日下部太郎

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日下部 太郎(くさかべ たろう、旧名:八木 八十八〈やぎ やそはち〉、弘化2年6月6日〈1845年7月10日〉 - 明治3年3月13日〈1870年4月13日〉[注釈 1])は、幕末の越前福井藩士。福井藩初の海外派遣留学生で明治時代初の官費留学生の一人である。アメリカ合衆国のラトガース大学科学校に在学中、病死した。

生涯

越前国福井城下江戸町(現在の福井市宝永4丁目[5] )にて、福井藩士八木郡右衛門(のち八木寿)と妻くまの長男として生まれた(8男3女)[6]。郡右衛門[7]は禄高扶持150石[8]で武術に優れ[6]近習番・表小姓を経て中級の御先物頭[9]次席に任じられると加賀口御門の警護にあたり慶応3年6月5日に転越[10]、同年8月より御使番(禄高計150石)に昇進し、会津戦争の補充兵として明治元年9月から10月に道中軍監を務めた[11]。

当人の八十八は読書好きで数え10歳頃には漢籍を原文のまま読んだとされ、数え15歳以上の藩士子弟を受け入れる藩校明道館に13歳(安政4年頃)から吉田悌蔵らに就いて学問を修め、安政5年(1858年)には学業勉励の褒賞として『小学』一部と墨を賜った[6][12]。

なお、明道館は熊本藩に仕えた横井小楠による嘉永5年(1852年)の意見書「学校問答書」などを参考に安政2年(1855年)に設立された。橋本左内が幹事兼助教を経て安政4年(1857年)には学監同様を務め、安政5年以降はしばしば横井小楠も招かれ講義した[注釈 2]。この間、西洋の兵術・学問摂取のため武芸稽古所・洋書習学所が附設された他、新たに実用教科として財政・建築・砲術・暦法・航海術の基礎となる算科も導入されていた[14]。

長州藩の高杉晋作は、万延元年(1860年)の東国遊歴の際に福井で横井に面会しており、文久3年頃に記したとされる交友帳『観光録』には、「越前藩、横井門人」として八木八十八をはじめ高木庄次郎・二見新二郎(新次郎)・三岡石五郎の名が記されている[15]。

藩兵として

文久3年(1863年)の八月十八日の政変によって政事総裁職を罷免されていた前藩主松平春嶽が上洛した際、八十八は父とともに藩兵として随従、翌元治元年(1864年)まで京都警衛の任にあたった[12]。さらに、同年後半の第一次長州征討出兵時には、目付役の浅井権十郎に随行して豊前国小倉へ出張した[12]。明けて慶応元年2月(1865年3月)の帰藩後、6月に新撰農兵差配役助に任じられると、9月には藩命により英学修行のため山岡次郎[注釈 3]とともに長崎へ留学した[注釈 4]。

長崎留学

八十八は米国オランダ改革派のグイド・フルベッキ宣教師が教える済美館(旧長崎英語伝習所)で学び、同館で横井小楠の甥で肥後藩士の横井左平太・横井太平兄弟らと出会った。横井兄弟は翌慶応2年4月にフルベッキの紹介でアメリカへ密航留学したが、それと前後して幕府は同年4月7日(1866年5月21日)に邦人の海外渡航の禁制解除を布達した[18]。

なお、八十八の長崎留学は同地で把握しうる幕末期の諸藩・諸外国の動静探査も兼ねていたらしく[19]、慶応2年7月にふたたび藩に戻る際は藩船冨有丸[注釈 5][疑問点]で大坂へ向かうと、京都に滞在中の前藩主春嶽に宛てて書面で長崎での見聞を報告した。その文面はフルベッキや英国公使館通訳アレクサンダー・フォン・シーボルト、同年に欧州から帰国した五代才助(薩摩藩)らを介して得た情報[注釈 6]をつづり、のちに春嶽の事績をまとめた歴史書『続再夢紀事』巻十七に収録された[22][27]。

アメリカ留学

慶応2年8月、帰藩の翌月には海外への藩費留学を被命(1箇年に金100両支給、のち250両に増額[6])[17]。

この海外留学に際し、日下部太郎[注釈 7]と改名した上で海外渡航免許状(3年有効)を取得、慶応3年2月13日(1867年3月18日)に長崎を出港し、ジャワ[28]を経て喜望峰経由でアメリカへ渡った[29]。

