沈婺華

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沈皇后
南朝陳の皇后
在位 太建14年1月25日 - 禎明3年1月22日
(582年3月4日 - 589年2月12日)

全名 沈婺華
出生 紹泰元年(555年)頃
死去 貞観元年(627年)頃
配偶者 陳叔宝
氏族 呉興沈氏
父親 沈君理
母親 会稽公主(中国語版)
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沈 婺華(しん ぶか)は、陳の最後の皇帝陳叔宝の皇后。武帝陳霸先の外孫。本貫は呉興郡武康県。

経歴

沈君理と会稽公主(中国語版)(陳霸先の娘)の間の娘として生まれた。陳叔宝の又従姉妹にあたる。母の公主を早くに亡くし、婺華は幼いながらに服喪して痩せ細った。服喪を終えても、歳時のおりふしにひとり端座して涕泣したため、周囲にもの珍しがられた。太建3年(571年)、東宮に入って皇太子妃となった。太建5年(573年)、父の君理が死去すると、別殿にうつって服喪したが、哀しんで痩せ細ることは礼の規定を越えていた。太建14年(582年)、叔宝が即位すると、皇后に立てられた。子がなく、孫姫の生んだ陳胤を養子とした。

沈婺華は行いが正しく物静かで、欲が少なく、聡明で記憶に優れ、経書・史書を好んで読んだ。叔宝は貴妃の張麗華を寵愛して皇后の婺華をかえりみなかったが、婺華は怨みごとを言うことがなかった。倹約を心がけ、衣服には錦繡の飾りもなく、側近の近侍は100人ほどいるばかりで、ただ史籍や仏教経典を読んで暮らした。叔宝は廃后も考えていたが、実行する前に陳が滅亡した。

禎明3年(589年)、隋が陳を滅ぼすと、叔宝とともに長安に入った。仁寿4年(604年)、叔宝が死去すると、婺華は自ら哀辞を作った。隋の煬帝が地方を巡幸するたびに、婺華は必ずつき従った。大業14年(618年)、煬帝が宇文化及に殺害されると、婺華は広陵から郷里の呉興郡に帰った。毗陵の天静寺で尼となり、法名を観音といった。唐の貞観初年に死去した。

伝記資料