比嘉鉄也

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比嘉 鉄也
ひが てつや
名護市長(3期)
任期
1986年8月31日 – 1997年12月25日
前任者渡具知裕徳
後任者岸本建男
個人情報
生誕 (1927-07-31) 1927年7月31日[1]
沖縄県名護市東江
死没2026年11月6日(2026-11-06)(99歳没)
沖縄県名護市
政党無所属
職業政治家

比嘉 鉄也(ひが てつや、1927年7月31日 - 2026年11月6日)は、日本の政治家。元沖縄県名護市長(1986年から1997年まで3期)。名桜大学の運営母体であった学校法人名護総合学園の元理事長。

来歴

1927年名護市東江に生まれる。若年期に海軍へ志願し、東南アジア方面へ出征した[2]。戦後、名護町議を経て名護市議を1986年まで務め[3]、1986年から1997年まで名護市長(3期)[4]。1997年、米軍普天間飛行場の辺野古移設をめぐり、市民投票で反対が過半数を超えた結果を踏まえつつも、名護市長として移設受け入れを表明したうえで辞表を提出し政界を引退した[5][6]。

1994年に設立された名桜大学の運営母体であった学校法人名護総合学園の理事長を務め[7]、2010年(平成22年)の同学の公立法人化にも尽力した[8][9][10]。

2003年(平成15年)秋、旭日中綬章[11][12]。

2023年10月には、数え年97歳の長寿の祝いであるカジマヤー祝いが行われ、名護市長らが訪問した[13]。同年、自伝『熟慮断行「やんばるはひとつ」』を刊行した。同書には戦争体験、市長としての判断、住民投票の経緯などが記されている[14][15]。

2026年8月には、数え年で100歳を迎えたことを祝う「百寿祝い」の会が名護市内で盛大に開かれた[16][17]。

2026年11月6日、名護市内の自宅で老衰で死去。99歳歿[18]。

名護市長として

1986年8月31日の名護市長選挙で、当時現職の渡具知裕徳を破って初当選した[19][20]。

※当日有権者数:32,396人 最終投票率:89.69%(前回比:前回比pts)

候補者名年齢所属党派新旧別得票数得票率推薦・支持
比嘉鉄也59無新15,179票%自民・民社推薦
渡具知裕徳57無現13,500票%沖縄社会大衆・社会・共産推薦、公明支持

1990年9月2日の 名護市長選挙で再選[21]。

※当日有権者数:33,977人 最終投票率:88.65%

候補者名年齢所属党派新旧別得票数得票率推薦・支持
比嘉鉄也63無現15,474票%自民・民社推薦
渡具知裕徳61無前14,236票%社会・協賛・沖縄社会大衆推薦、公明支持

1994年8月28日の名護市長選挙で3選を果たした[22]

※当日有権者数:36,009人 最終投票率:86.42%

候補者名年齢所属党派新旧別得票数得票率推薦・支持
比嘉鉄也67無現16,729票%自民・新生・民社推薦
新里邦明60無新13,786票%社会・日本新・共産・沖縄社会大衆推薦、公明支持

辺野古移設問題と判断の背景

1995年(平成7年)9月4日の沖縄米兵少女暴行事件のあと沖縄県では反基地感情及び反米感情が激化し、この県民感情を鎮めて基地維持の安定を図るため、日米両政府によって沖縄に関する特別行動委員会(SACO)が11月に設置された。

1996年4月15日のSACO中間報告で普天間飛行場の返還が明記され[23]、普天間の代替施設に「海上施設の開発及び建設」が浮上。12月2日のSACO最終報告で日米両政府は普天間飛行場の全面返還と県内移設に合意、普天間の移設先としては「沖縄本島の東海岸沖」と表記された[24][25]。最終報告に具体的な地名は挙げられていないが、移転先に想定されたのはキャンプ・シュワブ沖(名護市辺野古の海岸沖)であった。

1996年に辺野古沖への移設案が出た当初は比嘉自身も反対の姿勢だった[26][27][注 1]。当時の県知事大田昌秀は「一義的には国と市町村が解決すべき」としてシュワブ沖案に対して態度を明確にせず、比嘉は名護市長として判断を迫られた[26][29]。