西暦1867年8月にニューヨーク着。フルベッキが所属するオランダ改革派教会の外国伝道局(ジョン・メイソン・フェリス主事)を通してニュージャージー州ニューブランズウィックのラトガース大学(Rutgers College)を紹介され、同大学附属のグラマースクールに在学していた横井兄弟と再会[注釈 8]。同年9月には3年制のラトガース大学科学校(Scientific School:1865年新設)に入学し[19][注釈 9]、土木・機械工学コースを専攻した[12]。

当時の数学担当教授は、後に明治新政府に招かれたダビッド・モルレーだった[注釈 10]。また、2歳年上で同時期に古典学部4年に在籍していたウィリアム・グリフィスと知り合い、正規授業とは別にラテン語の個人指導を受けた[35]。

日下部についてグリフィスは、存命であれば首席で卒業できるほど優秀で、特に称賛に値する数学者(admirable mathematician)であったと評し[12]、また当時分析化学を教えていたヴァン・ダイク教授は次のように回想している。

私が青年教授の時、日下部太郎と云う一青年があった。明晰なる頭脳を持ち、殊に数学に長じて居たが、常に難問題を発するので時には大に怖れたこともあった。
—ヴァン・ダイク教授の回想、加藤勝治『米国大学と日本学生』より[36]

その後、日下部に加え横井兄弟ら密航留学生を含む計9名(他は薩摩藩の密航留学生:大原令之助・種子島敬輔・長澤鼎・松村淳蔵・杉浦弘蔵・永井五百助)は、フルベッキらの助力もあり[12]、明治2年3月23日(1869年5月4日)に明治維新を経て樹立された明治政府から初の官費留学生の認定を受け、それぞれ1箇年に洋銀600元を受給する[37]。なお、この認定は日下部及び横井兄弟3名を軍人養成機関のアナポリス海軍兵学校へ進学させる前提の措置でもあったが、日下部と横井大平の早世により横井佐平太と薩摩藩の松村淳蔵の2名が同校に入学した[38][39]。

卒業前の客死

日下部は過労により肺結核に罹り、2年次を修了した1869年の夏季休暇を迎えると、休養もかねてナイアガラの滝からカナダのモントリオールを経て景勝地ジョージ湖へ至る船旅を仲間と過ごした[40]。しかし、その後病状は悪化し、入院治療を受ける[41]。翌年には一時帰国を決意し、福井藩を介して明治政府へ提出した帰国願も了承されたものの、退院はかなわないまま1870年4月13日、卒業2ヵ月前に死去した[42]。享年26(満24歳没)。

なお、ある教師が万死の床に臥す日下部にキリスト教への改宗を「今に及んで宜しく一たび天主を拝し其教(そのおしえ)を信じ一身将来の福を求めよ」と懇意に諭すと、日下部は容儀を正して次のように述べ、最期まで改宗を受け入れなかったとされる(日本でのキリシタン禁制の高札撤去は日下部没後の1873年)。

我(われ)海外に遠遊する日新の学に依り国学に裨益(ひえき)せんを要するのみ、天主教は我(わが)大禁なり、豈に(あに)一身の福を求むる為めに国禁を犯すの大罪人(だいざいにん)為らん哉(ならんや)
—日下部太郎、公文録収録「弾正台伺」より引用 [43]

ラトガース大学は、大学初の才能ある日本人留学生の死を悼み、4月15日午後に大学を挙げて丁重なる葬儀を執行した[44]。その後、生家の八木家の意向を確認した上で、亡骸は大学近隣のウィロー・グローブ墓地(英語版)(Willow Grove Cemetery)に埋葬され、正面に「大日本 越前 日下部太郎墓」[注釈 11]と日本語表記した石柱の墓碑が建立された[47]。

また顕彰として、大学は日下部に卒業生と同等の資格を与えるとともに[6]、学生結社ファイ・ベータ・カッパ協会[注釈 12]は優秀な卒業生等に与える栄誉の資格として、1870年卒業クラスから日下部を含む9名を会員に選考した[46][48]。その証「ゴールデンキー」(懐中時計のネジ巻き)は福井藩の招聘教師として渡日するグリフィスに託され、没後11ヵ月を経て故郷の父親に手渡された[6][46]。なお、グリフィス自身も日下部の死の前年から同結社の会員であり[46]、日本への渡航を決心したのも、日下部の優秀さに感銘を受けたことによる[12]。

日下部の遺品は故郷に送られ、滞米3年間に読破した200冊超とされる洋書は「明新館」と名を改めた藩校に寄贈された(現・福井県立藤島高等学校)。しかし、そのほとんどは戦災で焼失し、わずかな洋書のみが福井市立郷土歴史博物館に現存する[6][12]。

