河豚笛

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ふく笛:創案;河村幸次郎、製作;原田安兵衛。

河豚笛(ふぐぶえ)はフグを模して作られる土笛で郷土玩具の一種。山口県下関市のものが有名。下関では福を呼ぶ縁起担ぎから「ふく笛」と称す。黒と白を基調に彩色され、尾の部分を吹いて音を出す。吹くとフクロウの鳴き声のような音が出る。サイズは大小あり、小さいものでは高さは5cm前後。

歴史

河豚笛は昭和初期の郷土玩具ブームの中で新たに生まれた創生郷土玩具の一つである。最初期の濱島静波(はまじま せいは)の河豚笛は写実的であったが、河村幸次郎の河豚笛はデフォルメされた愛らしいデザインから西日本を代表する郷土玩具の一つとなり、様々な河豚笛を派生させながら今に至っている。

誕生の1930年代

昭和初期に名古屋の郷土玩具研究家である濱島静波(1901~1941)が、写実的な造形で河豚笛を初めて製作。1933年に郷土玩具画家の川崎巨泉に寄贈され、1934年発行の『おもちゃ画譜 第7集』に収録された。[1]

また、同時期に下関の実業家で文化人の河村幸次郎(1901~1994)がふく笛を創案。1935年に下関郷玩同好会を結成し、郷土玩具雑誌『河豚笛』を発行する。その創刊号にて下関創生玩具として「馬関ふく笛」が発表される。河村幸次郎の図案は、フグの小さな目を大きく描き、胸びれを3本の涙線で表現するなどの、当時としては独創的なデザインを有していた。[2]これが後に河豚笛のスタンダードモデルとなったほか、フグの目を大きく描くデザインの起こりともなった。1950年発行の『ふく笛』復刊第一号で、河村幸次郎自身が「下関で私が作った郷土玩具の中で代表的なものは河豚笛である」と著述しており、また「小さい河豚の目を誇張して大きく描いて、図案効果を出してみた」と、自らの創作について語っている。[3]

ふく笛の『河豚笛』創刊号での発表にあたり、河村幸次郎は、モマ笛(梟笛)で有名な津屋崎きっての名人と言われた原田安兵衛(1872~1944)に製作を依頼。河村幸次郎のイメージ通りにデフォルメされた丸みのある造形で作られ、ふぐ料理の本場・下関を代表する郷土玩具として世に出ることとなる。[4]河村幸次郎自身が『河豚笛』の「下関創生玩具解説」の中で《河豚中毒除に用ふ、馬関名物河豚料理の土産なり》と記しているように、当初はふぐ料理を食した記念品とされた。

1936年に歌人の吉井勇は下関を訪れた際、[5] 河村幸次郎からふく笛を贈られ「さばかりの旅の愁ひはほろほろと河豚笛吹きてあらば消むもの」と短歌を詠んでいる。[6] この時のふく笛は1938年に吉井勇宅を訪れた三代目三遊亭円馬と八代目桂文楽に手土産として進呈された。[7] また、ふく笛は1938年に川崎巨泉にも贈られ、作品集『玩具帖』の中の一枚「下関ふく笛」として描かれることになる。[8]このように文人たちに愛されたふく笛であるが、戦争という時代の荒波が押し寄せる。

途絶と復活の1940年代

支那事変における戦線の拡大と長期化や、1941年の大東亜戦争への突入により、日本国内は本格的な戦時体制下に置かれる。この当時の河村幸次郎は家業の関係で、山口県繊維製品小売商業組合連合会の代表を務めたほか、日本繊維製品小売商業組合連合会中国地区監事に就任するなど多忙を極めており、太平洋戦争開戦後には繊維製品統制協議会理事(配給部長)となっていた。こうした事情もあり、ふく笛の生産は中止、1944年に原田安兵衛が死去し、1945年の下関空襲では河村幸次郎邸が被災したこともあり、ふく笛は途絶する。

戦後、河村幸次郎が東京に活動拠点を移したこともあり、彼の意志は佐藤治(1909~1981)ら関門民芸会へと引き継がれる 。佐藤治は、河村幸次郎の下関郷土玩具同好会に参加した一人であり、自らも馬関土鈴会などを主宰する下関の郷土史研究家である。[9]

