王彦超

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王 彦超(おう げんちょう、914年 - 986年)は、五代十国時代から北宋にかけての軍人。本貫は大名府臨清県[1]。

経歴

温和でうやうやしく慎み深い性格で、よく下士を礼遇した。若くして後唐の魏王李継岌に仕えた。同光3年(925年)、李継岌に従って前蜀を討ち、渭南までいたって帰った。天成元年(926年)、明宗が即位し、李継岌が殺害されて、その側近たちが逃げ去ると、彦超は鳳翔府重雲山の僧舎を頼って暉道人の仲間となった。暉道人は観相を得意とし、彦超を富貴になる人物と見込んで、絹帛を与えて送り出した[2]。

ときに石敬瑭が陝州保義軍節度使をつとめていたが、彦超はその幕下に召し出されて、腹心となった。石敬瑭が河東節度使に転じて、太原府で起兵するにあたり、契丹の援軍を求めるため桑維翰を派遣すると、彦超はこれに従った。後晋の天福初年、彦超は奉徳軍校に累進した。殿前散指揮都虞候に転じ、蒙州刺史を遥領した。後漢の初年、岳州防禦使を遥領し、護聖左廂都校を兼ねた。復州防禦使として出向した[3]。

郭威が李守貞らの乱を鎮圧した後、遼に北征すると、彦超は行営馬歩左廂都排陣使をつとめた。郭威に従って開封に入った。広順元年(951年)、後周が建てられると、彦超は権知武寧軍節度使を命じられた。徐州に赴任しないうちに、湘陰公劉贇の旧校の鞏廷美が徐州に拠って反乱を起こすと、彦超は正式に武寧軍節度使に任じられ、鞏廷美を討った。戦艦を率いて鞏廷美の水砦を攻め落とした[3]。

また彦超は枢密使の王峻とともに晋州で劉崇を阻んだ。彦超は騎兵を率いて進軍し、劉崇を退却させると、晋州建雄軍節度使となった。さらに部下を率いて北漢軍を追撃し、霍邑にいたって敵兵を崖谷に追い落とした[3]。広順2年(952年)、河陽三城節度使に転じた[4]。広順3年(953年)、河中節度使に任じられた[5]。

顕徳元年(954年)、彦超は同平章事を加えられた。北漢軍が南進してくると、彦超は兵を率いて晋州路を取って東に向けて迎撃し、高平の戦いに参戦した。彦超は陰地関から符彦卿と兵を合流させて汾州を包囲した。諸将が攻撃を急き立てたが、彦超はまもなく汾州が降伏してくることを予見して、いたずらに死傷者を出すことなく待つことにした。翌日、汾州の将の董希顔が降伏してきた。そのまま彦超は兵を率いて石州に赴き、自ら矢石の危険を冒して城を攻め立て、数日後に陥落させた。石州の守将の安彦進を捕らえ、世宗柴栄に献上した。軍を返すと、許州忠武軍節度使となり、侍中を兼ねた。世宗の命を受けて部下を率いて胡蘆河を浚渫し、李晏口に築城した。工事が終わらないうちに、遼軍1万騎あまりが侵攻してきたため、彦超はこれを撃退した[3]。

顕徳2年(955年)、宰相李穀が南唐を征討すると、彦超は前軍行営副部署をつとめ、南唐軍2000を寿州城下で破った。南唐軍が水陸で来援すると、李穀は退却して正陽を守り、南唐軍がその背後に迫った。李重進の兵が到着すると、彦超はこれと合流して急戦し、南唐軍3万人あまりを破り、20里あまりにわたって追撃した。顕徳3年(955年)、彦超は凱旋すると、京兆尹・永興軍節度使に任じられた。顕徳6年(959年)夏、鳳翔節度使に転じた。恭帝柴宗訓が即位すると、彦超は検校太師を加えられ、西面縁辺副都部署をつとめた[6]。

北宋の初年、彦超は中書令を兼ね、開封に召還された。あるとき太祖趙匡胤が宴会を開き、酒に酔って「卿がむかし復州にいたとき、朕は卿を頼って行ったが、どうして受け入れなかったのか」と彦超に訊ねた。彦超は頓首して「少量の水がどうして神龍をとどめることができましょうか。当日に陛下が小州に留められなかったのは、おそらく天がそうさせたことです」と答えた。太祖は大笑いした。彦超は翌日に上表文を奉じて処罰を待ったが、太祖は宦官の使者を派遣して彦超を慰め諭した[7]。

ほどなく彦超は再び永興軍節度使に任じられた。乾徳2年(964年)、再び鳳翔節度使に転じた。乾徳3年(965年)、父が死去して喪に服したが、ほどなく官に復帰した。開宝2年(969年)、右金吾衛上将軍となり、判街仗事をつとめた[7]。

太平興国6年(981年)、彦超は邠国公に封じられた。太平興国7年(982年)、老齢のため引退を願い出た。太平興国8年(983年)、太子太師を加えられて致仕し、金吾上将軍の禄を給与された。雍熙3年(986年)、死去した。享年は73。尚書令の位を追贈された[7]。

家族

脚注

  1. ↑ 宋史 1985, p. 8910.
  2. ↑ 宋史 1985, pp. 8910–8911.
  3. 1 2 3 4 宋史 1985, p. 8911.
  4. ↑ 旧五代史 1976, p. 1485.
  5. ↑ 旧五代史 1976, p. 1496.
  6. ↑ 宋史 1985, pp. 8911–8912.
  7. 1 2 3 4 宋史 1985, p. 8912.
  8. ↑ 宋史 1985, p. 8913.

伝記資料

  • 『宋史』巻255 列伝第14

参考文献

  • 『旧五代史』中華書局、1976年。ISBN 7-101-00321-4。 
  • 『宋史』中華書局、1985年。ISBN 7-101-00323-0。