小笠原東陽
小笠原 東陽(おがさわら とうよう、文政13年(1830年) - 明治20年(1887年)8月)は、江戸時代後期の姫路藩士、儒学者。
来歴
1830年(天保元年)美作勝山藩士の小笠原忠良の三男として江戸谷中で生まれる[1]。3歳で父を失い、姫路藩士奥山家の養子となり、奥山鉄四郎と名乗る[1]。1855年(安政2年)、26歳で昌平坂学問所に入り、佐藤一斎、安積艮斎に学び[1]、林鴬渓の門下生となる。31歳の時に姫路藩に仕官し、1861年(文久元年)、姫路藩江戸藩邸学問所の副督学となる[1]。1868年(慶応4年)、36歳の時、藩主酒井忠績に対し、同志20余名と共に徳川氏と生死をともにすべしと主張するも受け入れられず、職を辞す[1]。このときに小笠原姓に戻し、のちに東陽と名乗る[1]。周易で生計を立てつつ貧しい暮らしを送る[1]。
明治維新後、1869年(明治2年)に池上本門寺から招聘され、南谷檀林で僧に漢学を教える[1]。このときの生徒に藤沢・羽鳥村の三觜治香がおり、三觜家とのつながりができる[1]。羽鳥(現在の神奈川県藤沢市)に移り、1872年(明治5年)3月に、羽鳥村名主の三觜八郎右衛門に招かれ読書院(5年後に耕余塾改称)を開き、教育指導を行う[2]。
1884年(明治17年)春頃より肺結核となり、1887年(明治20年)8月12日、58歳で没す[1]。墓所は藤沢市羽鳥の汲田墓地に所在する[3]。
親族
脚注
外部リンク
- 小笠原東陽肖像 - archive.today(2012年12月19日アーカイブ分)
- 汲田墓地 - archive.today(2013年4月27日アーカイブ分)