1997年4月18日、比嘉は海上ヘリポート候補水域の「海上基地事前調査(基礎調査)」の受け入れを表明し[30][31]、同年8月、政府によるボーリング調査が開始された[32]。11月、政府は海上ヘリポート政府基本案を県及び名護市に提示[33]。12月21日、名護市における米軍のヘリポート基地建設の是非を問う市民投票(名護市民投票)が実施され、移設反対票と条件付き反対票の合計が過半数を占める結果となった。比嘉は大田知事への面会を希望したが、知事は名護市への移転に賛成反対を明確にせず会おうとしなかった。比嘉は投票から3日後の12月24日に橋本龍太郎首相に面会して移設受け入れと辞意を表明し、併せて北部地域の振興を願った[34]。橋本内閣で沖縄担当の首相補佐官として沖縄の産業振興と基地の問題にあたった岡本行夫は、比嘉が首相に会って基地は県外移設が最も望ましい。しかし、今それが無理なら基地に苦しんでいる人々を救うためにも名護への移設を受け入れます。ただ、我々は自分たちの土地を先祖代々から守ってきました。その北部12市町村の振興をぜひお願いしたい。これが私の遺言ですと言ったと証言している[35][注 2]。翌12月25日、比嘉は辞表を市議会議長に提出し[36]、12月25日の記者会見で、市民投票の結果は厳粛に受け止めた上で、基地の整理縮小につながる道であると考えてヘリポートの建設の受け入れを責任者として決断したと語った[37]。

市民投票の結果、反対票と賛成票の重みを厳粛に受け止め、熟慮を重ねました。そして、考えに考え抜いた結果、行政を預かる責任者として、苦渋の選択ではありましたが、ヘリポートの建設を受け入れる道を選ぶことを決意しました。

(中略)

私はこうした基本的な問題に県の判断が示されないことに困惑しながら、県外移設の要求を続ける過程においても、より小さな負担を名護市が受け入れることで普天間飛行場の危険が解消され、基地の整理・縮小につながる道であるとするならば、批判があってもあえてその道を選ぼうと苦悩の末に決心しました。
—比嘉鉄也、沖縄・名護市長の声明要旨(1997年12月25日)より抜粋、読売新聞1997年12月26日西部朝刊21頁

翌1998年(平成10年)2月8日の市長選挙に自身は立候補せず、後継に指名した元助役の岸本建男は基地移設反対派の候補玉城義和を抑えて当選した。大田知事が辺野古移転に反対を表明したのは、この市長選挙の終盤に差し掛かってからであった。同年、住民投票で反対が過半数を占めた結果に反して比嘉前市長がヘリポート建設受け入れ表明したことで「精神的苦痛を受けた」として、市民504人が比嘉前市長と名護市を相手に損害賠償請求訴訟を起こした(2000年5月9日、那覇地裁は請求を棄却)[38][39]。

近年も辺野古移設問題に関する取材に応じ、当時の判断や現在の情勢について語っている。2023年のインタビューでは、比嘉は受け入れ判断について「反対多数でも判断に影響はなかった」[26]「名護市民とやんばる全体の振興策が必要だった」とし、政府に対し北部振興策の実施を求めた。また「普天間という大きな山を動かすために、決まったことは早く進めるべきだ」とも述べている[40]。

地域振興と基地問題の狭間で揺れた政治判断として研究対象にも取り上げられている。

著書

  • 自伝『熟慮断行「やんばるはひとつ」』新星出版、2023年(非売品、165ページ)[41]

脚注

注釈

  1. ↑ 1996年11月9日に開かれた「名護市域への代替ヘリポート建設反対市民総決起大会」(第2回)では実行委員長挨拶で「代替ヘリポートの建設には断固反対する」としている[28]。
  2. ↑ この経緯は岡本行夫の証言録『岡本行夫 現場主義を貫いた外交官』第6章「移設受け入れを決断した名護市長の苦悶」(261-279ページ)および『沖縄普天間飛行場代替施設問題10年史 決断』第1編5「比嘉鉄也市長の決断」(42-66ページ)に詳しい。

