尹崇珂
経歴
後周の晋王柴栄に仕えて、つつしみ深く温厚なことで知られた。顕徳元年(954年)、世宗(柴栄)が即位すると、崇珂は東西班都知に任じられた。高平の戦いに従軍し、功労を績んで、本班副点検に転じた。南唐に対する征戦に従い、都虞候となり、都指揮使に任じられ、前殿都指揮使に転じた[1]。
北宋の初年、崇珂は淄州刺史として出向し、善政で知られた。淄州の民衆が開封の宮殿を訪れてかれを称える頌徳碑を建てたいと請願したため、太祖趙匡胤は殿中侍御史の李穆に命じて文章を作らせて与えた。建隆4年(963年)、宋軍が湖南を討つと、崇珂は行営前軍馬軍都指揮使をつとめた。荊南と湖南が平定されると、崇珂は朗州団練使となった。乾徳2年(964年)、潘美や丁徳裕とともに郴州を攻略した[1]。
開宝3年(970年)、宋軍が南漢を討つと、崇珂は行営馬歩軍副部署をつとめた[2]。開宝4年(971年)、広州を攻め落とし、劉鋹を捕らえると、その日のうちに崇珂は潘美とともに同知広州となり、市舶転運等使を兼ねた。功績により廬州保信軍節度使に転じた。ほどなく南漢の旧臣の楽範・鄧存忠・周思瓊・麦漢瓊らが5州に拠って反乱を起こしたため、崇珂は反乱を討った。太祖が宦官の李神祐を派遣して督戦すると、崇珂は数か月で反乱軍を殲滅し、廬州に帰った[1]。
家族
脚注
伝記資料
- 『宋史』巻259 列伝第18
参考文献
- 『宋史』中華書局、1985年。ISBN 7-101-00323-0。