演劇検閲法

演劇検閲法(えんげきけんえつほう、Licensing Act 1737、10 Geo. 2. c. 28)は、1737年にグレートブリテン議会が制定した法律である。Theatrical Licensing Act、Stage Licensing Actなどとも呼ばれる。国王の特許状も宮内長官の免許も持たない者による有償上演を取り締まるとともに、新作などの上演前に宮内長官へ脚本を提出することを義務づけ、宮内長官に上演を禁止する権限を与えた[1]。
この法律は1843年の劇場法(6 & 7 Vict. c. 68)によって廃止された。ただし、同法は宮内長官による上演前の審査と上演禁止の権限をあらためて定めており、戯曲の事前検閲は1968年まで続いた[2][3]。
前史
ロンドンでの戯曲の検閲は、エリザベス1世の時代までに宮廷祝典局長の役割となっていた。この権限は、主に政治と宗教(冒涜を含む)に関する事項について行使された。
1642年にイングランド内戦が勃発すると、議会は劇場を閉鎖した。1660年の王政復古で劇場が再開された際、チャールズ2世が発給した王室特許状は2通のみで、ロンドンでは二つの特許劇場による寡占が成立した[4]。
1730年代には、ロンドンで免許を持たない商業劇場が相次いで現れ、既存の制定法や国王大権ではその活動を抑えられなくなっていた[5]。1735年には、ジョン・バーナードが劇場の数を制限する法案を提出したが、宮内長官に与える検閲権限をめぐって問題となり、成立しなかった[6]。
制定の経緯
1737年の法案を提案したのは、事実上の初代首相とされるロバート・ウォルポールだった。ウォルポールは風刺劇のたびたびの標的となっており、ロンドンの劇場の活動を制限し、上演前の脚本審査を導入しようとした[5]。法案は既存の浮浪者取締法 (1713年)を拡張する形式をとったため、当時は俗に「浮浪者法」とも呼ばれた[7][注 1]。
法案導入の契機となったのが、雑誌『コモン・センス』に掲載された匿名の風刺『黄金の尻』(The Vision of the Golden Rump)だった。ウォルポールは台本をヘンリー・フィールディングの作としたが、実際の作者や成立の経緯は確定していない[9]。台本の写本は現存しない[10]。
政治理論研究者のエラ・ストリートによれば、ウォルポールはその舞台化台本を入手し、法案の提出にあたって議会で朗読したという[9]。台本は劇場主ヘンリー・ギファードが買収されて提供したとされる。ギファードがすでに台本を持っていた可能性もあるが、ストリートは、ウォルポールの要求に応じて誰かに執筆を依頼した可能性の方が高いとしている[11]。
貴族院では、フィリップ・スタナップ (第4代チェスターフィールド伯)が反対演説を行った。彼は、劇作家の才知を保護されるべき財産として論じ、審査のために脚本を留め置くことを、物品税の検査で商品を調べる行為になぞらえた[12]。さらに、上演を禁止しても風刺は印刷物として流通するため、次には戯曲の出版、やがては印刷物一般への免許制が求められるようになると警告した[13]。法案の提出時期と審議の進め方も批判し、審議を次の会期に延期するよう求めた[6]。
法案は1737年5月24日に庶民院へ提出され、6月8日に貴族院の第3読会を経て、6月21日に御裁可を受けた[6]。庶民院では全会一致、貴族院では反対5票で可決された[14]。また、ウォルポールらが法案を擁護した演説の記録は残っていない一方、チェスターフィールドの反対演説は雑誌などに掲載され、広く流布したと説明している[15]。
内容
法律の正式な題名は、「アン女王治世第12年に制定された、浮浪者等に関する法律のうち、幕間劇の常打ち俳優に関する部分を説明し、改正する法律」である。1713年の浮浪者取締法の関連部分を明確にし、改めるもので、1737年6月24日から施行された[1]。主な規定は次のとおりである[1]。
- 第1条: 有償で上演する者が、国王の特許状も宮内長官の免許も持たず、上演地に法的定住権(legal settlement)もない場合は、1713年法にいう「浮浪者」とみなされ、同法の刑罰を受ける。
- 第2条: 定住権の有無にかかわらず、特許状も免許もなく有償で上演した者は、50ポンドを没収される。これが支払われた場合は、浮浪者としての刑罰を受けない。
- 第3条: 新作の劇、旧作に加える新しい場面、新しい前口上・後口上は、上演の少なくとも14日前に、写しと、上演する場所・時期を記した報告を宮内長官に送らなければならない。報告には支配人の署名を要する。
- 第4条: 宮内長官は、適当と考えるときに随時、上演の全部または一部を禁止できる。条文は禁止の基準を定めていない。第3条の提出要件に反する上演や、禁止に反する上演は、50ポンドの没収となり、劇場の免許は無効となる。
