摺沢静夫
旧字体: 摺󠄀澤 靜󠄀夫 | |
|---|---|
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明治12年頃 | |
| 生誕 |
1853年12月25日 (現在の宮城県仙台市) |
| 死没 | 1942年4月22日(88歳没) |
| 所属組織 |
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| 軍歴 | 1872 - 1911 |
| 最終階級 | 陸軍中将 |
| 指揮 |
歩兵第18連隊長 近衛歩兵第1連隊長 歩兵第9旅団長 |
| 戦闘 |
西南戦争 日清戦争 日露戦争 |
摺沢 静夫(すりざわ しずお、旧字体: 摺󠄀澤 靜󠄀夫、嘉永6年11月25日(1853年12月25日) - 1942年(昭和17年)4月22日[1])は、明治草創期の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。栄典は正四位勲二等功三級。
生涯
摺沢行安の長男。叔父に三好監物がいる。勤王派の父や叔父は佐幕派が多数を占める藩と対立しており、6歳で家督を継ぎ、父とは別居して祖母に育てられる。戊辰戦争ではまだ15歳であったために出陣を許されず、毎日自宅より城の警衛に出かけていたが、ひそかに勤王派の儒学者・安藤静斉に師事していた[2]。明治維新後はさらに攘夷運動に傾倒し、東京の神道大教に赴いてキリスト教排撃運動に参加したり、林子平の海国兵談や岡本監輔の窮北日誌を読みロシアに対抗すべく樺太の開拓を志し、仙台裁判所の録事への推挙を辞退して近藤塾にて海事教育を学ぼうとしていたが、樺太・千島交換条約に失望して陸軍に転じ[3]、明治8年、陸軍兵学寮に入学。
卒業後は小倉の歩兵第14連隊第2大隊第3中隊に属し、大隊長は青山朗大尉(のち山根信成少佐)、中隊長は高井敬義、同じ中隊に宇佐川一正少尉がいた[4]。また、部下に谷村計介がおり、軍曹に推薦したが読み書きが出来なかったため断念したという[5]。西南戦争では新式銃の換装に手間取っていたため2月19日に出陣し、22日夕方に植木口に突入したが敵の軍夫を捕らえたのみで会敵しなかった[6]。その数時間後、河原林雄太少尉が軍旗を奪われたことを知る[7]。翌23日の木葉の戦いにて熾烈な白兵戦となり敵兵の銃床に足の関節を叩かれ[8]、また胸と左手首と左胸に銃創を負い、後方に送還される。急所を外したが以後は戦線に参加せず[9]、病床にて少尉に任官。
爾来東京歩兵第1連隊、次いで近衛師団にて累進を重ね、日清戦争に従軍し台湾平定に当たる。 その後、歩兵第18連隊長、近衛歩兵第1連隊長、第7師団参謀長を経て歩兵第9旅団長として日露戦争に出征、中将昇進とともに予備役となる。
エピソード
日清戦争では幼い子を残して身を投げようとした母や道端に捨てられた赤ん坊を助けたり、逆に現地人に道案内をさせるために子供を捕らえて人質とすることを見聞きしており、敗戦の恐ろしさを説いていた[10]。
年譜
- 1877年(明治10年)4月11日:少尉任官
- 1879年(明治13年)
- 5月時点:歩兵第1連隊本部附[11]
- 7月時点:歩兵第1連隊第1大隊小隊長
- 近衛歩兵第3連隊附
- 1887年(明治20年)5月21日:歩兵第4連隊附[12]
- 近衛歩兵第3連隊中隊長
- 1890年(明治23年)2月13日:近衛歩兵第2旅団副官[13]
- 近衛歩兵第4連隊第1大隊長
- 1897年(明治30年)10月11日:中佐、歩兵第18連隊長
- 1900年(明治33年)4月25日:近衛歩兵第1連隊長
- 1903年(明治36年)7月2日:第7師団参謀長
- 1904年(明治37年)10月23日:歩兵第9旅団長
- 1907年(明治40年)11月13日:台湾第2守備隊司令官
- 1910年(明治43年)9月6日:歩兵第15旅団長
- 1911年(明治44年)9月6日:中将、予備役
栄典
- 位階
- 勲章等
| 受章年 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1885年(明治18年)11月19日 | 勲五等双光旭日章[17] | ||
| 1889年(明治22年)11月29日 | 大日本帝国憲法発布記念章[18] | ||
| 1894年(明治27年)5月29日 | 勲四等瑞宝章[19] | ||
| 1906年(明治39年)4月1日 | 勲二等旭日重光章[20] | ||
| 1906年(明治39年)4月1日 | 功三級金鵄勲章[20] | 年金700円 | |
| 1906年(明治39年)4月1日 | 明治三十七八年従軍記章[20] |
親族
- 長男:摺沢眞清(陸軍大佐)
- 次男:摺沢茂材(陸軍少将)
- 長女:大須賀きん(陸軍少佐大須賀尚武妻)
脚注
- ↑ 『官報』第4584号「宮廷録事」1942年4月23日。p739
- ↑ 今 1903, p. 173.
- ↑ 今 1903, p. 177.
- ↑ 後藤房太郎 編『明治職員録』,川辺鉄次郎,明10.3
- ↑ 摺沢 1928, p. 64.
- ↑ 摺沢 1928, p. 67.
- ↑ 摺沢 1928, p. 69.
- ↑ 摺沢 1928, p. 71.
- ↑ 「西南戦争述懐」『明治大正史談』第5巻、明治大正史談会、1937年6月、10-14頁。
- ↑ 今 1903, p. 181.
- ↑ 中村頼治 編『官員分課録 : 毎月改正』 明治13年5月、1879年5月。
- ↑ 『官報』第1987号「叙任及辞令」1887年5月24日。p227
- ↑ 『官報』第1987号「叙任及辞令」1890年12月17日。p163
- ↑ 『官報』第2625号「叙任及辞令」1892年4月2日。p17
- ↑ 『官報』第6436号「叙任及辞令」1904年12月12日。p331
- ↑ 『官報』第7980号「叙任及辞令」1910年2月1日。p4
- ↑ 『官報』733号「賞勲叙任」1885年12月09日。p115
- ↑ 『官報』1947号「叙任及辞令」1889年12月23日。p249
- ↑ 『官報』第3273号「叙任及辞令」1894年5月30日。p385
- 1 2 3 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。p4,10