遺髪は父により菩提寺の清円寺(福井市宝永4丁目)に葬られたと伝えられる。法名は「篤信院仰譽睦肥善道居士」[12]。

家族

父・八木郡右衛門は多額の借金を負いながら長男の日下部に仕送りをした。旧暦明治2年1月に日下部の二弟と三弟の次郎と三郎を相次いで亡くしたばかりか、翌2月に御使番の職を解かれた。さらに日下部の死後ほどなくして妻のくまを野辺に送り[6][46]、後年、後妻を迎えている[49]。

ウィロー・グローブ墓地の日本人墓地

日下部の葬儀及び墓地区画に関連する諸経費は葬儀代、棺・土地・石碑・芝及び生垣代ほか手数料を含む総額799.25ドルにのぼり、最終的に明治政府が全額を負担したことから、この一件は、その後の日本人官吏・留学生等が外国で客死した際の埋葬諸経費を公費負担する根拠事例として参照された[52]。

その後、日下部が埋葬されたウィロー・グローブ墓地(Willow Grove Cemetery)の日本人墓地の区画には、日下部のほか1871年から1886年に現地周辺地域で客死した下記日本人7名の亡骸も埋葬され、各々の墓碑も建立された[53][54][55]。

被埋葬者[56][57]
氏名 没年 享年 出身
長谷川雉郎1871 23姫路藩大学南校派遣留学生
松方蘇介1872 22薩摩藩岩倉使節団員(岩倉具視随員)であった留学生、松方正義の長兄の長男(本名は正男、父は正易)
小幡甚三郎1873 29小倉県旧中津藩主奥平昌邁の渡米に随行[58]
入江音次郎1873 19長州藩勧農寮派遣留学生[59]、入江九一の養嗣子(妻の実弟) 
川崎新次郎1885 21慶應義塾・東大予備門出身のEastman Business College私費留学生、実業家川崎正蔵(薩摩藩出身)の三男
阪谷達三1886 26備中の儒者阪谷朗廬の三男、起立工商会社ニューヨーク支店勤務
1877 1高木三郎・須磨夫妻の長女、生後まもなく夭折[注釈 13]

日下部の墓所について『週刊NY生活』紙が伝える。

(ラトガース大学)図書館に保存されている1958年1月11日付の地元紙、『ザ・デイリー・ホーム・ニューズ』が「明治初期の日本人留学生の墓が23年間も倒れたまま、荒地に放置されている」と報じるまで、在米邦人はこの墓の存在を知らなかった。この記事を読んだニューヨーク日系人会(JAA)の代表が、当時のポール市長にかけあい、修復工事を依頼、市長は、ヘルスケア大手のジョンソン&ジョンソンのジョージ・スミス社長に修復のための工事費200ドル出資を懇願、墓石修復を行ったという。しかし1977年にこれらの墓石が再び将棋倒しのように倒れ、日下部の故郷、福井市市長が来米して修復、現在に至っている。
—2020年12月19日付、『週刊NY生活』[63]

それに対して福井市立郷土歴史博物館『よみがえる心のかけ橋』[64]によれば、1977年より以前の1974年(昭和49年)に福井青年会議所メンバーが日下部の事績を調査するためラトガース大学とウィロー・グローブ墓地を訪れている。すでに日下部の石碑は頭から折れて横倒しになっており、その善処を求めてニューブランズウィック市長と面談。次いで100年忌の1977年(昭和52年)には大武幸夫福井市長が同市を訪問、ラトガース大学内教会[疑問点]で日下部の追悼式を行い、現地市長に墓地の復元のため2000アメリカドルを寄託した。

さらに1980年(昭和55年)10月、日本人留学生の墓所に桜の木を植える式典が行われた[12]。

日下部太郎をめぐる国際交流

福井市は1982年(昭和57年)5月、ニューブランズウィック市と姉妹都市提携を調印。1987年に福井県はニュージャージー州ケイン知事(当時:共和党)に正式な友好交流を申入れ、活動をさらに促そうと1990年(平成2年)10月、「日本国福井県とニュージャージー州との姉妹関係樹立に関する協定書」[65][注釈 14]を交わし、代表の両知事は州庁舎(州都トレントン)で姉妹自治体提携の協定書に調印した[注釈 15]。

学術交流

自治体の提携に先立つ1978年(昭和53年)4月、ラトガース大学副学長一行の福井大学訪問を契機として、翌年には両学の恒常的な国際交流が企図され、福井大学を中心に「日下部太郎・グリフィス学術文化交流基金日下部太郎・グリフィス学術文化交流基金事業」を計画。同事業は1980年(昭和55年)発足の「財団法人日下部・グリフィス学術・文化交流基金」として結実、福井大学内に事務局を設置すると、翌1981年(昭和56年)にラトガース大学と姉妹提携を結んだ[68]。

