杜暉

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杜 暉(と き、生没年不詳)は、後漢の劉表の配下で桂陽郡陰山、予章郡県長、重安侯の相を務めた文官。字は慈明(じめい)。西暦216年に建てられた熊綏民の墓の『綏民校尉熊君碑(すいみんこういゆうくんひ)』に金石文として名前が刻まれており、洪容『隷釈』などの金石学文献に記録が残る。

その碑文に
「元の桂陽郡の陰山、予章郡の■の県長、重安侯の相である杜暉は、字を慈明といい、明瞭闊達な人であり、仁にあつく道義を好んだ。易は梁丘氏、春秋は公羊伝を治め、百家を総合的に学び、知らないことはなかった。つぎつぎに三つの城を監督し、官職にあっては清廉で恩恵があり、愛情は民衆に注がれた。六十歳で亡くなり、親族の若手は術が■。そこで仁徳を顕彰し、来るべき子孫に示す[1]。」
と刻まれている[2]。

脚注

  1. ↑ ■は原文の洪容『隷釈』巻十一『綏民校尉熊君碑』でも読めなかった箇所と思われる。
  2. ↑ 『隷釈』巻十一『綏民校尉熊君碑』原文 「故桂陽陰山豫章■長重安侯相杜暉字慈明。軆質弘亮。敦仁好道。治易梁丘春秋公羊氏。綜覽百家。無所不甄。典歷三城。居官清惠。遺愛在民。春秋六十終。族後■術故因顯德。以示來胤。」

伝記資料

  • 洪容『隷釈』巻十一『綏民校尉熊君碑』