正親町実秀
| 時代 | 室町時代前期-中期 |
|---|---|
| 生誕 | 嘉慶2年(1388年) |
| 死没 | 永享4年(1432年)6月某日 |
| 改名 | 実秀→祐実(法名) |
| 別名 | 正親町中将、裏辻宰相中将、裏辻大納言入道 |
| 官位 | 従一位、権大納言 |
| 主君 | 後小松天皇→称光天皇 |
| 氏族 | 正親町家 |
| 父母 | 父:正親町公仲、母:不詳 |
| 妻 | 不詳 |
| 子 | 持季、小倉実右、公澄、弘芸、頼子、称光院上臈? |
正親町 実秀/裏辻 実秀(おおぎまち さねひで/うらつじ さねひで)は、室町時代前期から中期にかけての公卿、歌人。権大納言・正親町公仲の子。官位は従一位・権大納言。正親町家6代。別名は正親町中将[1]、裏辻宰相中将[2]、裏辻大納言入道[3]。琴に長けていた。
経歴
左近衛中将、蔵人頭を経て、応永18年(1411年)四位で参議に任ぜられ公卿に列する。翌応永19年(1412年)中将のまま従三位に昇進する。
その後は応永23年(1416年)権中納言、応永24年(1417年)従二位、応永28年(1421年)権大納言、応永30年(1423年)正二位と順調に昇進を重ねる。正長元年(1428年)従一位に昇進するも、翌日出家し祐実と名乗る。
永享4年(1432年)6月に45歳で逝去[3]。「看聞日記」によると、将軍・足利義教の不興を買って領地を没収されたため餓死したという[注釈 1]。
官歴
注釈のないものは『公卿補任』による
- 応永10年(1403年) 正月6日:正五位下[5]
- 応永14年(1407年) 11月27日:見従四位上、右近衛権中将[6]
- 時期不詳:左近衛中将
- 応永16年(1409年) 7月23日[7]:蔵人頭
- 時期不詳:正四位下
- 応永18年(1411年) 11月25日:正四位上(右中将如元)
- 応永19年(1412年) 正月5日:従三位。正月28日:備中守
- 応永22年(1415年) 11月20日[7]:正三位
- 応永23年(1416年) 11月4日:権中納言
- 応永24年(1417年) 正月5日:従二位
- 応永28年(1421年) 6月12日:権大納言
- 応永30年(1423年) 正月5日:正二位
- 正長元年(1428年) 正月22日:従一位。正月23日:出家
- 永享4年(1432年) 6月某日:逝去(享年45)[3]
系譜
注釈のないものは『宮廷公家系図集覧』による[8]
出典
- 黒板勝美『公卿補任』吉川弘文館、2000年。
- 近藤敏喬『宮廷公家系図集覧』東京堂出版、1994年。doi:10.11501/13134523。ISBN 4-490-20243-1。2026年1月25日閲覧。
- 坂本武雄『公卿辞典』七丈書院、1944年。
- 正宗敦夫『諸家伝 一―三』日本古典全集刊行会〈日本古典全集〉、1939年。doi:10.11501/1042959。2026年1月25日閲覧。