1948年に下関図書館の世話で市内の文化活動をまとめる下関文化クラブが成立する。その一派に、佐藤治が世話人を務める郷土玩具部があり、1950年、これを前身として、関門民芸会を立ち上げ、[10]河村幸次郎の承諾のもと、郷土玩具雑誌『ふく笛』復刊第一号を発行する。[11]その第三号にて、郷土玩具部にいた小門焼の焼き手・富永敏平を指導し「ふく笛」を復活したことを告知。[12]ふく笛の戦後史がここに始まる。

黄金の1950年代

 1953年、上島珈琲株式会社下関営業所の所長で、喫茶甘竹のオーナーでもあった平岡嘉夫が、ふく笛の魅力に着目し、これを模した「ふく煎餅」に実物を付けて販売することを佐藤治に相談する。[13]関門民芸会の斡旋事業として、戦前のふく笛を製作していた津屋崎を訪れ、各工房を見学し、新人人形師の垣内敬一(1921~1968)に白羽の矢を立てる。郷土玩具雑誌『ふく笛』第7号によると、垣内敬一は実直な性格や大成の器に加えて、ふく笛への関心から自らも製作していたことが記されているが、[14]依頼先とした直接の理由は、津屋崎行の道中で出会った福岡郷土会の知人からの紹介によるものと、同道した奥野三男の『下関と氏神様』に見える。また、この時の垣内敬一への依頼は、平岡がふく煎餅用のふく笛、佐藤が亀山八幡宮の鳩替用の鳩鈴であり、関門民芸会が垣内敬一にふく笛を依頼するようになるのは、もう少し後のこととなる。

1952年4月10日、ふく笛をおまけとして添えたふく煎餅は福井復興博覧会に初出品され、続く4月23日の先帝祭でも好評を博したことで、ふく笛の復活が新聞で報道された。そこには河村幸次郎のふく笛を踏襲した戦後のふく笛の姿が確認できる。[15]なお、ふく煎餅のパッケージは、関門民芸会による斡旋事業であったことから、ふく鈴2つが藁ツトの中で向き合う『ふく笛』第五号の表紙が採用されている。

その頃、河村幸次郎は東京で活動する中、全国60あまりの農村工芸作家が加入する日本農村工芸協同組合の理事長を務め、米国進駐軍の命令で全国PX(米軍基地内の売店)を巡回し、工芸作家らの作品を展示、即売などをしていた。[16]また、1952年10月、渋谷の東横百貨店にて「全国土俗玩具展」も開催する。彼の斡旋により、関門民芸会は「ふく笛」200 個を出品、会期半ばで完売する。[17]こうした河村の支援もあって、ふく笛は米国でも注目されるようになり、後に外貨獲得に向けた大量生産へと舵を切る。[18]こうした商業的展開も相まって、ふく笛製作の担い手も富永敏平から本職の垣内敬一へと移行する。[19]

そして、1955年5月26日付の朝日新聞に「花やかにドル獲得へ」という見出しが躍る。記事には《今春3月7日から5日間、ニューヨークで開かれた国際玩具展に「ふく笛」は初出品されたが、去月22日にはニュージャージー州ハリソン市のクレア・デンプシー氏から「ふく笛」を含めた日本玩具5 万ドル相当を欲しいから見本を送るよう平岡氏あて便りが舞い込んだ》とある。この記事を見ると海外への販路拡大を進めたのは平岡嘉夫であったことが分かる。また東京の国際見本市では多くの引き合いがあり《18日には神戸の貿易会社春日商会から山口県を通じて15200個の大量注文》があり、山口県の郷土玩具として県の行政が国際見本市に関わっていたことも記されている。他にも、ニューヨークのメーシー百貨店による《日本商品即売会中国ブロック展示会で入選》したことで、見本の照会があったとのこと。河村幸次郎が先鞭をつけた海外への道は、平岡嘉夫に引き継がれ、ふく笛は世界へはばたく郷土玩具となる。

