柿岡藩

ウィキペディアから、無料の百科事典

柿岡藩(かきおかはん)は、常陸国新治郡柿岡(現在の茨城県石岡市柿岡)を居所として、江戸時代前期にごく短期間存在した藩[1]。1624年、当地の領主であった稲葉正勝が加増を受けて大名に列したが、1628年に父・稲葉正成の遺領を継いだため廃藩となった。

歴史

柿岡藩の位置(茨城県内)
水戸
水戸
真岡
真岡
府中(石岡)
府中(石岡)
真壁
真壁
柿岡
柿岡
関連地図(茨城県)[注釈 1]

前史

柿岡

柿岡は、常陸府中(石岡市石岡)から筑波・真壁への交通路にあたり[2]、鎌倉時代に小田氏の一族[注釈 2]が柿岡城を築いて柿岡氏を称した[3]。戦国期には南下した佐竹氏が勢力下に収め、梶原政景や真壁房幹(道無)、次いで長倉氏や国分氏が柿岡城に入ったが[3]、関ヶ原の戦い後に佐竹氏は出羽に移された。

慶長19年(1614年)に立花直次(立花宗茂の弟)が当地で5000石を与えられた[4]。その子の立花種次は元和7年(1621年)に旧領の筑後国に移されて大名(三池藩)となった[4]。

稲葉正勝とその父・正成

稲葉正勝は、稲葉正成と春日局の間に生まれた子で、慶長9年(1604年)、8歳の時に徳川家光に仕え、上野・下野両国内で500石を与えられた[1]。その後、小姓組番頭や書院番頭などを歴任して上総国内で1500石を加増された[1]。

元和8年(1622年)にはさらに3000石を加増され、常陸国新治郡柿岡において合計5000石を領するとともに、老中に就任した[1]。

なおこの頃、父の正成は松平忠昌(結城秀康の次男、越後高田藩主)の御附家老を務めていた。元和9年(1623年)、越前北庄藩主であった松平忠直(結城秀康の長男)が改易され、翌寛永元年(1624年)に弟である忠昌が越前国に移されることとなったが、正成は忠昌に従わずに退去し[5]、息子・正勝の知行地である柿岡に蟄居した[6]。

立藩から廃藩まで

寛永元年(1624年)、稲葉正勝は常陸国真壁郡内で5000石を加増されて1万石の大名となった[1]。

翌寛永2年(1625年)に領知朱印状を与えられた[1]。同年、上野国佐野(現在の群馬県高崎市佐野地区[注釈 3])において1万石を加増された[1][注釈 4]。

寛永4年(1627年)、正成は下野国真岡において2万石を与えられたが(真岡藩)[6]、翌寛永5年(1628年)に没した[8]。正勝は父の遺領2万石を合わせて合計4万石の領主となり[8]、真岡藩主となった[8]。

歴代藩主

稲葉家

1万石。譜代。

  1. 正勝

脚注

注釈

  1. ↑ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
  2. ↑ 八田知家の子・時家(時知)と伝える。
  3. ↑ 上佐野・下佐野・佐野窪[7]。
  4. ↑ 『角川日本地名大辞典』は加増地を「下野国佐野」とし、この時に下野佐野に本拠を移したため、柿岡藩は廃藩になったとの見解を主として叙述する[8]。ただし同辞典の「佐野藩」の項目に稲葉氏に関する記載はない[9]。

出典

  1. 1 2 3 4 5 6 7 『寛政重修諸家譜』巻第六百八「稲葉」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.188。
  2. ↑ “柿岡村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2026年3月20日閲覧。
  3. 1 2 “柿岡郷(中世)”. 角川日本地名大辞典. 2026年3月20日閲覧。
  4. 1 2 『寛政重修諸家譜』巻第百十三「立花」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.689。
  5. ↑ 『寛政重修諸家譜』巻第六百八「稲葉」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.187。
  6. 1 2 “真岡藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2026年3月20日閲覧。
  7. ↑ “上佐野村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2026年4月26日閲覧。
  8. 1 2 3 4 “柿岡藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2026年3月20日閲覧。
  9. ↑ “佐野藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2026年3月20日閲覧。