出典

  1. ↑ “名護市長選挙”. 名護市. 名護市選挙管理委員会. 2026年9月13日閲覧。
  2. ↑ “魚雷攻撃で船が沈没「死を覚悟」 辺野古受け入れの元名護市長が語る戦争体験”. 琉球新報デジタル. 2026年9月11日閲覧.
  3. ↑ “名護市議会議員選挙[XLS:284KB]” (XLS). 名護市役所 各種選挙の結果. 名護市. 2026年8月9日閲覧。
  4. ↑ “名護市長選挙[XLS:223KB]]” (XLS). 名護市役所 各種選挙の結果. 名護市. 2026年9月9日閲覧。
  5. ↑ INC, SANKEI DIGITAL (2021年8月7日). “【独占手記】江田憲司が初めて明かす普天間合意「23年目の真実」(4/6ページ)”. イザ!. iRONNA. 2026年9月13日閲覧。
  6. ↑ “週刊現代(4/24)にインタビュー記事掲載されました。 - 江田けんじNET”. www.eda-k.net. 2026年9月13日閲覧。
  7. ↑ 琉球新報社 (2005年9月25日). “【アルゼンチン】名桜大学から26人現地実習”. 琉球新報デジタル. 2026年1月28日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2026年9月13日閲覧.
  8. ↑ “公立大学法人名桜大学記念碑除幕式を挙行|最新情報|名桜大学”. 名桜大学. 2026年9月13日閲覧。
  9. ↑ “瀬名波榮喜名誉学長 平成29年春の叙勲「瑞宝中綬章」受章 祝賀会が盛大に開催される|最新情報|名桜大学”. 名桜大学. 2026年9月13日閲覧。
  10. ↑ 佐藤裁也『沖縄担当2000日の記録―平成の沖縄振興―』信山社、2022年8月、20–22, 32, 36, 63, 67, 68, 89, 93, 94, 121, 170–172, 176, 203, 205, 206, 223頁。ISBN 978-4797285024。
  11. ↑ “秋の叙勲 受章者(その2)”. 毎日新聞(マイサク). 2003年11月3日. p. 19.
  12. ↑ “秋の叙勲”. 朝日新聞. 2003年11月3日.
  13. ↑ “比嘉・元名護市長がカジマヤー、自分史も発行「長生きしたらカリーある」 辺野古新基地問題など対応”. 琉球新報. 琉球新報社 (2023年11月1日). 2026年9月17日閲覧。
  14. ↑ “米軍普天間飛行場移設、批判覚悟で「苦渋の」受け入れ容認…元名護市長の自伝刊行”. 読売新聞 (2023年8月18日). 2026年9月13日閲覧。
  15. ↑ “[辺野古刻々]「苦渋の決断」自伝につづる 元名護市長の比嘉さん 新基地建設「前に進めて」”. 沖縄タイムス+プラス (2023年12月30日). 2026年9月13日閲覧。
  16. ↑ 凪姫, 玉城 (2026年8月31日). “百寿の道のり、名護と共に 元市長・比嘉鉄也さん、市民ら祝う”. 琉球新報デジタル. 2026年9月2日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2026年9月13日閲覧.
  17. ↑ “元市長の比嘉さん 百寿 名護でお祝い 220人と歓喜”. 沖縄タイムス+プラス (2026年8月8日). 2026年9月13日閲覧。
  18. ↑ “元名護市長の比嘉鉄也さん死去、99歳…「普天間の危険解消されるなら」と名護市沖への受け入れ表明し辞職”. 読売新聞. 2026年11月7日. 2026年11月7日閲覧.
  19. ↑ “名護市長選挙[XLS:223KB]” (XLS). 名護市役所 各種選挙の結果. 名護市. 2026年9月11日閲覧。
  20. ↑ “名護(沖縄)市長選”. 読売新聞(ヨミダスにて確認). 1986年9月2日. p. 3.
  21. ↑ “名護(沖縄)市長選 現職・比嘉鉄也氏が再選”. 読売新聞(ヨミダスにて確認). 1990年9月4日. p. 3.
