山田禎三郎

山田 禎三郎(やまだ ていざぶろう、明治4年3月3日[1]〈1871年4月22日〉 - 1930年〈昭和5年〉10月6日[2])は、日本の教育者、実業家、衆議院議員。教科書疑獄事件発覚のきっかけを作った人物として知られる。
経歴
信濃国諏訪郡東堀村(のち長地村、現長野県岡谷市)に生まれる(族籍は士族[3])。地元の小学校、長野県尋常師範学校を経て、1894年(明治27年)高等師範学校文学科を卒業[3]。同年4月より京都府愛宕郡第一高等小学校訓導兼葛野郡西院高等小学校訓導として赴任し、郡視学代用教員を務める[4]。1896年(明治29年)故郷の郡立諏訪実科中学校教諭に転任[4]、1897年(明治27年)より千葉県師範学校教諭となる[5]。1899年(明治32年)1月に同校休職を命じられ、5月に依願免職するも[6]、6月に茨城県師範学校長に任じられた。翌1900年(明治33年)4月に病を理由に依願退官[7][8]。
その後、教科書出版界に転じ、普及舎社長、帝国書籍取締役に就任。1902年(明治35年)の教科書疑獄事件では事件発覚のきっかけを作った人物となったが、当人は直前に欧州の教科書事情調査として渡英しており、逮捕は免れたものの留守宅が家宅捜索を受けた(1905年帰国)。両社解散後は水力発電の利根発電会社を創立し、山林造酒業なども営んだ。
政界にも進出し、1902年の第7回衆議院議員総選挙に長野市選挙区から出馬し落選したが、10年後の1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙では同県郡部選挙区から立ち当選を果たす。しかし事業の失敗により翌年4月に辞職。株券の偽造により投獄された。
著書
脚注
- ↑ 『第拾壱回改選 代議士銘鑑』国華新聞社、1912年。
- ↑ 『議会制度百年史:衆議院議員名鑑』685-686頁。
- 1 2 『官報』1894年3月31日「彙報・学事」欄。
- 1 2 三原芳一「第10章 郡視学代用教員」『京都府会と教育政策』所収。
- ↑ 『官報』1897年10月13日「叙任及辞令」。
- ↑ 『官報』1899年1月14日及び同年5月31日「叙任及辞令」。
- ↑ 『官報』1900年4月27日「叙任及辞令」。
- ↑ 国立公文書館「千葉県師範学校教諭山田禎三郎依願免職ノ件」明治32年5月30日(任B00209100-03100)。
- ↑ 「東京府小笠原島ヲ距ル五百六十哩ノ位置ニ在ル無人島ヲ中ノ鳥島ト名ケ東京府小笠原島庁ノ所管トス」アジア歴史資料センターRef.A15113659900、公文類聚・第三十二編・明治四十一年・第一巻・皇室・内廷、政綱・詔勅・帝国議会・行政区・地方自治(国立公文書館)。