牛島滕六

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牛島 滕六(うしじま とうろく、1872年〈明治5年6月24日〉 - 1952年〈昭和27年〉9月11日[1])は、明治から昭和にかけての日本の俳人。本名は虎之助[2]。

俳誌『時雨』の主宰として、戦前の北海道俳壇における重鎮の地位にあった。

経歴

1872年(明治5年)、福岡県久留米市に生まれる[2][注 1]。

1891年(明治24年)、屯田兵として東永山兵村へ移住する[2]。

1897年(明治30年)、北海道庁の鉄道敷設事業手として旭川へ赴任する[2]。このころから雪村の雅号で河東碧梧桐選の俳誌『活文壇』に投稿していた[2]。

1900年(明治33年)、札幌の吉見香漣・祝鱸江らとともに俳誌『白雪』を発行するが、8号で廃刊となる[2]。

1902年(明治35年)、俳句結社「若葉吟社」を興し、俳誌『若葉』を4号まで発行する[2]。のちに結社は「北星吟社」へと移り変わった[2]。また、このころ東京の内藤鳴雪を訪ねて師事している[4]。

1907年(明治40年)、留萠鉄道建設準備のため、深川へ転勤する[4]。河東碧梧桐が北海道行脚に来た折は旭川まで出迎え、宮越屋旅館で藤森氷魚らと小句会を開いたのち、深川の自宅に招いて一泊してから、札幌の句会まで行動を共にした[4]。

1911年(明治44年)、鳥取県米子の鉄道出張所へ転勤する[4]。ここで天野宗軒らとの知遇を得た[4]。

それから札幌に転居し、小樽新聞俳壇の選者として5か年にわたり活動する[4]。当時の札幌には、北海タイムス俳壇を担当する青木郭公や、新傾向派の小笠原洋々らがおり、滕六にとってはライバル的存在だった[4]。

1923年(大正12年)2月、『時雨』を創刊する[4]。これは北海道内初の本格的な俳誌として話題になったが、その刊行が順調であったとは言えず、何度か休刊を繰り返した[5]。

1931年(昭和6年)、『時雨』は4年ぶりに復刊を遂げるが、このころになると滕六は『時雨』への情熱を失っていた[6]。1933年(昭和8年)と1936年(昭和11年)の2度にわたり、滕六は息子を頼るかたちで満州へと渡航する[6]。そして3度目となる1937年(昭和12年)、滕六は満州より手紙を通じて『時雨』からの離脱を宣言した[6]。これに応えて、札幌在住編集同人の藤森氷魚・大島扶老竹・長谷部虎杖子・高野草雨が発表した「廃刊の辞」によると、滕六が宗教団体「ひとのみち」に傾倒していったことが、周囲との不和を生む主因であったと思われる[7][注 2]。

1947年(昭和22年)、大陸から引き揚げてきた滕六は、俳誌への復帰を期して札幌の長谷部虎杖子を訪ねた[9]。それから道内各地を行脚したが、返り咲きを果たせぬままに1952年(昭和27年)、帯広の牛島介山宅にて死去した[9]。

脚注

注釈

  1. ↑ 東永山屯田兵村の名簿によると、「牛島虎之助」の出身地は鹿児島県桑原郡吉松村となっている[3]。
  2. ↑ その後、長谷部虎杖子は廃刊となった『時雨』を改組して、新規に『葦牙』を創刊した[8]。

出典

  1. ↑ 木村 1978, p. 254.
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 木村 1978, p. 99.
  3. ↑ 永山町 1981, p. 264.
  4. 1 2 3 4 5 6 7 8 木村 1978, p. 100.
  5. ↑ 木村 1978, pp. 102–103.
  6. 1 2 3 木村 1978, p. 103.
  7. ↑ 木村 1978, pp. 104–107.
  8. ↑ 木村 1978, pp. 108–109.
  9. 1 2 木村 1978, p. 107.

参考文献

  • 木村敏男『北海道俳句史』北海道新聞社、1978年5月30日。 
  • 『永山町史』国書刊行会、1981年12月15日。