- 第5条: 特許状または免許により上演できる場所は、ウェストミンスター市とその自由区域、および国王が居住する場所とされた。後者で上演できるのは、国王の居住中に限られた。
- 第6条: 没収金は、国王の記録裁判所、スコットランドの民事・刑事裁判所、または2人の治安判事による略式手続で回収する。支払えない場合は最長6か月の拘禁とする。治安判事の命令には四季裁判所へ上訴できる。没収金は半分を告発者に、半分を教区の貧民に充てる。
- 第7条: 上演の機会に酒類などを販売する場合も、報酬目的の上演とみなす。
- 第8条: 訴追は、犯行から6か月以内に開始しなければならない。
ストリートによれば、この法律によって認められる上演は実際上、特許を持つドルリー・レーン劇場とコベント・ガーデン劇場に限られた[16]。また、宮内長官の権限が国王大権に由来するため、上演禁止の決定について法的な不服申立ての道はなく、禁止の理由を示す義務もなかった[5]。
この法律が規制したのは「上演」であり、戯曲の印刷・出版ではなかった。したがって、同法による上演禁止は、その戯曲の出版禁止を意味しなかった[17]。ただし、出版物には扇動や名誉毀損などに関する別の法規制が存在した[18]。
ストリートは、上演と出版の区別に、印刷された脚本の読者とは異なる、劇場に集まる観客への政府の警戒を読み取っている。彼女の解釈では、規制の対象は風刺的な内容だけでなく、識字能力のない者や貧困層、女性を含む多様な観客が集まり、上演に集団で反応することにもあった[17]。
戯曲審査官
宮内長官は、1738年3月10日に、戯曲審査官(Examiner of Plays)と副審査官を任命した。審査官はウィリアム・チェットウィンド、副審査官はトマス・オーデルで、俸給は審査官が400ポンド、副審査官が200ポンドだった。副審査官の職は1782年に廃止された[19]。
1738年から1968年までの間に、審査官は21人いた。審査官は、上演予定の戯曲を読んであらすじをまとめ、上演許可を推薦し、判断に迷う場合は宮内長官に相談した。また、劇場の安全性・快適性の確認、免許に関する訴訟での出廷、広告ビラの検査も求められた[2]。1911年からは、宮内長官のための報告書の作成が義務づけられた[20]。
クローマー伯爵が宮内長官だった1922年から1938年の間には、約13,000本の戯曲が許可され、年平均は約820本だった。許可されなかったのは200本未満で、年平均は約12本だった[2]。
廃止と1843年法
1830年5月25日、庶民院では、この法律のうち宮内長官が上演を禁止する権限を定めた部分を廃止する法案について、提出許可を求める動議が出されたが、否決された[21]。
1843年8月22日付の劇場法(6 & 7 Vict. c. 68)の第1条は、1737年法を長題を挙げて廃止した。ただし、同法は劇場の免許と戯曲の事前審査について、次の規定を新たに設けた[3]。
- 戯曲を上演する劇場は、特許状か、宮内長官または治安判事の免許を要する(第2条・第3条・第5条)。宮内長官の管轄は、ロンドン、ウェストミンスターなどの範囲とされた(第3条)。
- 新作の戯曲と、旧作に加える場面・前口上・後口上などは、初演の7日以上前に宮内長官へ送らなければならない(第12条)。宮内長官は、2ギニー以下の審査料を取ることができる(第13条)。
- 宮内長官は、「良き作法、礼節、または公共の平和の維持」のために適当と考える場合、英国全域で上演の全部または一部を禁止できる(第14条)。
- 許可前または禁止後に上演した者は、50ポンド以下の没収となり、劇場の免許は無効となる(第15条)。
宮内長官による戯曲の事前検閲は、その後も継続した。1968年劇場法(Theatres Act 1968)の第1条は1843年法を廃止するとともに、同法または国王大権に基づく宮内長官の演劇検閲権限を行使できないものとした[22]。
影響
『Survey of London』によれば、ヘイマーケットの小劇場は、1737年に同法の下で閉鎖された。1741年から1747年にかけては、一時的な免許や規制を回避する工夫によって上演が続けられた。後にサミュエル・フットが夏季の興行を認める王室の免許を得て、1767年にこの劇場を「シアター・ロイヤル」として開場した[23]。
赤井朋子によれば、1920年代のイギリスでは演劇検閲への関心が高まり、メディアによる批判が目立つようになった。批判には、検閲が寛容すぎるとするものと、厳格すぎるとするものの両方があった。背景には、高級な演劇と低級な演劇を区別する文化的状況、商業演劇と小劇場への二極分化があった。検閲官は、両極端の中間をとった民主的な検閲を行うと公言した。赤井は、この公言によって検閲が中産階級の一般観客を演劇の影響力から保護しようとしたのではないかと論じている[24]。
