焦継勲

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焦 継勲(しょう けいくん、901年 - 978年)は、五代十国時代から北宋にかけての軍人。字は成績。本貫は許州長社県[1]。

経歴

若くして読書して大志を抱き、「大丈夫は異域で功を立てて、万戸侯の位を取るべきです。どうしてたゆまず筆や硯を仕事にすることができましょうか」と人に言ったことがあった。文筆を捨てて、華北のあいだを遊歴して俠客となり、飲酒と賭博にふけるようになった。石敬瑭が太原に駐屯すると、継勲は儒服を着て面会し、石敬瑭と語り合って喜ばれ、その幕下に留められた。後晋の天福初年、皇城使に任じられ、宮苑使を兼ね、武徳使に転じた。天福6年(941年)、安重栄が鎮州で反乱を起こし、安従進が襄陽から挙兵して呼応した。継勲は高祖(石敬瑭)の命を受けて諸将を監督して安従進の乱を討った。唐州の南にいたって、安従進の軍1万人あまりと遭遇し、伏兵を設けてこれを撃退した。安従進の牙将の安洪義や鮑洪ら50人あまりを捕らえ、山南東道節度使の印を奪うと、安従進は単騎で逃げ帰った。安従進の弟の安従貴が兵1000人あまりを率いて、均州刺史の蔡行遇を救援すると、継勲はその兵700人を殺し、100人を生け捕りにした。安従貴を捕らえて、その腕を断って城中に放り込むと、安従進は襄陽に戻ることができなかった。継勲は功により斉州防禦使に任じられた。天福7年(942年)、少帝石重貴が即位し、安従進の乱が平定されると、継勲は襄陽防禦使に転じた。天福8年(943年)、入朝して右千牛衛大将軍となった。のち宣徽北院使に任じられた[1]。開運2年(945年)、宣徽南院使に転じた[2]。

西辺に侵入があると、継勲は征討を志願して、秦州観察使となり、諸蕃水陸転運使を兼ねた。着任すると、招諭勧誘の方略を設けて、諸州の首長たちと盟約を結び、辺境を安定させた。まもなく知陝州に任じられた[1]。開運3年(946年)、陝州留後に転じた[3]。鳳翔府留後となった[4]。

後漢の初年、鳳翔府軍校の陽彦昭が城に拠って叛くと、継勲は命を受けて軍を率いてこれを討ち、功により鄜州保大軍節度使に進んだ。開封に召還されて入朝すると、高祖劉知遠が大名府に赴くと、継勲は京城右廂巡検使として留められた。まもなく右羽林統軍に任じられた。隠帝劉承祐の末年、継勲は命を受けて兵を率いて北征した。郭威が挙兵して開封に向かうと、継勲は隠帝を奉じて留子陂で迎え撃ったが、戦い敗れて、郭威に帰順した[1]。

後周の広順元年(951年)、継勲は右龍武統軍に転じた[5]。顕徳年間、世宗柴栄が南唐に親征すると、継勲は左廂排陣使となった。さらに右羽林統軍に任じられ、左屯衛上将軍に転じた。戦功により彰武軍節度使となった[6]。

北宋の初年、継勲は開封に召還されて右金吾衛上将軍に任じられ、右武衛上将軍に転じた。乾徳3年(965年)、権知延州をつとめた。乾徳4年(966年)、判右街仗の杜審瓊が死去すると、継勲は代わって判右街仗となった。向拱が西京留守となると、宴会ばかり多く開いて、河南府の事務を顧みなかった。盗賊たちが白昼に洛陽に入って財産を略奪したが、向拱は酒に溺れて捕盗の任務に出なかった。太祖趙匡胤は継勲を選抜して向拱と交代させた。1月あまりすると、洛陽は粛然とした。太祖が洛陽に行幸しようとしたとき、荘宅使の王仁珪と内供奉官の李仁祚を派遣して洛陽宮を修築させ、継勲にその夫役を監督するよう命じた。太祖が開封に帰ると、継勲は知留府事のまま、相州彰徳軍節度使に任じられた。太平興国3年(978年)、死去した。享年は78。太尉の位を追贈された[7]。

子に焦守節があった[7]。

脚注

  1. 1 2 3 4 宋史 1985, p. 9042.
  2. ↑ 旧五代史 1976, p. 1110.
  3. ↑ 旧五代史 1976, p. 1113.
  4. ↑ 旧五代史 1976, p. 1122.
  5. ↑ 旧五代史 1976, p. 1467.
  6. ↑ 宋史 1985, pp. 9042–9043.
  7. 1 2 宋史 1985, p. 9043.

伝記資料

  • 『宋史』巻261 列伝第20

参考文献

  • 『旧五代史』中華書局、1976年。ISBN 7-101-00321-4。 
  • 『宋史』中華書局、1985年。ISBN 7-101-00323-0。