巻、2001年12月、10 - 13頁。 
    • 三木理史「山陽電気鉄道の形成 -日本の都市間連絡鉄道における位置-」『2001年12月臨時増刊号 特集「山陽電気鉄道/神戸電鉄」』第711巻、2001年12月、36 - 43頁。 
    • 渡辺寿男「山陽電車の車両高性能化の頃」『2001年12月臨時増刊号 特集「山陽電気鉄道/神戸電鉄」』第711巻、2001年12月、44 - 49頁。 
    • 大谷浩志「アメリカへ渡った ボールドウィンタイプの台車」『2001年12月臨時増刊号 特集「山陽電気鉄道/神戸電鉄」』第711巻、2001年12月、50 - 51頁。 
    • 井上俊行「私鉄車両めぐり [167] 山陽電気鉄道」『2001年12月臨時増刊号 特集「山陽電気鉄道/神戸電鉄」』第711巻、2001年12月、61 - 75頁。 
    • 解説:関田克孝「絵葉書に見る 兵庫電軌・神姫電鉄 宇治川電気の時代 所蔵 岩田武,関田克孝」『2001年12月臨時増刊号 特集「山陽電気鉄道/神戸電鉄」』第711巻、2001年12月、81 - 85頁。 
    • 堀田和弘「私鉄各社の63形の記録 山陽電気鉄道63800(700)形」『2019年5月号 【特集】 私鉄の63形電車』第959巻、2019年5月、84 - 95頁。 
    • 堀田和弘「山陽電気鉄道 併用軌道から専用軌道への改良とその後の変化」『2026年2月号 【特集】 鉄道の併用軌道』第1047巻、2026年2月、70 - 82頁。 
    • 中川浩一「私鉄高速電車発達史[前編]I~VI」『2022年5月号別冊 アーカイブスセレクション45 私鉄高速電車発達史(I)』2022年5月、15 - 96頁。 
  • 『レイル』 エリエイ出版部プレス・アイゼンバーン
    • 根本茂「回想 汽車会社をめぐって I」第34巻、1996年10月。 
    • 吉雄永春「ファンの目で見た台車の話 XIII 私鉄編 ボギー台車 その5」第37巻、1998年7月。 
  • 『鉄道史料』 鉄道史資料保存会
    • 白井昭「初期の電車用電気品及び空気ブレーキについて」第4巻、1976年10月。 
    • 奥野利夫「50年前の電車(XII)」第13巻、1979年1月。 
    • 高山禮蔵「昭和初期の地方電気鉄道 「最新電動客車明細表及型式図集」より」第28巻、1982年10月。 
    • 亀井一男「山陽電気鉄道50型の経歴表について」第30巻、1983年4月。 ** 資料提供 金田茂裕「川崎車輛製造実績両数表」第62巻、1991年7月。 

関連項目

外部リンク