武行徳
経歴
成長すると、身長9尺あまりあり、才能と容貌に優れていた。家は貧しく、木こりを生業としていた。石敬瑭が太原府に駐屯し、休日に郊外に出ると、薪を背負った行徳と出会った。石敬瑭は行徳のたくましい体つきと背負っている薪の量が尋常でないのを見て、力士として召し抱え、幕下に留めた[1]。
後晋の天福初年、行徳は奉国都頭に任じられ、指揮使に転じた。控鶴指揮使・寧国軍都虞候となった。開運4年(947年)、契丹の太宗が開封に入ると、行徳は捕らえられ、本心を偽って契丹に任用を求めた。契丹はかれを信用して、舟数十隻に鎧甲を載せて、将校軍兵を率いて太原に帰らせた。開封から河陰にいたって、行徳は諸将を扇動して契丹から離反させた。汜水から河陽に向かい、契丹の河陽三城節度使崔廷勲を破って、河陽を占拠した[2]。
天福12年(同年)、行徳は後漢の高祖劉知遠が太原で起兵したと聞くと、すぐさま河陽都部署を自称し、弟の武行友を派遣して間道を通って勧進の上表を奉った。高祖に喜ばれ、河陽三城節度使に任じられた。高祖が晋州・絳州から洛陽に入ると、行徳は高祖を迎えて、部下の兵を率いてともに開封に入り、河陽に帰った。乾祐年間、同平章事を加えられ、真定尹・鎮州成徳軍節度使に転じた[3]。
後周の広順元年(951年)、行徳は侍中を兼ねた。まもなく許州忠武軍節度使に任じられ、河南尹・西京留守となった。ときに禁制の私塩を城に入れて法を犯した者は死罪とすることになっており、告発した者には厚く褒美を与えることになっていた。あるとき洛陽の民家の老女が城に入って野菜を売ろうとしていた。ある僧がその老女から野菜を買おうとして、丸い箱に塩が置かれているのを見つけた。老女はこれから城に入ろうとしていることを正直に答えたので、僧は買わずに立ち去った。老女が城に入ると、門番の役人が捜索して塩をみつけ、老女を捕らえて府に訴え出た。行徳は塩を盛った包みが老女の所有でないことを発見し、疑って老女を詰問した。老女は城外で出会った僧が野菜を買おうと長いこと眺めてから立ち去ったことを証言した。行徳がすぐさま僧を捕らえて尋問したところ、門番の役人とともに老女を誣告して褒美をもらおうとしたことを自白した。行徳は老女を釈放して、僧と門番の役人数人を斬った。洛陽の人々は行徳の明察を畏敬し、部下は粛然とした。広順3年(953年)、父が死去して、行徳は喪に服すべきところ、まもなく官に復帰した[3]。
顕徳元年(954年)、行徳は開府の階位を加えられ、譙国公に進封された。世宗柴栄が即位すると、行徳は中書令を兼ねた。かつて世宗が河東から帰る途中、河陽に宿営し、洛陽の城壁の上が欠けていたことから、これを修繕するよう行徳に命じた。行徳は民衆1万人あまりを動員してその城壁を修築し、邢国公に封じられた。その年の秋、王晏に代わって徐州武寧軍節度使となり、王晏とその任を交換した。先立って唐末に呉の楊氏が淮南を占拠して以来、甬橋の東南から汴水が決壊し、水が巡り集まって濁った沢となっていた。顕徳2年(955年)、後周が南征の議論をはじめると、行徳は所管の成人男子を動員して汴水の古堤を修築して水流を導き、東方の泗上まで達した。顕徳3年(956年)、世宗が親征すると、行徳は濠州行営都部署となり、南唐軍2000人あまりを州境で破った。顕徳4年(957年)、軍を率いて定遠に駐屯し、濠州の州城に迫ったが、南唐軍に敗れて、死者数百人を出した。行徳は身ひとつで逃亡して、右衛上将軍に左遷された。顕徳5年(958年)、南唐を降すと、行徳は鄜州保大軍節度使となり、中書令を兼ねた。顕徳6年(959年)、恭帝柴宗訓が即位すると、行徳は宋国公に進封された[4]。
北宋の初年、行徳は中書令を加えられ、韓国公に進封された。再び忠武軍節度使に任じられ、魏国公に改封された。乾徳2年(964年)、冬、安州節度使に転じ、開府儀同三司を加えられた。開宝2年(969年)、入朝して太子太傅となった。太平興国3年(978年)、本官のまま致仕した。太平興国4年(979年)、死去した。享年は72。太師の位を追贈された[5]。
脚注
伝記資料
- 『宋史』巻252 列伝第11
参考文献
- 『宋史』中華書局、1985年。ISBN 7-101-00323-0。