崔翰

ウィキペディアから、無料の百科事典

崔 翰(さい かん、929年 - 992年)は、五代十国時代から北宋にかけての軍人。字は仲文。本貫は京兆府万年県[1]。

経歴

若くして大志があり、風采に優れ、趙匡胤の麾下に属した。後周の世宗柴栄に従って南唐を討ち、寿春を平定し、関南を取るのに功績を挙げ、軍使に任じられた。北宋の建隆元年(960年)、御馬直副指揮使に転じた。潞州の李筠の乱の征討に従った。開宝元年(968年)、北漢から降伏した民衆を陝西の地に移らせることにすると、かれらの中には勇猛で武芸を習っている者が多かったことから、崔翰は命を受けてかれらを選抜した。河北の鎮兵として試用して閲兵し、そのうち勇猛果断な者を取って天武両軍に分配した。開宝9年(976年)、端州刺史を遥領した[1]。

太宗が即位すると、崔翰は端州団練使に進んだ。太平興国2年(977年)秋、開封西郊で閲兵がおこなわれると、殿前都指揮使の楊信の声が出なくなっていたため、崔翰は楊信と交代するよう命じられた。崔翰の号令で軍の進退は整然としていたため、太宗はこれを観覧して喜んだ[1]。

太平興国4年(979年)、崔翰は北漢への親征に従い、侍衛馬歩諸軍を総べるよう命じられた。率先して城を攻め、流れ矢がその頰に当たったが、崔翰は顔色を変えず督戦した。北漢が平定されると、その論功行賞がおこなわれないうちに遼への遠征の発議がなされたため、諸将は積極的に賛同しなかった。崔翰はひとり勝利の余勢を駆って遼を討つよう上奏し、太宗が北伐を決定した。宋軍が金台駅で敗走すると、崔翰は衛兵1000あまりを率いてこれを止めるよう命じられた。崔翰は単騎で赴き、軍を落ち着かせた。知定州に任じられ、便宜に北辺の諸軍を統制した[2]。

冬、遼兵数万が蒲城に侵攻してくると、崔翰は李漢瓊の兵と徐河で合流し、河陽節度使崔彦進の兵が高陽関から続いてやってくると、これと合わせて遼軍を攻撃した。遼兵の西山坑谷の中に身を投じて死んだ者は数え切れず、捕斬された者は数万、鹵獲された物資は数十万におよんだ。功により崔翰は武泰軍節度使に抜擢された。太平興国5年(980年)夏、崔翰は感徳軍節度使として出向した。耀州に駐屯し、反乱者に利害を説いて投降させ、帰農させた[3]。

雍熙2年(985年)、崔翰は知滑州に転じた。雍熙3年(986年)、北伐が敗色濃厚になると、崔翰は太宗に召し出されて威虜軍行営兵馬都部署をつとめた。雍熙4年(987年)春、定国軍節度使となった。端拱2年(989年)、鎮安軍節度使に任じられた。淳化3年(992年)、召還され、病のため開封に留まった。崔翰は家で死ぬことを望まないと上奏して、再び陳州に赴任した。1か月あまりして死去した。享年は63。侍中の位を追贈された。崔翰は蓄財を軽んじて施しを好み、遺産がなかった。晩年は仏教を厚く信奉していた[3]。

家族

  • 子:崔継顒(虞部員外郎)[4]
  • 孫:崔承業(内殿承制・閤門祗候)
  • 孫:崔承佑(内殿崇班)[5]

脚注

  1. 1 2 3 宋史 1985, p. 9026.
  2. ↑ 宋史 1985, pp. 9026–9027.
  3. 1 2 宋史 1985, p. 9027.
  4. ↑ 宋史 1985, pp. 9027–9028.
  5. ↑ 宋史 1985, p. 9028.

伝記資料

  • 『宋史』巻260 列伝第19

参考文献

  • 『宋史』中華書局、1985年。ISBN 7-101-00323-0。