榎田竹林
榎田竹林 | |
|---|---|
| 生誕 |
榎田桂太良 1898年6月20日[1] 静岡市研屋町 |
| 死没 | 1974年12月23日(76歳没) |
| 職業 | 川柳家 |
| 国籍 |
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| 最終学歴 | 静岡県立静岡中学校 |
| 配偶者 | 榎田柳葉女 |
榎田 竹林(えのきだ ちくりん、1898年〈明治31年〉- 1974年〈昭和49年〉[2])は静岡市出身の川柳作家。本名は榎田 桂太良(えのきだ かつたろう)[1][3]。
人物・略歴
1898年(明治31年)6月、研屋町の千鳥座近くにある芝居茶屋「しゃもとら」で生まれる。母は茶屋の女主人だったが、39歳で早世。義太夫に三味線、尺八に胡弓までできる芸達者な父も榎田が静岡県立静岡中学校を卒業する直前に死去[4]。1916年(大正5年)3月に同中学校を卒業[5]したものの、経済的理由で進学は断念。上京して遠縁の寺で一室を借りて読書に明け暮れ[注釈 1]ていたところ、地元静岡県の小笠郡比木村にあった矢村義塾に招聘され、英語と数学を約3年間担当した[注釈 2]。1919年(大正8年)に再度上京、芝専売局で外国煙草輸入係として勤務した。その傍ら川柳栗吟社同人として活動[2]。1923年(大正12年)の関東大震災後に地元へ帰り、静岡川柳社を興す[2]。以後川柳の発展に努め、1966年(昭和41年)4月に静岡県川柳協会会長[2]。
活動初期は太良丸や珍竹林といった号も使っていたが、昭和の初め頃に阪井久良伎に注意され、それからは竹林で通した[6]。榎田は碁会所を運営したほか、日本川柳協会静岡支部長、静岡新聞やNHKの文芸選者などを務め、静岡市教育文化功労者の表彰を受ける。1974年(昭和49年)には静岡県文化奨励賞を受賞[2]。また長年刑務所の篤志面接委員を務めた功績に対し、藍綬褒章が贈られた。同年12月23日、翌年に控えた静岡川柳社50周年と喜寿の祝賀を前に没す[8]。告別式は静岡市内の西敬寺にて営まれた。戒名は染香院釈竹圓。
静岡市登呂公園に句碑が建ち、後に静岡市常磐公園に移される。夫人の号は榎田柳葉女(りゅうようじょ)[9][注釈 3]。竹林と共に、おしどり川柳作家として知られた。
月といる窓のひとゝき真人間 竹林 おもいでのどこにもそばにうちの人 柳葉女
著書
- 句集鎹 : 榎田竹林夫妻句集 川柳おもいで吟社 1973
栄典
- 藍綬褒章(1974年)
脚注
注釈
- ↑ 1916年に静岡民友新聞の川柳欄に投稿したことが、後にその道へ入るきっかけとなった[6]。
- ↑ 矢村義塾は昌平黌で学んだ矢村宣昭が地元の名士・萩原佐吉に招かれ1900年(明治33年)に創設されたが、全教科を一人で教えていた矢村が急逝。精華女学校で教員をしていた八木晩翠が後任となるも、英語と数学は担当外であった。その上ギリギリの経営のため、無給で教えてくれる人物を探していた。榎田は自身の勉強にもなるので、とこれを引き受け、閉塾となる1919年まで教員を続けた[7]。同塾の出身者には千葉市義会で議長を務めた山本秀一などがいる。
- ↑ 本名は榎田はま。1898年8月、静岡市寺町の生まれ[10]。榎田の活動に合流する前は、柳葉の号で弟・海童子と川柳句報「しづはた」を発行していた[6]。
出典
- 1 2 『わが青春』 第2集、静岡新聞社、1973年、188頁。NDLJP:12190285/97。
- 1 2 3 4 5 『静岡大百科事典』97頁。 静岡新聞社 昭和53年3月
- ↑ 『静岡年鑑』(49年版別冊人名禄)静岡新聞社、1974年、34頁。NDLJP:9568873/21。
- ↑ 『わが青春』 第2集、静岡新聞社、1973年、192頁。NDLJP:12190285/99。
- ↑ 『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 50頁。
- 1 2 3 岡田英雄『静岡県の文学碑』静岡谷島屋、1985年1月、178-179頁。NDLJP:12502017/101。
- ↑ 『わが青春』 第2集、静岡新聞社、1973年、195-196頁。NDLJP:12190285/100。
- ↑ 『川柳きやり』56 (2) (642)、川柳きやり吟社、1975年2月、42頁。NDLJP:6082817/23。
- ↑ コトバンク 20世紀日本人名事典 榎田柳葉女
- ↑ 『現代川柳ハンドブック』雄山閣出版、1998年11月。NDLJP:14186967/26。