抜山四郎
抜山 四郎(ぬきやま しろう、1896年(明治29年)3月15日 - 1983年(昭和58年)7月2日)は、日本の機械工学者である[1][2]。実兄は電気工学者の抜山平一[1]。
経歴・人物
1896年(明治29年)3月15日、東京生まれ[3][1][2]。1920年(大正9年)東京帝国大学工科大学(後の東京大学工学部)機械工学科卒業[2]。同年、東北帝国大学(後の東北大学)工学部講師となり、翌年助教授。1922年(大正11年) - 1924年(大正13年)に英国、ドイツ、米国、スイス留学。1926年に東北帝国大学教授。1930年(昭和5年)工学博士。1959年(昭和34年)退官、東北大学名誉教授。トヨタ自動車、高砂熱学工業などの顧問も務めた[1][2]。1983年(昭和58年)7月2日永眠[4]。
抜山は、水中の金属線の通電加熱により沸騰の基本特性を過熱度と熱流束の関係として沸騰曲線で表し、1934年(昭和9年)に論文「金屬面と沸騰水との間の傳達熱の極大値竝に極小値決定の實験」[5]を発表した。これはボイラー高性能化のための基礎研究で、蒸気タービンの起動が遅いために暴風時に駆逐艦が陸に流されて損傷した事件が発端である[6][4]。また、東京帝国大学で丹羽重光の講義を受けて以来、ボイラーに興味を持っていた[7]。この研究は世界的な評価を得て現代のエネルギー技術の礎[3]になった。第二次大戦後、抜山はGHQから論文発表後の研究進捗を問われたり、米国の学者が調査のため東北大を訪れている。沸騰曲線は「抜山カーブ」、「抜山曲線」とも呼ばれる。
戦後は熱管理による工業の発展に注力した。そこでは「書くことさえ気がひける」[8]と本人が表現する伝熱工学の基本的な考え方の応用により、種々の生産プロセスの効率化に貢献した。素人がなんだそんなことかということに気付くのが専門家だと常々言っていた[4]という。
家族
父親は元加賀藩士の特許弁理士。長兄の抜山平一は東北帝国大学の、三兄の抜山大三は東京帝国大学の教授。妻は平一の妻の妹で日本女子大学出身。なお四郎の子は後に参議院議員を務めた抜山映子と結婚している[2]。
受賞歴・栄典
著書
- 『冷えた湯たんぽ』
脚注
- 1 2 3 4 5 6 “抜山四郎”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社). 2024年2月25日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 “抜山 四郎”. 20世紀日本人名事典(日外アソシエーツ). 2024年2月25日閲覧。
- 1 2 “日本伝熱学会抜山記念国際賞”. 日本伝熱学会. 2026年10月28日閲覧。
- 1 2 3 「抜山四郎先生の御逝去を悼んで」『伝熱研究』第87巻、日本伝熱学会、1983年、1-11頁。
- ↑ 抜山四郎「金屬面と沸騰水との間の傳達熱の極大値竝に極小値決定の實験」『機械學會誌』第37巻第206号、日本機械学会、1934年、367-374頁、ISSN 2433-1546。
- ↑ 抜山四郎「沸騰の研究の思い出」『日本機械学会誌』第63巻第498号、日本機械学会、1960年、973-975頁、ISSN 2424-2675。
- ↑ 抜山四郎「伝熱の研究の憶出」『伝熱研究』第1巻第4号、日本伝熱学会、1962年、1-5頁、ISSN 2185-5099。
- ↑ 抜山四郎「伝熱の研究の憶い出(2)」『伝熱研究』第2巻第6号、日本伝熱学会、1963年、1-7頁、ISSN 2185-5099。