また、この当時の出来事として、1958年にベルギーで開催されたブラッセル万国博覧会の日本館の展示がある。ここの運営を委託された日本貿易振興会は、企画の一つとして郷土人形玩具類を展示。[20]万博の終幕後、日本貿易振興会は郷土人形玩具類の展示により銅賞を受賞する。[21]その数ある展示物の一つとしてふく笛も選定されており、その愛らしい造形は他の郷土人形玩具とともに海外の多くの万博来場者を魅了した。なお、ふく笛単体で銅賞を受賞したかのような誤記が後世の辞典等でなされ、巷間に流布していることは留意されたい。[22]

1960年代から1990年代

1966年、佐藤治と平岡嘉夫は河村幸次郎とともに亀山八幡宮にふく笛に関わる全ての権利を奉納。当時の朝日新聞の記事によると「奉納の動機は、河村さん、平岡さんがともに亀山八幡宮の氏子で、有名になった郷土玩具を個人所有にしておくよりは、お宮に奉納し、より親しんでもらおうというもの」とある。[23]なお、亀山八幡宮はフグとゆかりのある神社で、戦前は河豚供養塔(波乗り河豚像)が建てられ、戦後は日本一のふくの像として再建されるなどしている。

その後、垣内敬一が1968年に病没、事業を引き継いだすが子夫人も健康上の理由から10年ほどで製作を中断。[24]1981年に佐藤治、1994年に河村幸次郎も亡くなり、その製作が難しいこともあって、ふく笛は幻の玩具と言われるようになった。

2010年代から現在

2013年、河村幸次郎の美術コレクションが寄贈された下関市立美術館で「河村幸次郎と美術の世界」展を開催するにあたり、その前年に河村幸次郎が手掛けた創作郷土玩具の代表作・ふく笛の復刻プロジェクトが遺族らによって始動する。ふく笛に魅了された石垣焼窯元の金子晴彦も参加してプロジェクトを統括。早稲田大学の渡辺仁史教授がCTスキャンで解析するなどして復刻に成功した。復刻されたふく笛は「河村幸次郎と美術の世界」展の開催初日に無料で来館者に配布された。[25]

文化の広がり

  • 亀山八幡宮[26]
    関門民芸会の奥田三男による絵馬
    • ふく絵馬:亀山八幡宮にゆかりのある郷土玩具「ふく笛」を元にした絵馬で、愛らしい姿から参拝者に人気の授与品となっている。
    • ふく御朱印:ふく笛の「ふく」にあやかり、毎月29日と2月9日に授与されるふく笛の限定御朱印。黒金・白銀・波乗りふくなどがあり、2月9日(ふくの日)と11月29日(いいふくの日)にも特別な金銀ふく御朱印が用意される。
  • 江戸金 [27]
    ふく笛を模した下関の銘菓の一つ
    • ふく笛最中:文久2年(1862年)創業の江戸金は亀の甲せんべいなどで知られる下関の老舗。ふく笛を意匠に取り入れた最中は下関土産の銘菓の一つだったが、コロナ禍による観光需要の低迷や後継者不足などにより2022年に廃業。近年、亀の甲せんべいの復刻版が出て、ふく笛最中の復刻も待たれる。[28]
  • 無印良品
    • 福缶プロジェクト[29]:2011年、郷土玩具の面白さを知ってもらおうと企画。東日本大震災で被災した東北を応援する思いも込めて、2012年正月、東北4県の縁起物を缶詰にして、販売をスタートした。年によってはふく笛が含まれることもあり、筑前津屋崎人形巧房が製作した。
  • 宮島の越智陶芸 [30]
    他の郷土玩具にはない写実的な造形が特徴
    • ふぐ笛:土鈴づくりのベテランと賞された越智宗政の作品。素朴で優しい見た目の鹿猿鈴が代表作品であるが、ふぐ笛は写実的な造形で陶製。下関のものとは別系統となる。戦前、京都にあった商工省陶磁器試験場(後の京都芸術大学美術部陶芸科)で学び、卒業後に宮島に移転して工房を開く。
  • 宇部市の長寿焼 [31]
    陶製のふぐ笛で鈴にもなる
    • ふぐ笛:1950年代に旧秋吉村にあった長寿焼はカエルの灰皿で有名だったが、1960年代に宇部に移転。下関のふく笛を参考にしたふぐ笛を製作する。陶製で、絵付けには釉薬を使用。紐を付けた下関のふく鈴と同じく、赤いリボンを付け、振るとカラカラと鳴る。ふぐ徳利やお猪口なども作る。製作者などは不明で、1970年代に廃絶。 [32]
  • 北九州市門司区の文字ヶ関人形 [33]
    柳瀬重朝による土捻製のふく笛
    • ふく笛:柳瀬重朝がシャボン玉売りのオマケとして下関のふく笛のユーモラスなデザインに影響を受けて創案。土型ではなく土捻が特徴で、あどけない造形は貿易玩具としても人気であった。他にもふぐ鈴を製作。1977年に製作者が死去し、今では廃絶となっている。
  • 美祢市秋芳町の康重窯(やすしげがま)[34]
    幸ふく笛:吹き口が前方にあり「幸」の陰刻が特徴的。
    • 幸ふく笛:山口県民芸作家協会の蔵本重之が下関のふく笛を元に1960年代に創案。窯銘は康江夫人と自身の名を合わせたもので、長州土鈴で知られる。幸ふく笛には「幸」の陰刻があり、前方が吹き口となっている。縁起の良い郷土玩具とされたが、1991年に蔵本重之が死去して廃番となった。現在は「民芸くらもと」が幸ふく土鈴などを製作している。
  • 福津市津屋崎の筑前津屋崎人形巧房 [35]
    筑前津屋崎人形巧房のふく笛
    • ふく笛:安永6年(1777年)から続く津屋崎人形の工房で、古博多人形の流れを汲む。素朴さと鮮やかな色彩が特徴。無印良品の福缶プロジェクトではモマ笛やふく笛などを手掛けている。下関のふく笛は三代目原田半四郎の孫・安兵衛が製作。また、これとは別のデザインを、六代目原田活男が下関の料亭に頼まれて考案し、現代でも製作されている。