同基金は2014年(平成26年)3月、公益財団法人に認定された[69][70]。

グリフィス資料

福井大学総合図書館は「グリフィス・コレクション」[71]の収集に取り組んできた[72]。

同基金収蔵のコレクションは、1981年及び1982年(昭和57年)にラトガース大学アレクサンダー図書館に同学教員1名、図書館職員2名を派遣して収蔵品を調査[72]、一部の資料を撮影および複写して、帰国後にマイクロフィルム化したものを礎とする。『グリフィス文書目録稿』(1984年=のちにインターネット公開)および『グリフィスコレクション概要』(1988年)を上梓する。

同基金はW・E・グリフィス来福140年記念事業の一環として「お雇い外国人教師グリフィス」展(2011年)を催す[73]。展示室に置かれた往時の異人館の模型は、グリフィスの暮らした建物を高島猛講師研究室(同学建築工学科)が作成し、福井市グリフィス記念館の建築にも参照された[72]。

同学はラトガース大学の許諾を得るとアレクサンダー図書館のフェルナンダ・ペローン(Fernanda Perrone)ならびに山下英一(グリフィス研究家)の監修のもと、グリフィス・コレクションを2015年(平成27年)にインターネット上に公開した[72]。合計873点(2016年12月1日時点)の構成は、既刊の『グリフィス文書目録稿』とグリフィス・コレクションの電子化画像である[72]。

日下部太郎の記念碑

グリフィスは再来日中の1927年(昭和2年)4月に再び福井を訪れ、盛大な歓迎会が催された足羽山三段広場[74]に記念の月桂樹と落葉松を植樹した。グリフィスは日下部の墓標が郷里にないと嘆き、永井環市長(当時)にその月桂樹のかたわらに記念碑を建てるよう進言すると資金の一部を寄託し碑文をしたためたが、とうとう実現しないままに終わる[注釈 16]。

1873年(明治6年)7月に吉田東篁が撰した追悼文「堕涙碑」[77][78]を刻字した顕彰碑。日下部とグリフィスのレリーフと併せ、1976年(昭和51年)11月3日に福井青年会議所が市立図書館の西側敷地に建立した。記念館開館により、2015年(平成27年)に現在地に移転[79]。
  • 日下部太郎とグリフィスの師弟像 - 所在地:足羽川河畔・幸橋北詰(福井市中央3丁目14)[80]。
2003年(平成15年)に福井市・ニューブランズウィック市姉妹都市提携20周年を記念して設置。

