岩瀬義正
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| 時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代初期 |
|---|---|
| 生誕 | 不詳 |
| 死没 | 不詳 |
| 別名 | 与一太郎(通称)、岩瀬与一太郎 |
| 主君 | 佐竹義政 → 源頼朝 |
| 氏族 | 常陸岩瀬氏(藤原北家秀郷流) |
岩瀬 義正(いわせ よしまさ、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・御家人。通称は与一太郎(よいちたろう)、岩瀬与一太郎。
常陸国の名族・佐竹氏の被官(近習)であったが、治承・寿永の乱において主君・佐竹義政が謀殺された後、捕虜の身でありながら源頼朝の面前で堂々と諫言した剛気と忠義を認められ、一転して頼朝の御家人に抜擢された人物として知られる。相模国鎌倉郡岩瀬(現・神奈川県鎌倉市岩瀬)の地名の由来となったとされる。
生涯
出自
常陸国那珂郡大宮郷岩瀬(現・茨城県常陸大宮市上岩瀬・下岩瀬)の出身。藤原北家秀郷流の武士と伝えられ、秀郷の子孫である藤原公通の三男・通近が倭文郷岩瀬に住して岩瀬氏を称したのが始まりとされる。常陸国奥七郡を治めた佐竹氏の嫡男(または当主一族)であった佐竹義政の近習として仕え、岩瀬城(上岩瀬館・下岩瀬館)の城主であったと伝わる[1]。
大矢橋の謀殺と逃亡
治承4年(1180年)11月、平氏方に与していた佐竹氏を討伐するため、源頼朝が率いる軍勢が常陸国府へ進軍した(金砂城の戦い)。
11月4日、主君の佐竹義政が上総広常の誘いに応じて常陸国府近くの大矢橋(大谷橋)に参上した際、頼朝軍の計略により郎党は橋の手前に留め置かれ、義政一人だけが橋の中央へ呼び出された上で広常によって突如斬殺された(大矢橋の謀殺)[2]。義正ら家人たちは橋上へ入ることが叶わず、主君の非業の最期を目の当たりにしながらも、後日の仇討ちを期してその場から四方へ逐電・逃亡した[3]。
捕縛と頼朝への諫言
頼朝軍が佐竹秀義の籠もる金砂城を攻め落とした後の11月8日、逃亡していた佐竹方の家人約10名が潜伏先から現れたとの風聞があり、上総広常と和田義盛によって生け捕りにされ、常陸国府の頼朝本陣の庭前に引き出された[3]。
処刑を前提とした詮議が行われるなか、捕虜の中に紺の直垂を着てうつむき涙を流す男がいた。頼朝がその理由を質すと、男は「亡き主君・佐竹義政のことを思えば、首をつないで生き長らえる謂れもないためです」と答えた。頼朝が「それほどの覚悟があるならば、なぜ大矢橋で主君が討たれたその場で命を捨てて戦わなかったのか」と詰問したところ、男は次のように答えた[3]。
「あの時、我ら家人らは橋の上に上がることが許されず、主君お一人のみが呼び出されて梟首されたため、後日のことを期して逃亡いたしました。今こうして参上したのは討死を恐れたからではなく、頼朝公に直言申し上げたいことがあったからです。平家追討の大計を差し置き、同族・無罪の源氏一門を滅ぼされるのは甚だ理に合いません。天下の凶敵(平家)に対してこそ諸国の武士が力を合わせるべきであり、誤りのない一門を誅殺してしまえば、将来の強敵を誰に討たせ、子孫を誰が守るというのでしょうか。現状では人々はただ恐怖から従っているに過ぎず、真の帰服の志はありません。必ずや後代に誹りを残すことになりましょう」[3]
この堂々たる直言に対し、上総広常は「この男に謀反の疑いがあることは明白であり、速やかに斬首すべきである」と主張した。しかし頼朝は、敵の捕虜でありながら死を恐れずに道理を説いたその剛勇と忠節に深く感じ入り、処刑を取りやめて罪を赦免したばかりか、自らの御家人に列した。これが岩瀬与一太郎(義正)である[3][4]。
鎌倉御家人として
御家人となった義正は相模国鎌倉郡山内庄岩瀬郷(現・鎌倉市岩瀬)に屋敷と所領を与えられ、当地に居住した[5]。現在に続く「岩瀬」の地名は、義正の名字に由来すると伝えられている[5]。
建久年間(1190年 - 1198年)には源頼朝の随身一騎奉行を務めたと伝わり、郷内の五穀豊穣と領民の安寧を祈願して五社稲荷神社(五所明神)を創建したとされる[5][6]。その後の消息や没年は不詳である。
史跡・伝承
- 相模国(神奈川県鎌倉市)
- 五社稲荷神社(五所明神):鎌倉市岩瀬に鎮座。建久年間に岩瀬与一太郎義正が創建したと伝わる旧村社。保食神・大己貴神・太田神・倉稲魂神・大宮姫神の五柱を祀る[5][6]。
- 木舟大明神(貴船大明神):鎌倉市岩瀬の山麓(西念寺近傍)にある小祠。鎌倉時代に当地を治めた岩瀬与一太郎を祀った祠と伝えられている[7]。
- 岩瀬の地名:鎌倉市岩瀬の地名は、頼朝に召し出された岩瀬与一太郎が当地に居住したことに由来すると伝わる[5]。
- 常陸国(茨城県常陸大宮市)
- 下岩瀬館跡(岩瀬与一太郎居館跡):常陸大宮市下岩瀬中屋敷に所在。五大尊堂の東側に「岩瀬城主 岩瀬与一太郎居館跡」の石碑が建立されている[1]。
- 上岩瀬館跡(岩瀬城跡):常陸大宮市上岩瀬字御城に所在。久慈川西岸の微高地に位置し、誕生寺境内一帯が城跡(御城山)と伝わる。
脚注
参考文献
- 『吾妻鏡』
- 『新編相模国風土記稿』巻之九十九 鎌倉郡巻之三十一 山之内庄 岩瀬村(大日本地誌大系)
- 常陸大宮市史編さん委員会 編『常陸大宮市史 資料編 中世』常陸大宮市、2018年。
- 鎌倉市教育委員会 編『かまくら子ども風土記』鎌倉市教育委員会、2009年。
- 水野大樹「捕虜の身で頼朝を叱った秀郷の子孫とは?」『坂東武士の系譜』2022年。