柳昌子
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| 基本情報 | ||||||||||||||||||||||
| 国籍 |
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| 出身地 | 同・大阪府大阪市 | |||||||||||||||||||||
| 生年月日 | 1959年11月11日(66歳) | |||||||||||||||||||||
| 利き手 | 左[1] | |||||||||||||||||||||
| バックハンド | 片手打ち | |||||||||||||||||||||
| 引退年 | 1994年 | |||||||||||||||||||||
| 生涯獲得賞金 | 155,263 アメリカ合衆国ドル | |||||||||||||||||||||
| ツアー経歴・シングルス | ||||||||||||||||||||||
| 自己最高ランキング | 89位(1984年4月2日) | |||||||||||||||||||||
| 生涯通算成績 | 132勝136敗 | |||||||||||||||||||||
| グランドスラム最高成績・シングルス | ||||||||||||||||||||||
| 全豪オープン | 2回戦(1985) | |||||||||||||||||||||
| 全仏オープン | 3回戦(1988) | |||||||||||||||||||||
| ウィンブルドン | 2回戦(1988) | |||||||||||||||||||||
| 全米オープン | 1回戦(1986、1988) | |||||||||||||||||||||
| ツアー経歴・ダブルス | ||||||||||||||||||||||
| 自己最高ランキング | 85位(1987年1月5日) | |||||||||||||||||||||
| 生涯通算成績 | 59勝79敗 | |||||||||||||||||||||
| グランドスラム最高成績・ダブルス | ||||||||||||||||||||||
| 全豪オープン | 1回戦(1987–1989) | |||||||||||||||||||||
| 全仏オープン | 2回戦(1987) | |||||||||||||||||||||
| ウィンブルドン | 1回戦(1984–1988) | |||||||||||||||||||||
| 全米オープン | 1回戦(1986、1987) | |||||||||||||||||||||
| グランドスラム最高成績・混合ダブルス | ||||||||||||||||||||||
| ウィンブルドン | 3回戦(1986) | |||||||||||||||||||||
| 全日本テニス選手権最高成績 | ||||||||||||||||||||||
| シングルス | 優勝(1984) | |||||||||||||||||||||
| ダブルス | 優勝(1981、84–85) | |||||||||||||||||||||
| 獲得メダル | ||||||||||||||||||||||
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| 2026年2月19日現在 | ||||||||||||||||||||||
柳 昌子(やなぎ まさこ、1959年11月11日 - )は、大阪府大阪市出身の元女子プロテニス選手[2]。ランキング自己最高位はシングルス89位、ダブルス85位[3]。夙川学院高等学校、武庫川女子大学文学部卒[2][4]。現役時代はプリンスホテル所属[4]。
経歴
アマチュア時代
テニスブームをきっかけに、12歳からテニスを始める[1]。1975年に夙川学院高等学校へ入学し[4]、1977年8月の第67回全国高校選手権では女子団体優勝を果たした[5]。1978年に武庫川女子大学へ入学[2]。1979年7月の全日本学生庭球選手権女子ダブルスで優勝を飾ると[6]、10月の第1回ボーデンクラシックで初めてWTAツアーレベルの大会本戦に出場し、福岡加余子と組んだダブルスではベスト4に進出した[7]。同年の日本女子ランキングで9位にランクインする[8]。
1980年4月、初めてヨーロッパ遠征に挑戦[9]。イギリスの下部サーキットを回って複数大会で予選に出場し、ウェスト・ワージングでは予選決勝に進出するも本戦には至らなかった[10]。そのまま西ドイツ・西ベルリンに移動して初選出された第18回フェデレーションカップに参加[11]。選出のみで出番はなかったものの佐藤直子らトップ選手との帯同を通じて、ナショナルチームの一員としての経験を得た。同年11月には京都の下部大会、東京スタイル・テニス・オープンで本戦ベスト8を記録するなど順調にキャリアを重ねた[12]。
1981年7月、ルーマニア・ブカレストで開催されたユニバーシアードに出場し、古橋富美子とのペアで女子ダブルス銀メダルを獲得[13]。同年10月の全日本テニス選手権ダブルスで優勝し[14]、8月の毎日テニス選手権、12月の全日本学生室内テニス選手権においては女子シングルス・ダブルスの同時優勝を達成した[15][16]。11月の第19回フェデレーションカップで代表デビューを果たし、以降1987年まで7年連続で出場した[11]。1982年3月、学生最後の大会となった全日本室内テニス選手権では単複優勝を果たして学生時代を締めくくった[17]。
プロ時代