主な著作

  • 漢詩「留学へ出発する決意を述べる詩」– 後世の注釈[78]により内容が伝わる。

脚注

注釈

  1. ↑ 金子の論文[1]より、グリフィスの日記によれば日下部は1870年の「April 13」に死去、「April 15」に葬儀が行われた[2]とある。なお、『越前人物志』中巻[3]でも「明治三年三月十三日」と旧暦日を引用し、『日本の先駆者 日下部太郎』においても死亡日の西暦・明治旧暦の混同を考証[4]。
  2. ↑ 学監同様を務めた橋本左内は安政6年(1859年)、安政の大獄により刑死。
  3. ↑ 山岡次郎はのち明治4年にアメリカ留学[16]。
  4. ↑ 松平文庫(当館保管)の「子弟輩」「子弟輩剥札」という資料にもとづく「福井藩士履歴」に収載[6][17]。
  5. ↑ 明治期の資料で版の中心下部に「海軍省」「松平家」と印刷した原稿用紙を使った書写に次の記載あり。
    • 一番丸, イチバンマル
    • 黒龍丸, コクリュウマル
    • 冨有丸, フユウマル
    • 旭日丸, アサヒマル
    • 風帆軍艦昇平丸, フウハン グンカン ショウヘイマル
    • 『巴布亜誌』 : 即チ那吉尼(パァプアーシ : スナワチ ニュギニー)
    • 阿部竹 訳『撒羅蒙島誌』(ソロモントウシ)
    • 底本:『水路雜誌』[20]
    • 書籍サイズ:7×19cm
    [21]
  6. ↑ 八十八が集めた情報とは、英国公使パークスによる大政奉還論、薩摩藩の公議政体論、英国とフランスの確執、英国と薩摩藩、薩摩藩と長州藩、フランスと徳川幕府の密接な関係を示す証言や書簡。
  7. ↑ 「日下部」は八木家の先祖の姓。
  8. ↑ 横井兄弟は密航のため、変名として伊勢佐太郎・沼川三郎を名乗っていた。
  9. ↑ 高木氏によれば、通説では日下部は大学附属のグラマースクールに通った後に大学2年次に編入したとされてきたが、実際は渡米後まもなくじかに3年制の科学校に入学した[34]
  10. ↑ ダビッド・モルレーは1873年に文部省学監として教育制度の基盤整備に貢献[12]。
  11. ↑ 当時の写真[45]を参照。
  12. ↑ ファイ・ベータ・カッパ協会とは、全米の大学の優秀な卒業生で組織する学生結社。
  13. ↑ 1991年(平成3年)7月、盟約30周年を記念してNB市(ニューブランズウィック市)の日本人墓地に高木三郎の娘の墓を再建[60]。
  14. ↑ 教育文化交流を主とした実績を踏まえた。締結日は1990年10月12日[66]。
  15. ↑ 提携の動機及び経過[67]
    • (1)福井県最初の海外留学生日下部太郎とウィリアム・E・クリフィスの友情(1867~1870)に端を発し歴史的、教育的関わりが深い。
    • (2)福井大学とラトガース大学とが姉妹提携(1981年)しており学術交流を主とした交流がある。
    • (3)福井市とニューブランズウィック市が姉妹提携している。(1982年)
    • (4)温暖、湿潤で海に面しているなど気候風土に類似点がある。
    • (5)産学官一体となった研究体制が確立されており双方にとって学ぶべき点が非常に多い。
  16. ↑ [グリフィスの] 生誕180年となる今年 [2023年]、改めて功績をたたえつつ、来春の北陸新幹線県内開業も視野に、(中略)『幸福の足袋』[75]を出版した細谷龍平(日下部・グリフィス学術・文化交流基金の理事長)は著作で、グリフィスは「真の幸福は悲しみや苦難の経験が出発点になり、無償の愛を貫くことで到達できる」という「真理」を福井で発見したと述べ(中略)「幸福の足袋」にあやかり「幸福の旅」をアピールポイントに福井への誘客を期待した[76]。

