森忠右衛門

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森 忠右衛門
時代 江戸時代中期
生誕 不明
死没 安永7年(1778年)[1]
別名 小八郎、島之助[1]
戒名 玄忠[2]
幕府 江戸幕府 小姓組[1]
主君 徳川吉宗、家重、家治[1]
氏族 藤姓毛利氏[3]
父母 父:図司末親[4]
養父:森小三郎[1]
兄弟 弥八郎、図司晃本、森小三郎の妻、忠右衛門、日根正芳の妻、図司末済の妻[5]
妻 柘植正富の娘[6][1]
子 勝与[注釈 1][6][1]
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森 忠右衛門(もり ちゅうえもん)は、江戸時代中期の武士、旗本。

経歴

広敷番頭・広敷用人を歴任した図司末親の三男として生まれ、姉婿・森小三郎の養子となる。養家の森氏は佐伯藩侯毛利氏と同族で、佐伯藩祖毛利高政の弟・吉安を祖とする家柄である。寛保2年(1742年)小姓組だった養父が33歳で死去すると家督を継承、知行600石。延享2年(1745年)から小姓組を勤める[7][4]。

忠右衛門は札差を始め、盲人・浪人が営む高利貸しによる多額の負債を抱えていた。そのため一時は自害を図ろうとしたものの子の勝与[注釈 1]の説得を受け、安永7年(1778年)閏7月30日夜、忠右衛門は自らの妻[注釈 2]、勝与とその妻[注釈 3]の3人とともに突如として逐電した。一同は忠右衛門の従弟[注釈 4]が住職を務める唯念寺領に逃れ、忠右衛門は菩提寺の寿蓮寺で出家、医師に身代を改めた。しかしこの時、幕医・須磨良川が盗賊騒ぎを起こして捕らえられるという事件が発生。忠右衛門はその一味であると疑われることを恐れ、8月24日に勝与を帯同して上役の小姓組番頭・森川俊清の元へ出頭した[9][10][2][11][1]。

町奉行の取り調べによって忠右衛門の出奔理由が明らかとなり、また同時に盲人・浪人による法外な高利貸しの実態に光が当てれらた。これにより幕府は江戸随一の富豪として知られた鳥山検校・名護屋検校ら当道座の検校らや金貸し浪人らを捕らえ、浪人は追放、検校らは当道座の座法によってそれぞれ解官・追放・財産没収という処分が下されることとなった[12][10][13]。

忠右衛門は出頭、入牢の後ほどなく病死した[1]。忠右衛門は学問をよくし、また達筆でもあった。そのため世人は「学問も役に立たないものだ」と噂したという[14]。同年11月、子の勝与が逐電の罪を問われ追放刑に、匿った唯念寺住持は追放、寿蓮寺住持は闕所の上追放。義弟・図司末済[注釈 5]は一時出仕停止となった(翌年解除)[13][1][4]。妻の柘植氏と勝与の妻・杉原氏は実家へ戻った[6]。

脚注

注釈

  1. 1 2 通称は震太郎[1]。喜多村信節による随筆『過眼録』は虎太郎とする[2]。
  2. ↑ 柘植氏。小普請・柘植正富の娘。当初河野通哲に嫁いだが、離婚後に忠右衛門と再婚していた[6]。
  3. ↑ 杉原氏。大番頭・杉原正芳の娘、あるいは大番・杉原正英の娘(正芳は正英の曾祖父の弟にあたる)[8][1]。
  4. ↑ 実父・図司末親の姉妹が唯念寺清寿に嫁いでいる[4]。
  5. ↑ 忠右衛門の妹を娶り婿養子として当時の図司家を継承していた[4]。

出典

参考文献

  • 高橋精一「江戸時代の社会救済―盲人の社会と共済制度―」『大東文化大学紀要』大東文化大学、1976年。 
  • 頼祺一「草双紙に現れた庶民の世界像―黄表紙に見る江戸の町人意識―」『日本の社会史』 7巻、岩波書店、1987年。ISBN 978-4-00-004027-3。 
  • 伊原敏郎 著、河竹繁俊; 吉田暎二 編『歌舞伎年表』 4巻、岩波書店、1973年。ISBN 978-4-00-008574-8。 
  • 中山太郎『日本盲人史』パルトス社〈中山太郎歴史民俗シリーズ〉、1985年。 
  • 『寛政重修諸家譜』 8巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0212-3。 
  • 『寛政重修諸家譜』 17巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0221-5。 
  • 『続燕石十種』 1巻、中央公論社、1980年。