徳法学
法哲学における徳法学(徳法哲学)とは、徳倫理に関連する法理論である。徳法学は法哲学の徳論的転回であり、法の性質、法の内容、そして判断に関する問題において、人格や人間の卓越性、すなわち徳(virtue)の重要性に焦点を当てる。
徳法学が扱うテーマ
徳法学が扱うテーマには以下のようなものがある。
- 徳倫理は、立法の適切な目的についての考察に影響を与える。もし、法の目的が(効用を最大化したり、道徳的権利を実現したりすることではなく)市民を徳のある人間にすることにあるとすれば、法の内容にどのような影響があるだろうか?
- 徳倫理は法曹倫理にも影響を与える。現在の法曹倫理のアプローチは義務論的道徳理論、すなわち依頼人に対する義務と依頼人の自律の尊重を重視しており、こうした義務論的アプローチは、弁護士、裁判官、立法者向けに作られた様々な職業倫理規定に反映されている。
- 正義の徳に関する説明(特にアリストテレスとトマス・アクィナスの自然正義論)は、自然法論者と法実証主義者の間の法の性質に関する議論に影響を与える。
- 裁判官に求められる特定の優れた資質を説明する、徳を中心とした判断理論[1]。
法的判断の徳理論
法的判断の徳
徳法学において最も発展した面は、その独特な裁判理論である。徳を中心とした裁判理論は、優れた裁判官であるための特性や卓越性を説明する。これには、司法における自制、勇気、気質、知性、知恵、そして正義が含まれる。あらゆる裁判理論は司法における徳について何らかの説明を取り入れることができるが、徳を中心とした裁判理論は、司法の徳こそ中心的なものであり、すなわち、それらが基本的な説明的意義と規範的意義を持つという独自の主張をする。
徳中心の判断理論に対する批判
徳法学に対する批判の多くは、徳倫理に関する議論で提起される批判と似ている。その例としては、以下のようなものがある。
- 徳法学は、法的判断を下すための十分な指針を提供しない。徳倫理中心の判断理論の支持者は、「徳のある裁判官が行うように行動せよ!」と主張する。しかし、この公式は普通の意思決定にはほとんど指針を与えず、意見の異なる裁判官の特性(あるいはその欠如)について、建設的でない議論を助長するかもしれない。このような徳中心の基準は抽象的すぎて明確な指針を提供できず、裁判官の特性に対する不適切な個人攻撃を招く恐れがある。
- 徳法学は、裁判官の能力について過度な信頼を要求してしまう。民主主義社会においては、法的判断の正誤はすべての市民がアクセス可能な公開された基準によって判断されるべきである。(理想的な?)徳のある裁判官がどう行動するかという個人的な見解に基づいて判断を下す裁判官は、確立された法規範ではなく、個人的な判断の理想に依拠することで、この公開性の要件に違反するかもしれない。
- 現代のリベラルな社会において、優れた、あるいは模範的な裁判官が備えるべき徳については大きな意見の相違がある。裁判官の徳とされるもののなかには(たとえば、公平さ、知恵、寛容さ、誠実さ、公正さ、勤勉、温厚さなど)、比較的議論の余地のないものもあるが、(司法の自制や弱者への同情など)賛否が分かれるものもある。
徳倫理学に対するその他の一般的な批判としては、以下のようなものがある。
法の本来の目的としての徳
アリストテレスは、徳の促進こそが法の本来の目的であると主張した。トマス・アクィナスは、真の法(理性法)は、法の目的を理解するのに十分な徳を既に備えている人々がそれを内面化することによって、徳を教えることができると主張した。このレベルの徳をまだ達成していない人々でさえ、法に従うよう強制されることがあり、それによってより徳のある人間になることができるかもしれない。
この見解を現代的に再解釈したものが、自然法論者のロバート・ジョージの著作に見られる。ジョージは著書『道徳的な人間を作る』で、法の目的として徳の促進を主張し、法の目的は権利の保護か一般の幸福のどちらかであるという、正反対の見解のいずれもに反論している[2]。
西洋の伝統以外での法と徳
「徳法学」という言葉は、通常、現代西洋哲学における法思想の文脈で用いられる。しかし、他の知的伝統においても、法と徳の関係について重要な考え方が存在する。その一例として、儒教における徳に関する考え方が挙げられる。孔子は論語』で、人々に徳のある社会では自ら社会的な紛争を解決できるため、裁判官やルール、法学は必要ないと主張している。このように、儒教では徳の概念は法の概念と対立するものと論じられている。
たとえ徳の高い人々であっても、特に自身の利益やイデオロギー的信条が関係する場合、法の適用について意見が分かれるかもしれない、と主張することもできる。しかし、この主張は、伝統的な中国政治思想にも現代の中国政治思想にも馴染みのないものである。中国の政治理論は多くの場合、真に徳の高い人は殉教するほどに自己犠牲的であり、自身の利益を考慮することなく、イデオロギーを超越できると想定する。同時に、伝統的な中国政治思想では、絶対的な徳を備えた人は歴史的にきわめて稀であり、皇帝や官僚を含め、ほとんどの人は腐敗や過ちを犯しやすいと考えられている。したがって、不完全な世界と不完全な人々に対処するためには、法と政府の存在は不幸な必然性であるという考えが根強く存在する。
徳の涵養こそが立法の本来の目的であるという見解は、法が存在するのは人間が徳に欠けているからだと論じる中国の伝統的な考え方と著しく異なっている。儒教は、法や外部からの圧力によって人間が道徳的になるという考えにはほとんど期待を寄せず、むしろ徳は内省と教育によって培われるものだと考えている。中国の政治史や思想史を通して、儒教の法の見方は、言説においても実践においても、中国の法家思想としばしば対比されてきた。
参考文献
- 長尾龍一『古代中国思想ノート』(信山社、1999年)
関連項目
- ↑ Lawrence B. Solum, "Legal Theory Blog: Legal Theory Lexicon: Virtue Jurisprudence," available online at https://lsolum.typepad.com/legaltheory/2018/01/legal-theory-lexicon-virtue-jurisprudence.html
- ↑ For a compact discussion of standard objections to virtue jurisprudence, together with possible replies, see Amalia Amaya and Ho Hock Lai, "Of Law, Virtue and Justice--An Introduction," in Amalia Amaya and Ho Hock Lai, eds. Law, Virtue and Justice (Portland, OR: Hart Publishing, 2013), p. 9.