富岡三造
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| 生誕 |
1854年9月 |
| 死没 |
1922年2月25日(67歳没) |
| 所属組織 |
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| 軍歴 |
1873 - 1901 1904 - 1905 |
| 最終階級 |
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| 戦闘 |
佐賀の乱 西南戦争 日清戦争 日露戦争 |
| 親族 | 小野弥一(娘婿) |
| 除隊後 |
財団法人理事 記念碑の揮毫など |
富岡 三造(とみおか さんぞう、嘉永7年8月(1854年9月) - 1922年(大正11年)2月25日)は、明治草創期の陸軍軍人。最終階級は少将。従五位勲二等功三級。日清戦争では歩兵第22連隊長(3代目)、日露戦争では後備混成第8旅団長として従軍。
経歴
茨城県士族。佐賀の乱では河野通行大尉らと征討総督随行として従軍。鎮定後は河野少佐が大隊長を務める陸軍教導団歩兵第1大隊の副官となり、西南戦争では後備歩兵第1大隊第3中隊長として従軍。
1893年(明治26年)2月に陸軍戸山学校戦術科を卒業後、歩兵第22連隊長として日清戦争に従軍し、平壌の戦いでは正面を担当し、敵騎兵の攻勢を撃破。連山関では依克唐阿の2度にわたる攻勢に持ちこたえた[1]。
1901年(明治34年)11月に大佐で予備役編入。日露戦争では後備歩兵第8旅団長として召集され、奉天会戦では第2軍の最右翼を担い漢城堡への攻勢を行った。戦後少将に昇進。
凱旋後は水戸市田見小路(北見町)にて妻の喜代とともに風流を好み、月花を楽しむ余生を送った[2]。また能書家としても知られ、市内各地で記念碑の揮毫を手掛けている[3]。
富岡邸は朱舜水を祀る舜水祠堂の跡地に維新後に建てられた。それ以前には別雷皇太神(1591年に藤沢小路に遷座)や水戸八幡宮(1694年に常北町に遷座)があった[3]。死後は次男の登が跡を継ぎ、旧制水戸高校学生らにも座禅堂を開放していたが、戦災により焼失[3]。
年譜
栄典
- 位階
- 勲章等
| 受章年 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1895年(明治28年)5月23日 | 勲三等瑞宝章[9] | ||
| 1895年(明治28年)10月18日 | 勲三等旭日中綬章[10] | ||
| 1895年(明治28年)10月18日 | 功四級金鵄勲章[10] | 年金500円 | |
| 1895年(明治28年)11月18日 | 明治二十七八年従軍記章 | ||
| 1906年(明治39年)4月1日 | 勲二等旭日重光章[11] | ||
| 1906年(明治39年)4月1日 | 功三級金鵄勲章[11] | 年金700円 | |
| 1906年(明治39年)4月1日 | 明治三十七八年従軍記章[11] |
親族
脚注
- ↑ “データベース『えひめの記憶』”. 愛媛県生涯学習センター. 2026年10月10日閲覧。
- ↑ 「愛国主義」第19巻、愛国主義社、1912年10月。
- 1 2 3 網代 1992, p. 181.
- ↑ 『佐賀征討記』,明治7年p21
- ↑ 『官報』2829号「叙任及辞令」 1892年12月1日。p4
- ↑ 『官報』2885号「叙任及辞令」 1893年2月14日。p156
- ↑ 『官報』第2607号「叙任及辞令」1892年3月12日。p106
- ↑ 『官報』第4046号「叙任及辞令」1896年12月22日。p298
- ↑ 『官報』第3578号「叙任及辞令」1895年6月5日。p45
- 1 2 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。p253
- 1 2 3 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。p4,10
- ↑ 『人事興信録』 第12版(昭和14年) 上、人事興信所、1939年、オ40頁。