脚注
注釈
出典
- 1 2 3 “1737: 10 George 2 c.28: The Licensing Act”. The Statutes Project. 2026年10月22日閲覧。(原典は Pickering, Statutes at Large, vol. 17)
- 1 2 3 Johnston, John (1990). The Lord Chamberlain's Blue Pencil. Hodder & Stoughton
- 1 2 “Theatres Regulation, 6 & 7 Vict. c. 68”. The Statutes Project. pp. 580–585. 2026年10月22日閲覧。
- ↑ Street, Ella (2025). “"With a trembling hand, lest I destroy the Body": Censorship in 18th Century Britain, the Political Stage, and Theatrical Publics”. Theory & Event (Johns Hopkins University Press) 28 (4): 637–669. doi:10.1353/tae.2025.a971354.
- 1 2 3 Street(2025)、p.639。
- 1 2 3 Scales, Roger W. (2002年). “The Battle of the Stages: The Conflict Between the Theatre and the Institutions of Government and Religion in England 1660–1890”. City Research Online. City University. p. 98. 2026年10月22日閲覧。 博士論文。
- ↑ Street(2025)、p.642、注18。
- ↑ 平田, オリザ (2025年8月11日). “劇場はこうして進化していった…16世紀のエリザベス朝で演劇が発展した「歴史的な背景」”. 現代ビジネス. 講談社. 2026年10月22日閲覧。(『群像』2025年9月号連載「ことばと演劇」からの抜粋。浮浪者に関する記述は2ページ目)
- 1 2 Street(2025)、pp.656–657。
- ↑ Street(2025)、p.658。
- ↑ Street(2025)
- ↑ Street(2025)、pp.642–646。
- ↑ Street(2025)、p.647。
- ↑ Street(2025)、p.641。
- ↑ Street(2025)、p.641、注16・37。
- ↑ Street(2025)、p.646。
- 1 2 Street(2025)、pp.647–648。
- ↑ Street(2025)、注35。
- ↑ R. O. Bucholz: “Chamber Administration: Examiner and Deputy Examiner of Plays, 1738–1837”. Office-Holders in Modern Britain: Volume 11 (Revised), Court Officers, 1660–1837. University of London (2006年). 2026年10月22日閲覧。
- ↑ Shellard, Dominic; Nicholson, Steve; Handley, Miriam (2004). The Lord Chamberlain Regrets… A History of British Theatre Censorship. British Library. p. 25
- ↑ “House of Commons Journal Volume 85: 25 May 1830”. Journal of the House of Commons: Volume 85, 1830. British History Online. 2026年10月22日閲覧。
- ↑ “Theatres Act 1968”. legislation.gov.uk. 2026年10月22日閲覧。
- ↑ “The Haymarket”. Survey of London: Volume 20, St Martin-in-The-Fields, Pt III. London County Council. pp. 95–100 (1940年). 2026年10月22日閲覧。
- ↑ 赤井朋子「1920年代のイギリスにおける演劇検閲批判」『神戸薬科大学研究論集 Libra』3巻、神戸薬科大学、2002年、pp.13–32。