榛谷美枝子
榛谷 美枝子(はんがい みえこ、1916年〈大正5年〉7月22日 - 2013年〈平成25年〉1月26日)は、日本の俳人。
生涯
1916年(大正5年)7月22日、北海道空知郡江部乙村(後の滝川市江部乙町)にて、榛谷
病弱な質であり、1929年(昭和4年)に妹背牛小学校を卒業したのちは北海道庁立札幌高等女学校に進学するも、4年生の時に体調を崩す[2]。途中で深川女子高等学校に転校し、1933年(昭和8年)にその第1期生として卒業した[2]。1934年(昭和9年)前後は、三味線・琴・日本舞踊を習うため、深川に通い続けた[3]。
美枝子が学生生活を送っていたころ、父の清水はホトトギス派の俳人として活動しており、1930年(昭和5年)6月に「妹背牛ホトトギス俳句会」を設立し、推されてその会長となった[4]。美枝子は学生の身ながらも会員となり、夏休みや冬休みには句会に参加していた[5]。彼女が本格的に俳句を始めたのは女学校の卒業後で、1933年(昭和8年)8月[5]、石田
一方、私生活では医師の大野四郎と結婚し[6]、一男一女に恵まれた[5]。四郎もまた俳句に親しむ人物であり、「白城」の号で作句活動を行っていたが[6]、やがて出征を余儀なくされ、ニューギニア戦線で戦死した[5]。
その後、洋画家の一木万寿三と再婚し、芸術家同士の夫婦生活を30年ほど続けることになる[5]。
俳人としては、1945年(昭和20年)9月にホトトギス派の「江部乙俳句会」を設立し、美枝子がその代表となった[7]。そして1949年(昭和24年)、山口青邨に師事する[1]。
1960年(昭和35年)、札幌市に転居[7]。また同年、北海道俳句協会の常任委員となる[1]。
1965年(昭和40年)は『夏草』の同人、1978年(昭和53年)は『壺』の同人となる[1]。
1981年(昭和56年)、2番目の夫の万寿三と死別する[5]。
リラ冷え
1960年代初め、美枝子は以下の句を作った。
リラ冷えや 睡眠剤は まだ効きて
「リラ」とはライラックのことで、この花の咲く5月末ころの北海道の冷え込みを「リラ冷え」と表現したものである[1]。
この言葉は、1971年(昭和46年)の渡辺淳一の小説『リラ冷えの街』によって広く知られるようになり、春の季語として定着した[1]。
句集
- 『雪礫』1968年8月
- 『冷夏』1977年7月
- 『山湖晩秋』1984年7月
- 『春風愁雨』1989年10月
- 『冬花火』1997年7月
- 『夕牡丹』2004年3月
句碑
1987年(昭和62年)6月26日、江部乙中央児童公園内に、榛谷一夢(清水)と美枝子の句碑が建てられる[6]。
1992年(平成4年)10月25日、妹背牛町開基百年を祝して、役場敷地内に榛谷父子の第2句碑が建てられた[5]。
- 江部乙町の碑
- 妹背牛町の碑
脚注
参考文献
- 『滝川市史』 下巻、滝川市、1981年3月31日。
- 『滝川市史』 続巻、滝川市、1991年3月31日。
- 『妹背牛町百年史』 上巻〈本編〉、妹背牛町、1993年11月30日。
- 『現代物故者事典 2012〜2014』日外アソシエーツ、2015年3月25日。ISBN 978-4-8169-2527-6。