河原御所の乱
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河原御所の乱(かわはらごしょのらん)は、1562年1月(永禄5年)に浪岡城および浪岡御所(現在の青森県青森市浪岡)で発生した内乱[1]である。
勃発の経緯
北畠具信(浪岡具信)は、浪岡氏(浪岡北畠氏)の出身であり、村上源氏の一族北畠家の流れをくむ陸奥国の国司の一族である。官位は従四位下・左近衛中将であった。
具信と、当時浪岡北畠氏の第9代当主で実の甥にあたる浪岡具運との間で所領問題を巡る対立が生じ、具信が具運を暗殺した。これが河原御所の乱の勃発の経緯である。
経過
具信が具運を暗殺したことで、浪岡家の当主が不在となった。直後、具運の弟である浪岡顕範が駆けつけ、具信をその場で討ち果たした。兄の仇を討った顕範は、具運の子である顕村(あきむら)を後見する形で場を収めると、浪岡御所から川を挟んで隣接する具信の居城・川原御所()へ攻め込んで残党を滅ぼし、乱を収束させた。
影響と浪岡家の滅亡
乱後、顕範は幼少の顕村を擁立して家政の立て直しを図ったが、このお家騒動をきっかけに一族の求心力や家臣団の結束が大きく揺らいだ。
この内乱に乗じ、南部氏から自立して勢力拡大を図っていた津軽為信(大浦為信)が、力を失った浪岡北畠家へ侵攻した[2]。河原御所の乱から15年後の1578年、為信の軍勢が浪岡城を三方から攻め立てて落城させ、戦国大名としての浪岡家は滅亡した。顕村は西根の寺で自害させられたとも、安東氏に庇護されたとも伝わる[3]。
脚注
出典
- ↑ 城迷人たかだ (2017年9月10日). “浪岡城(浪岡御所)【続日本100名城】川原御所の乱~浪岡北畠氏の本拠地を歩く”. お城解説「日本全国」1300情報【城旅人】. 2026年10月17日閲覧。
- ↑ “川原館跡”. www.library.city.aomori.aomori.jp. 2026年10月17日閲覧。
- ↑ “中世の津軽で大勢力を誇った「浪岡北畠氏」の謎【謎解き歴史紀行「半島をゆく」歴史解説編】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト” (2015年12月16日). 2026年10月17日閲覧。