エピソード

  • ふく笛献上事件

1938年4月12日、支那事変の戦傷者慰問のため、恒久王妃昌子内親王は山口広島岡山各県に出発。 [36] 慰問のためであるから献上品は受け取らないという通達も事前になされ、傷病将兵を身分を明かさずに見舞うなどの心遣いもなされた。

その途上、下関の山陽ホテルに宿泊した日のこと。ホテルから佐藤治に「下関でフグに関する玩具があったら1個でいいから持ってきてくれないか」という旨の電話がかかる。聞けば、竹田宮家ではフグに関するものを蒐集されているとのことで、佐藤は、ふく笛を1個だけ持参した。ホテル長が殿下にお渡しになると玩具の代金を尋ねられ、臨席を辞退し別室に控えていた佐藤は「私はおもちゃ屋ではない。本職があるので、お金は受け取れません」とホテル長に伝えた。では「お菓子料ということでどうか納めてもらいたい」と、二重に包装された包みを渡された。中には千疋と書かれており、2円50銭が入っていた(※ 宮中の言葉で100疋は25銭)。その後、この一件は新聞で「ふく笛を献上」と大きく報じられ、ひと騒動となったことが『ふく笛 第一号』に佐藤の述懐として収められている。[37]

脚注

出典

  1. ↑ https://dl.ndl.go.jp/pid/1188537/1/21 『おもちゃ画譜 第7集』川崎巨泉、人魚洞、昭和9年、30頁
  2. ↑ 『河豚笛』創刊号、河村幸次郎、関門文化協会、昭和10年、扉画および1頁
  3. ↑ 『ふく笛』第一号、佐藤治、関門民芸会、昭和25年、2頁
  4. ↑ 『ふく笛』第七号、佐藤治、関門民芸会、昭和27年、13~14頁
  5. ↑ https://dl.ndl.go.jp/pid/12571226/1/220 『歌行脚短信(門司・下の関)』
  6. ↑ https://dl.ndl.go.jp/pid/1128164/1/103 『天彦(筑紫中国)』
  7. ↑ https://dl.ndl.go.jp/pid/12571225/1/178 『洛北日記(秋日和)』
  8. ↑ https://da.library.pref.osaka.jp/content/detail/03-0003120 大阪府立図書館 eコレクション 下関ふく笛
  9. ↑ 『下関市史 市制施行-終戦』下関市市史編修委員会 編、1983年
  10. ↑ 『下関市史 : 市制施行以後』下関市市史編修委員会 編、1958年
  11. ↑ 雑誌『ふく笛』復刊第一号、佐藤治 編、1950年
  12. ↑ 雑誌『ふく笛』第三号、佐藤治 編、1951年
  13. ↑ 『下関と氏神様』奥野三男、1998 年、「玉替えと鳩替え」
  14. ↑ 雑誌『ふく笛』第七号、 関門民芸会(佐藤治) 編,1952 年
  15. ↑ 「フグ笛が復活しました」朝日新聞、1952年6月28日付
  16. ↑ 雑誌『ふく笛』第三号、関門民芸会(佐藤治) 編、1951年、p.3