出典

  1. ↑ 金子忠史「グリフィスと日本:その一」『京都大学教育学部紀要』12号、京都大学教育学部、1966年、197-214頁。
  2. ↑ 金子 1966, pp. 198, 207
  3. ↑ 福田 1910, pp. 842–847
  4. ↑ 永井 1930
  5. ↑ 山本 2026
  6. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 『よみがえる心のかけ橋』 1982
  7. ↑ 山本政一郎「福井藩の役宅の居住者について §表3:加賀口御門役宅居住者一覧」(PDF)『福井県文書館研究紀要』第23号、福井県文書館、2026年3月、57頁、2026年8月31日閲覧。「八木郡右衛門、転入時期=元治1/8/23、転出時期=慶応3/6/5(備考=履歴○、略○、諸役○、絵図○、転宅/、転越○)。」ウェブ公開は2026年6月12日。
  8. ↑ 歴史のみえるまちづくり協会 2026
  9. ↑ “テーマ展「福井藩士の住宅事情」”. 福井県文書館. 2026年8月31日閲覧。
  10. ↑ “こまちなか観光MAP ~No1:加賀口御門址~”. p. 57. 2026年9月3日閲覧。
  11. ↑ 『福井県文書館資料叢書』14号 2018
  12. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 浜田 1985, pp. 1–13, 日下部太郎の生涯について
  13. ↑ 「第5章 教育と地方文化 §第1節 藩校と庶民教育」『近世2』 4巻《通史編》、福井県文書館〈福井県史〉、1996年。doi:10.11501/9541069。「1. 越前・若狭の藩校=624頁-
    2. 兵学と武芸=639頁-
    3. 寺子屋と私塾=647頁-」
  14. ↑ 『近世2』(福井県文書館〈福井県史〉、1996年)[13]、遠隔複写の対象(福井県文書館デジタル歴史情報・福井県史 通史編)。
  15. ↑ 高杉晋作 著、東行先生五十年祭記念会 編『東行先生遺文』民友社、1916年、152頁。doi:10.11501/1874369。国立国会図書館書誌ID:000000905446。「(コマ番号245)越前藩橫井門人、八木八十八、高木庄次郞、
    同有志士、三岡石五郞、(後略)」
  16. ↑ 柳沢芙美子「山岡次郎研究ノート(1) ― 織物産地を繋いだ染色技術者」『福井県文書館研究紀要』2号、2005年、114頁。
  17. 1 2 『福井県文書館資料叢書』15号 2019, 「八木八十八」
  18. ↑ 外務省領事局旅券課: “ホーム > 領事情報 > 旅券の変遷と最近の動向(「旅券の日」及び海外渡航文書150周年に際して)”. www.vn.emb-japan.go.jp. 在ベトナム日本国大使館 (2016年). 2026年6月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年8月31日閲覧。
  19. 1 2 3 高木 2005
  20. ↑ 水路部(海軍水路寮)(編)『水路雜誌』第1/2号、1883年7月、CRID 1390290699704843392、doi:10.11501/1510899。明治9年5月。
  21. ↑ 海軍省、海軍省水路寮、海軍大臣官房(編)「海軍創立事情」、[海軍省海軍大臣官房記録庫]、CRID 1970867909893706925、国立国会図書館書誌ID:1970867909893706925。「海軍省海軍大臣官房記録庫に旧蔵の資料。稀覯本につき記述対象資料毎に書誌レコード作成。
    • 写本、書名は扉による。表紙の書名: 『海軍史料』、表紙に「官房記録」とあり。
    • 帙の背題簽書名:『海軍省文書』
    • 折り込み図表4枚、付箋あり、朱筆書き入れあり、仮綴、虫損あり
    」
  22. ↑ 村田氏寿 編『続再夢紀事』 第5、日本史籍協会、1922年、228-239頁。
  23. ↑ 中根雪江 著、日本史籍協会 編『續再夢紀事』日本史籍協会、1921年。 NCID BN07763083。全6巻(大正10年8月-昭和11年4月)、別題『再夢紀事 : 續』、侯爵松平家蔵版。
  24. ↑ 佐々木千尋 (藩史編纂者)、村田氏寿 著、日本史籍協会 編『續再夢紀事』106-111号(覆刻)、東京大學出版會〈日本史籍協會叢書〉、1974年。 NCID BN01962542。
  25. ↑ 日本史籍協会、佐々木千尋 (藩史編纂者)、村田氏寿『続再夢紀事』106-111号(覆刻再刊)、東京大学出版会〈日本史籍協會叢書〉、1988年。 NCID BA51149843。ISBN 4130977067, 4130977075, 4130977083, 4130977091, 4130977105, 4130977113、国立国会図書館収蔵の電子版 ̽
  26. ↑ 村田氏寿、佐々木千尋 (藩史編纂者)、日本史籍協会『續再夢紀事』106-111号(オンデマンド版)、東京大学出版会〈日本史籍協会叢書〉、2015年。 NCID BB27905277。ISBN 9784130094061, 9784130094078, 9784130094085, 9784130094092, 9784130094108, 9784130094115
  27. ↑ 1921年[23]、日本史籍協會の覆刻版[24]、同、覆刻再刊[25]、オンデマンド版[26]。
  28. ↑ 『水路雜誌』 1883
  29. ↑ [6][19]
  30. ↑ Catalogue 1865, p. 12, Rutgers Scientific School, Catalogue of the Officers and Students of Rutgers College, New Brunswick, N.J. 1867-8
  31. ↑ Catalogue 1865, p. 14, 1868-9版
  32. ↑ Catalogue 1865, p. 14, 1869-70版
  33. ↑ (英語) Catalogue — Rutgers University bulletin [ラトガース大学カタログ(1865年から1878年発行版)]. New Brunswick, N.J.: Rutgers University. (1865) 電子書籍の底本提供元:ミシガン大学、2007年6月26日デジタル化。
  34. ↑
    • 「Third Class欄」(氏名・出身・住所)に「TORO KUSAKABE, Achizen, Japan, 62 Church St.」と誤植もありつつ記載[30]。
    • 「Second Class欄」に「TARO KUSAKABE, Achizen, Japan, 62 Church St.」と記載[31]
      • 「First Class欄」も同上[32]。
    • 1868年以降は同校の下級クラスに薩摩藩の送った留学生も3名在籍[33]。
  35. ↑ 高木 2005, pp. 245–244
  36. ↑ ̺加藤勝治『米国大学と日本学生』博文館、1918年、28頁。
  37. ↑ 「肥後薩摩越前ノ三藩士中従来外国ニ留学セル者ヲ改テ留学生ト為ス(明治2年3月23日付)」1869年5月4日。国立公文書館の収蔵資料。
  38. ↑ 高木 2005, p. 238
  39. ↑ 髙橋秀悦「幕末・明治初期のアメリカ留学の経済学:『海舟日記』に見る『忘れられた元日銀總裁』富田鐵之助(2)」『東北学院大学経済学論集』183号、東北学院大学、2014年、18-24頁。