  22. ↑ “名護(沖縄)市長選 比嘉鉄也氏が3選”. 読売新聞(ヨミダスにて確認). 1994年8月29日. p. 3.
  23. ↑ “防衛省・自衛隊:SACO中間報告(仮訳)”. www.mod.go.jp. 2026年9月14日閲覧。
  24. ↑ “防衛省・自衛隊:SACO最終報告(仮訳)”. www.mod.go.jp. 2026年9月14日閲覧。
  25. ↑ “防衛省・自衛隊:普天間飛行場に関するSACO最終報告(仮訳)”. www.mod.go.jp. 2026年9月14日閲覧。
  26. 1 2 3 誠二, 大城 (2017年12月21日). “辺野古移設市民投票20年 比嘉元市長、反対結果影響「なかった」”. 琉球新報デジタル. 2025年11月4日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2026年9月13日閲覧.
  27. ↑ 琉球新報社 (2019年2月13日). “〈私の視座 2・24県民投票〉4 元名護市長・比嘉鉄也氏 移設問題に決着を 結果受けた交渉に注目 - 琉球新報デジタル”. 琉球新報デジタル. 2024年8月4日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2026年9月13日閲覧.
  28. ↑ 普天間飛行場代替施設問題10年史出版委員会 編『『沖縄普天間飛行場代替施設問題10年史 決断』』北部地域振興協議会、2008年、260-261頁。
  29. ↑ “普天間緊急インタビュー/1 比嘉鉄也・前名護市長 振興策実現の市益優先”. 毎日新聞(マイサク). 1998年2月12日. p. 2.
  30. ↑ “検証 沖縄基地問題(上)県内移設、揺らぐ「反対」(連載)”. 読売新聞(ヨミダス). 1996年12月6日. p. 30.
  31. ↑ “キャンプ・シュワブ沖の海上ヘリポート調査受け入れ 沖縄・名護市長が表明”. 読売新聞(ヨミダス). 1997年4月19日. p. 5.
  32. ↑ 沖縄県. “辺野古新基地建設問題の経緯|沖縄県公式ホームページ”. 沖縄県公式ホームページ. 2026年9月13日閲覧。
  33. ↑ 沖縄県. “辺野古新基地建設問題の経緯|沖縄県公式ホームページ”. 沖縄県公式ホームページ. 2026年9月17日閲覧。
  34. ↑ 日本放送協会 (2023年12月6日). “歴代名護市長から見た辺野古移設の“現在地””. NHKニュース. 2026年9月13日閲覧。
  35. ↑ 「第6章 沖縄の苦しみとともに」『岡本行夫 現場主義を貫いた外交官』朝日新聞出版、2020年、217-279頁。
  36. ↑ “海上基地受け入れ 名護市長が辞任 「歴史が理解してくれる」”. 産経新聞. 1997年12月26日.
  37. ↑ 沖縄・名護市長の声明要旨(1997年12月25日) 読売新聞1997年12月26日西部朝刊21頁(ヨミダスにて2026年8月18日確認)
  38. ↑ “海上ヘリポート、名護市長の受け入れ是認 住民投票、首長拘束せずーー那覇地裁判決”. 毎日新聞(マイサク). 2000年5月9日.
  39. ↑ https://www.pref.okinawa.jp/kititaisaku/DP-08-13.pdf
  40. ↑ “米軍普天間飛行場移設、批判覚悟で「苦渋の」受け入れ容認…元名護市長の自伝刊行”. 読売新聞 (2023年8月18日). 2026年9月13日閲覧。
  41. ↑ “簡単検索 | 名護市立中央図書館”. www.im.licsre-saas.jp. 2026年9月17日閲覧。

参考文献

  • 『沖縄米軍基地全史』野添文彬 吉川弘文館 2020年
  • 『沖縄普天間飛行場代替施設問題10年史 決断』普天間飛行場代替施設問題10年史出版委員会(編)、北部地域振興協議会 2008年
  • 岡本行夫『岡本行夫 現場主義を貫いた外交官』朝日新聞出版 2020年

関連項目

外部リンク