  17. ↑ 雑誌『ふく笛』第九号、関門民芸会(佐藤治) 編、1952年,p.24
  18. ↑ 「花やかにドル獲得へ」朝日新聞、1955年5月26日付
  19. ↑ 雑誌『ふく笛』第十二号、関門民芸会(佐藤治) 編、1954年、p.2
  20. ↑ 「1958 年ブリュッセル万博日本館の音楽」愛知県立芸術大学紀要 No.51、井上さつき、2021
  21. ↑ 『工芸ニュース 27(4)』「1958年ブラッセル万国博覧会日本館内出品物受賞リスト」 工業技術院産業工芸試験所 編、1959年7月
  22. ↑ 「日本人形玩具辞典」斎藤良輔、東京堂出版、396頁
  23. ↑ 昭和41年5月11日付 朝日新聞「"河豚笛"の販売権を奉納 亀山宮へ 氏子の平岡さんら」
  24. ↑ 令和2年11月28日付 朝日新聞「ホーホー「ふく笛」復活」
  25. ↑ 平成25年11月9日付 朝日新聞「幻の郷土玩具 ふく笛復刻」
  26. ↑ http://www.kameyamagu.com/zyuyohin.htm 関の氏神 亀山八幡宮 授与品
  27. ↑ https://discoverjapan-web.com/article/61314 江戸金《山口県下関市》の「ふく笛最中」
  28. ↑ https://sasatto.jp/plus/entry-6142.html 下関銘菓「亀の甲せんべい」の令和復刻版が登場
  29. ↑ https://atelier.muji.com/jp-ja/exhibition/211217/ 無印良品と縁起物 福缶10周年企画
  30. ↑ 『おもちゃのふるさと図鑑』平田嘉一,東寺庵文庫,1985年,460-461頁
  31. ↑ 『図解工芸用陶磁器 : -伝統から科学へー』 素木洋一 著,技報堂,1970年,446-447頁
  32. ↑ 『東京年鑑 昭和31年版』(観光編 東京で買える地方の名産)同盟通信社 編,1956年
  33. ↑ 『福岡郷土玩具』境忠二郎,福岡民報社,1973年,29-30頁
  34. ↑ 『日本の土鈴』森瀬雅介・斉藤岳南,徳間書店,1977年
  35. ↑ https://tsuyazaki-ningyo.club/making-and-activities 筑前津屋崎人形巧房のものづくりと文化継承
  36. ↑ https://dl.ndl.go.jp/pid/2959862/1/27 官報(1938年04月02日) 宮廷録事 皇族王族差遣
  37. ↑ 『ふく笛』第一号、佐藤治、関門民芸会、昭和25年、3頁

参考文献

  • 『河豚笛』創刊号、河村幸次郎、関門文化協会、1935年 下関市立図書館所蔵
  • 『ふく笛』第一号、佐藤治、関門民芸会、1950年 下関市立図書館所蔵
  • 『ふく笛』第七号、佐藤治、関門民芸会、1952年 下関市立図書館所蔵
  • 記念展『河村幸次郎と美の世界 芸術は魂のたべもの』図録、下関市立美術館 編、2013年 下関市立図書館所蔵

関連項目

外部リンク