  40. ↑ 高木 2005, p. 243
  41. ↑ 「米国留学生福井藩日下部太郎病気ニ付帰朝ヲ乞フ尋テ該地ニ於テ死去(明治3年3月付」。国立公文書館の収蔵資料。
  42. ↑ “日下部 太郎〔くさかべ たろう〕●エピソード > 医者の目をぬすんで読書”. 小・中学生の調べ学習のためのページ > 福井ゆかりの人物を調べよう!. 福井市立郷土歴史博物館. 2026年9月4日閲覧。 “●読んでみよう!(福井市内の図書館などにあります)
    • 『若越山脈(じゃくえつさんみゃく)』第3集(編:青少年育成福井県民会議)
    • 『よみがえる心のかけ橋-日下部太郎/W・E・グリフィス-』 (PDF:4.2MB)”
  43. ↑ “福井藩士日下部太郎米利堅留学中死去ノ儀ニ付上申”. www.digital.archives.go.jp. 国立公文書館. 2026年9月2日閲覧。 “公文録・明治3年・第65ノ2巻・庚午10月~12月・弾正台伺”
  44. ↑ 杉原 1990, p. 7
  45. ↑ “ウィロー グローブ墓地”. ニューヨーク日本人歴史博物館. 2026年9月3日閲覧。
  46. 1 2 3 4 5 高木 2005, pp. 241–240
  47. ↑ [6][46]
  48. ↑ Catalogue 1865, p. 54, 1870-71
  49. ↑ 石橋 1942, p. 75
  50. ↑ 内閣記録局 1891, 「外務省ヨリ大蔵省ヘ掛合 4年11月20日(米国在留森少弁務使ヨリ外務省ヘ伺 4年10月9日)」
  51. ↑ 内閣記録局 1891, 「大蔵省ヨリ外務省ヘ回答 4年12月26日」
  52. ↑ 内閣記録局資料[50]および同4年12月26日「大蔵省ヨリ外務省ヘ回答」[51]参照。
  53. ↑ 吉田熊次『教育の米国』冨山房、1918年、257-258頁。
  54. ↑ 浜地道雄. “米ラトガース大学の明治期留学生” (Hatena Blog). 浜地道雄の「異目異耳」. 2024年11月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年9月1日閲覧。
  55. ↑ 竹内春久 (2021年6月6日). “【資料】米国各地にある幕末・明治初期日本人の墓について”. 一般社団法人 霞関会. 2026年8月31日閲覧。 “それぞれの墓に刻まれた没年と死亡時の年齢、出身によるが、日本側の資料によれば入江の年齢は23歳。”
  56. ↑ 浜地 2024
  57. ↑ 竹内 2021
  58. ↑ 鳥居泰彦『回想 慶應義塾』慶応義塾大学出版会、2018年2月9日。
  59. ↑ 竹内 2021, 日本側の資料によれば入江の年齢は23歳。
  60. ↑ “トップ >> 各課のページ >> 国際室 >> 国際姉妹都市・ニューブランズウィック市(アメリカ・ニュージャージー州)”. 鶴岡市. 2007年2月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年8月30日閲覧。
  61. ↑ 「海を渡った日本人 見つかった1枚の写真 : 松方幸次郎の青春 > 日下部太郎永眠す」『週刊NY生活』(PDF)、2020年12月19日、7面。
  62. ↑ 『海を渡った日本人、歴史を開封』週刊NY生活、2020年12月17日。
  63. ↑ 紙面[61]、同紙Web版[62]
  64. ↑ 『よみがえる心のかけ橋』 1982、44-46頁。
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  66. ↑ “姉妹提携データ > 姉妹(友好)提携情報 > 当該提携の概要 > 自治体情報、提携相手先情報”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 一般財団法人自治体国際化協会 - CLAIR(クレア). 2022年7月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年8月30日閲覧。 “* 都道府県名:福井県 (Fukui Prefecture)
    • 提携相手先:州・省・県=ニュージャージー州 (New Jersey)
    • 国・地域名:アメリカ合衆国 (U.S.A.)
    • 提携年月日:1990年10月12日
    • 提携日の根拠:協定書調印の日
    • 提携協定書の名称:日本国福井県とニュージャージー州との姉妹関係樹立に関する協定書”
  67. ↑ 自治体国際化協会 2022, 提携の動機及び経過
  68. ↑ 自治体国際化協会 2022, (2)福井大学とラトガース大学とが姉妹提携(1981年)しており学術交流を主とした交流がある。
  69. ↑ 経済産業省: “公益財団法人日下部・グリフィス学術・文化交流基金”. Gビズインフォ法人一覧. 2026年8月30日閲覧。
  70. ↑ 公益財団法人日下部・グリフィス学術・文化交流基金『理事会議事録』(PDF)2020年3月23日。2026年8月30日閲覧。
  71. ↑ 内海孝、グリフィス被伝者『横浜居留地とW・E・グリフィス』思文閣出版、1987年。国立国会図書館書誌ID:14111100537782。
  72. 1 2 3 4 5 “グリフィス・コレクション”. www.flib.u-fukui.ac.jp. 福井大学附属図書館. 2026年8月30日閲覧。
  73. ↑ “ホーム > (福井市立)歴史博物館の展示・講座 > 終了した館蔵品ギャラリーの展示”. 国立国会図書館インターネット資料収集保存事業(WARP). 2026年2月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年8月30日閲覧。 “
    • 「日下部太郎とW・E・グリフィス」平成19年10月15日(月)–12月3日(月)
    • 「グリフィスと福井」平成27年9月30日(水)–11月4日(水)
    • 「日下部太郎の軌跡 ~日米交流のはじまり~」令和5年9月1日(木)~10月4日(火) 
    ”
  74. ↑ “足羽山公園 三段広場(画像データ)”. 歴史博物館. 福井市立郷土歴史博物館. 2026年8月30日閲覧。
  75. ↑ 『幸福の足袋 : クリスマスパーティー日本発祥地伝説 : 福井への旅』ウララコミュニケーションズ、2022年。CRID 1971993809758109883。ISBN 9784910397047。
  76. ↑ 「HOME > 論説 > 催し・文化 >【論説】グリフィス遺産 ː「幸福」の地 発信の好機に」『福井新聞』2023年12月2日。オリジナルの2023年12月2日時点におけるアーカイブ。2026年8月30日閲覧。「後年牧師となったが福井で布教活動は行わなかった。しかし、1871年12月25日、自宅に生徒や教員らを大勢招いてクリスマスパーティーを開いた(中略)生徒や使用人には靴下の代わりに足袋を用意させ、菓子や文具などのプレゼントを贈った。」
  77. ↑ 福田源三郎『越前人物志』 中巻、844-847頁。
  78. 1 2 前川 & 吉田東篁 2019, pp. 24–39, 第4章「堕淚碑」(吉田東篁作)註釋
  79. ↑ “日下部太郎 §関連史跡”. fukui-rekimachi.jp. 公益財団法人 歴史のみえるまちづくり協会. 2026年8月31日閲覧。
  80. ↑ 福井市観光振興課・福井市観光協会: “スポット・体験 > 日下部太郎、グリフィス像”. 福井市観光公式サイト【福いろ】. 2026年8月30日閲覧。