1982年4月、プリンスホテルと契約[注 1]。早速下部大会サーキットを回る海外遠征に出ると、ハムステッドのカンバーランド・クラブ・トーナメントで準優勝、その他にも複数大会でベスト4に進出するなど成果を上げる[10]。同年6月のウィンブルドン選手権では予選にエントリーできるランキングに到達しており、グランドスラムに初挑戦するも初戦で敗退する[19]。10月のジャパン・オープンでは予選を突破して本戦ベスト8まで進む好成績を見せた[20]。
1982年11月、インド・ニューデリーで開催された第9回アジア競技大会に出場[21]。女子ダブルス(ペア:井上悦子)、混合ダブルス(ペア:大西儀朋)、女子団体の3種目で銅メダルを獲得した[21]。同年の日本女子ランキングでは1位を獲得し、翌1983年に日本女子2位となって以降、1988年までの期間の多くは、1位・井上悦子、2位・柳昌子という時代が続くことになる[8]。
1983年、10月の第5回ボーデンクラシックでベスト8に進出すると[22]、翌年3月にはWTAランキングでトップ100入りを果たす[23]。4月に自己最高の89位に到達して1984年全仏オープンでは遂に四大大会の本戦にストレートインし、1回戦アメリカのモーリー・バン・ノストランドを相手に6–2, 6–3でグランドスラム初白星を挙げた[24]。9月の第59回全日本テニス選手権では女子シングルス・女子ダブルス(ペア:佐藤直子)の2冠を達成[14][25]。10月の第6回ボーデンクラシックでも前年を上回るベスト4に進出して全盛期を迎えた[26]。
その後も国内外で活躍し、1986年6月のウィンブルドン選手権混合ダブルス(ペア:白戸仁)で3回戦進出[27]、同年10月のジャパン・オープンでベスト4進出など、いくつかのツアー大会で好成績を残した[20]。1988年5月に全仏オープン女子シングルスで自身最高となる3回戦進出を果たしたほか[28]、1989年3月には京都クラシックマスターズ決勝でプロデビュー直後の伊達公子を破って優勝を飾った[29]。現役引退までに全日本テニス選手権でシングルス1回・ダブルス3回・混合ダブルス2回[14][25]、全日本室内テニス選手権ではシングルス4回・ダブルス5回の国内大会優勝を記録している[17][30]。
指導者として
1991年、ワコールのテニス部コーチに就任し、実業団日本リーグ優勝に貢献[31]。1992年バルセロナ五輪ではテニス日本女子代表のコーチを務めた。この時期、怪我で思うように成績が伸びない伊達の相談に乗って、坂井利郎に個人コーチを依頼する後押しをするなど若手選手の良き理解者となった[32]。1993年と1994年はフェデレーションカップの監督を務め[11]、1994年の広島アジア競技大会でも日本代表コーチを歴任した[31]。1994年に選手としてのトーナメント参加からは退いて日本体育協会認定公認スポーツ指導者の資格を取得[31]。1995年から1998年まで日本オリンピック委員会(JOC)強化コーチを務めた[31]。
2002年にプリンスホテルを退職し、有限会社スカイエムプランニングを設立して独立[31]。品川プリンスホテルに併設の高輪テニスセンターなどで後進の指導に当たっている[33]。
主な戦績
脚注
注釈
出典
- 1 2 梅村清弘 1988, p. 87.
- 1 2 3 “コーチ 柳昌子”. 日本テニス協会. 2012年10月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年2月21日閲覧。
- ↑ “Masako Yanagi”. WTA Tour. 2026年2月21日閲覧。
- 1 2 3 夙川学院 1986, pp. 623–624.
- ↑ アマチュアスポーツ年鑑 1978, p. 174.
- ↑ “インカレ|女子ダブルス歴代優勝者”. テニスマガジンONLINE. ベースボール・マガジン社 (2019年8月20日). 2026年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年2月21日閲覧。
- ↑ 「福岡・柳組が殊勲 ボーデン・クラシック庭球」『毎日新聞』毎日新聞社、1979年10月21日、東京朝刊、18面。
- 1 2 “過去の全日本ランキング”. 日本テニス協会. 2026年1月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年2月21日閲覧。
- ↑ 森清吉「国際サーキットのチャンスを生かせ」『スマッシュ』8巻、1号(通巻88号)、日本スポーツ企画出版社、1981年1月、184頁。国立国会図書館書誌ID:000000025420。
- 1 2 “Masako Yanagi WTA Match Results, Splits, and Analysis”. Tennis Abstract. 2026年2月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年2月21日閲覧。
- 1 2 3 4 “ビリー・ジーン・キング・カップ(旧フェドカップ)過去の情報”. 日本テニス協会. 2025年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年2月17日閲覧。
- ↑ 「東京スタイルテニスオープン'80」『テニスマガジン』12巻、1号(通巻134号)、ベースボール・マガジン社、1981年1月、247–248頁。国立国会図書館書誌ID:000000015663。
- ↑ 激動のスポーツ40年史 1986, p. 52.
