王易簡

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王 易簡(おう いかん、885年 - 963年)は、五代十国時代から北宋にかけての官僚・文人・隠者。字は国宝。本貫は京兆府万年県[1]。

経歴

孤独を好み、気性の合う人が少なかった。易簡は若くして学問を好み、詩作を得意とした。後梁の乾化年間、進士科の受験に向かう途中、邵王朱友誨の駐屯する陝州を訪れて抜擢され、朱友誨に銭20万を贈られた。翌年、進士に及第すると、華山に隠居した。邠州静難軍節度使の韓恭に召し出されて観察支使となった。退任すると、華州感化軍節度使の李保衡に召し出されて従事に転じた。翌年、尹皓が李保衡に代わって感化軍節度使となると、易簡はそのまま尹皓の幕府に留まった[1]。

朱友謙が河中府ごと叛いて晋王李存勗に帰順すると、華州は朱友謙の軍の急攻を受け、城内は陥落を危ぶんだ。みな月城を築いて防備を固めるよう請願したが、尹皓は武勇を恃んで聞き入れなかった。尹皓は「あえて再び言う者は斬る」と下令した。易簡はなおも強く請願し、許された。工事が完了すると、外城が破壊されたため、軍民は月城を頼りにした。朱友謙の軍は攻撃を続けることができず、夜間に撤退した。尹皓が死去すると、易簡は田舎に帰った。長らくを経て、召し出されて著作郎に任じられたが、数か月で官を棄てて去った。再び召し出されて右拾遺となったが、上書して帝の意に逆らい、鄧州宣化軍節度推官として出された[1]。

後唐の同光3年(925年)、魏王李継岌が前蜀を討つと、宰相の郭崇韜が招討使となり、易簡は召し出されて巡官に任じられた。魏王都督府記室参軍に転じた。天成元年(926年)、明宗が即位すると、易簡は周帥羅周恭[注釈 1]に召し出されて掌書記となった。退任すると、華陰に隠居し、「小隠詩」20首並序を作って志を示した。秦王李従栄がこのことを知るとかれを重んじて、外地から呼び戻すよう宰相の馮道や李愚に働きかけた。易簡は召し出されて祠部員外郎に任じられた[1]。

後晋の天福2年(937年)、易簡は水部郎中・知制誥に転じ[2]、中書舎人となった[3]。天福4年(939年)、史館修撰・判館事をつとめた[4]。高祖石敬瑭が統治事務に速効性を求めると、易簡は「漸治論」を上書して諫めた。高祖に褒められ、その論は史館に送られた。翰林学士が廃止されると、易簡は知内制を兼ねた[5]。天福6年(941年)、御史中丞に任じられた[6]。尚書右丞・吏部侍郎・尚書左丞・判吏部銓を歴任した[5]。

後周では太祖郭威の父の名である「簡」字が避諱されたため、易簡は易と名乗った[5]。広順元年(951年)、王易は礼部尚書に任じられた[7]。冬、尚書銓・東銓・西銓の三銓を合わせてひとつにされると、王易は権判をつとめた[5]。広順3年(953年)、太祖が自ら郊祀をおこなおうとすると、王易は権兵部尚書となり、鹵簿使をつとめた[8]。4廟が冊立されると、王易は副使を命じられた。顕徳元年(954年)、太祖が死去すると、王易は山陵副使をつとめた。顕徳4年(957年)、老齢のため引退を願い出て、太子少保として致仕し、郷里に帰った[5]。

北宋の初年、易簡は召し出されて少傅を加えられた。華陰に居住し、1鳴堂・2品楼を構え、悠々自適に暮らした。建隆4年(963年)4月、病なくして死去した。享年は79[5]。

家族

脚注

注釈

  1. ↑ 「周帥」は節度使として知られておらず、「羅周恭」も閲歴不詳の人物である。

出典

  1. 1 2 3 4 5 宋史 1985, p. 9064.
  2. ↑ 旧五代史 1976, p. 995.
  3. ↑ 旧五代史 1976, p. 1009.
  4. ↑ 旧五代史 1976, p. 1032.
  5. 1 2 3 4 5 6 7 宋史 1985, p. 9065.
  6. ↑ 旧五代史 1976, p. 1054.
  7. ↑ 旧五代史 1976, p. 1469.
  8. ↑ 旧五代史 1976, p. 1499.

伝記資料

  • 『宋史』巻262 列伝第21

参考文献

  • 『旧五代史』中華書局、1976年。ISBN 7-101-00321-4。 
  • 『宋史』中華書局、1985年。ISBN 7-101-00323-0。