参考文献

発行年順。

関連文献

脚注に未使用分。発行年順。

  • 沖野岩三郎 著『太平洋を越えて』p.590(コマ番号305)(四条書房、1932年)昭和7年。国立国会図書館デジタルコレクション、doi:10.11501/1190952。
    • 入学は慶應3年、卒業は明治3年。
  • 維新史料編纂事務局 編『維新史』第4巻、p.360(コマ番号204)(維新史料編纂事務局、1941年)昭和16年。国立国会図書館デジタルコレクション、doi:10.11501/1917895。
    • 2月、福井藩士日下部太郎(本姓は八木)は長崎遊學中に藩命を受けてアメリカへ出発。
  • 『稿本 福井市史』 上、福井市役所、1941年。 
  • 『福井市史 : 稿本』下巻、p.1098(コマ番号609)(福井市、1941年)昭和16年。国立国会図書館デジタルコレクション、doi:10.11501/1042134。
    • 慶応元年(年21)、福井藩士日下部太郞は英学修業として福井藩より長崎遊学を命ぜられる、。
    • 英学修業として3ヵ年間アメリカ遊学を命ぜられる、福井藩初の海外留学生なり。
  • 中拂 仁「ラットガーズ大学卒業生の滞日活動 (II)」『國士舘大學政經論叢』第8巻第1号、国士舘大学政経学会、1996年。 
  • 酒井康行 編『あれから四十年 : 日本人をアメリカに認識させた幕末の海外留学生』酒井康行、2017年。 

関連項目

漢詩を読んだ同郷の人々

外部リンク

  • 日下部太郎とグリフィスの師弟像
  • 堕涙碑