- 1 2 3 4 “全日本テニス選手権 女子ダブルス 歴代決勝記録” (pdf). 日本テニス協会. 2025年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年2月18日閲覧。
- 1 2 “毎日テニス選手権 歴代優勝者 一般女子”. 毎日テニス選手権. 毎日新聞社. 2024年8月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年2月18日閲覧。
- ↑ “インカレ室内|女子歴代優勝者”. テニスマガジンONLINE. ベースボール・マガジン社 (2019年12月1日). 2026年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年2月21日閲覧。
- 1 2 3 日本テニス協会 1983, pp. 1012–1029.
- ↑ 「井上と柳のプロ入り承認 日本テニス協会」『読売新聞』読売新聞社、1982年12月16日、朝刊、17面。
- ↑ “Wimbledon Championships 1982 - Qualifying Ladies' Singles”. Wimbledon. 2021年11月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年2月21日閲覧。
- 1 2 “柳昌子の戦歴”. スカイエムプランニング. 2024年4月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年2月21日閲覧。
- 1 2 アジア競技大会報告書 1983, pp. 355–356.
- ↑ “Tokyo 1983”. International Tennis Federation. 2026年2月21日閲覧。
- ↑ “Masako Yanagi Stats”. WTA Tour. 2026年2月21日閲覧。
- ↑ “French Open 1984”. International Tennis Federation. 2024年12月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年2月21日閲覧。
- 1 2 3 “全日本テニス選手権 女子シングルス 歴代決勝記録” (pdf). 日本テニス協会. 2026年2月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年2月18日閲覧。
- ↑ “Tokyo 1984”. International Tennis Federation. 2026年2月21日閲覧。
- ↑ “Wimbledon Championships 1986 - Mixed Doubles”. 2024年6月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年2月21日閲覧。
- ↑ “French Open 1988”. International Tennis Federation. 2025年1月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年2月21日閲覧。
- ↑ 伊達公子 1994, p. 18.
- 1 2 日本テニス協会 1992, pp. 771–782.
- 1 2 3 4 5 “柳昌子のプロフィール”. スカイエムプランニング. 2025年7月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年2月21日閲覧。
- ↑ 「伊達公子 攻めのテニスで世界を狙う 青春熱闘賦」『現代』26巻、7号、1992年7月、294–297頁。国立国会図書館書誌ID:000000007253。
- ↑ “プライベートレッスンコーチ 柳昌子” (pdf). 品川プリンスホテル. 2025年5月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年2月21日閲覧。
- ↑ “Masako Yanagi”. Billie Jean King Cup. 2026年2月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年2月21日閲覧。
参考文献
- 日本テニス協会 編『日本テニス協会六十年史』日本テニス協会、1983年12月。国立国会図書館書誌ID:029522006。
- 日本テニス協会 編『日本テニス協会七十年史』日本テニス協会、1992年4月。国立国会図書館書誌ID:029521994。
- 日本体育協会 編『日本アマチュアスポーツ年鑑 1978』ベースボール・マガジン社、1978年9月。国立国会図書館書誌ID:000001388787。
- 日本体育協会、日本オリンピック委員会 編『アジア競技大会報告書 第9回(1982年)』日本体育協会、1983年3月。国立国会図書館書誌ID:000001645912。
- 『激動のスポーツ40年史 1945~1985 (8)テニス 復興から繁栄への軌跡』ベースボール・マガジン社、1986年4月。国立国会図書館書誌ID:000001882318。
- 夙川学院百年史編集委員会 編『夙川学院百年史』夙川学院、1986年4月。国立国会図書館書誌ID:000001835032。
- 梅村清弘『私のスポーツ交遊録』ベースボール・マガジン社、1988年5月。ISBN 4-583-02683-8。
- 伊達公子『晴れのちテニス 伊達公子のプロツアー転戦記』日本文化出版、1994年2月。ISBN 4-89084-000-1。