曾根精
曾根 精(曽根 精、そね せい、1870年 - 1929年)は、明治から大正時代にかけて活動したキリスト教の聖職者。日本聖公会の司祭[1]。
生涯
福井県小浜出身。当時の小浜には曹洞宗の中学林があり、青年が集まっていたため、基督教会と青年との交流は極めて薄い状況であったが、その中で受洗した数名の青年の中から出た2人の教役者のうちの1人である(もう1人は山田祐)。曾根は多川幾造の時代に受洗した[1]。
築地の第2次立教学校(現・立教大学)に学び、1895年(明治28年)6月に同校を卒業(第2次立教学校第4回生)。この卒業式は第3回生と第4回生合同で執り行われ、同期の4回生には岩佐松太郎(島根)、大藤鋳三郎、中村正路(熊本)、白井兵治(福井)、菅沼四郎(奈良)、鈴木一がおり、第3回の卒業生には木村重治や須藤吉之祐らがいた[2][3][4]。
1898年(明治31年)6月29日、東京三一神学校(現・聖公会神学院)を卒業[5][6]。1899年(明治32年)には仙台基督教会(仙台聖公会)にて長老のジェフェリースのもとで伝道師(牧師)として司牧し、2、3年ほど在任した[1]。
その後渡米し、カリフォルニア州にあるゼネラル神学院(General Theological Seminary)に入学・卒業して帰国した。帰国後は京都聖三一教会に招聘され、10余年にわたり職を務めた[1]。
1904年(明治37年)、当時京都府下京区油小路下立売上ル近衛町9番地にあった聖公会の「聖マリア女子神学校」の教員に就任。1907年(明治40年)には山辺久吉も教員に加わった。同年、同校は上京区吉田町福の川へ移転し、さらに1908年(明治41年)9月には上京区烏丸通上長者町へ移転して「京都女子伝道館」と改称された。1910年(明治43年)当時、同校には本科・別科合わせて18名の生徒が在籍しており、教員には校長のパートリッジ監督、幹事のミス・サザンのほか、山辺久吉、曾根精、ミス・ギューリッキらが名を連ねていた[7]。
その間、1908年(明治41年)3月15日には京都聖三一教会にて長老按手を受けた[8]。
1918年(大正7年)には、奈良県北葛城郡高田町の高田基督教会(大和高田町聖公会)にて司牧を務めた[9]。温良な性格からどこにおいても信任され、好成績をあげた[1]。
1929年(昭和4年)に逝去。享年59[10]。
脚注
- 1 2 3 4 5 『新人 18(6)(203)』新人社、1917-06、p121-122
- ↑ 『教界評論 (42)』有信社、1895-07、p42
- ↑ 『日本聖公会史』元田作之進 著、普光社、明43.10、P190
- ↑ 『立教大学同窓会会員名簿 : 創立80周年記念』立教大学同窓会、1955
- ↑ 『教界評論 (66)』有信社、1898-07、p33
- ↑ 『教界評論 (64)』有信社、1898-04、p43
- ↑ 『日本聖公会史』元田作之進 著、普光社、明43.10、p214
- ↑ 『日本聖公会史』元田作之進 著、普光社、明43.10、p108
- ↑ 『基督教年鑑 大正7年』日本基督教会同盟 編、日本基督教興文協会、大正6-11、p121
- ↑ 『聖三一教会の百年 : 日本聖公会京都聖三一教会一〇〇年記念誌』日本聖公会京都聖三一教会, 2000.7