田崎東

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田崎 東(たざき あずま、1844年2月16日(天保14年12月28日)[1] - 1869年7月5日(明治2年5月26日))は、幕末の蝦夷・松前藩士。名は忠貞[2]。幼名は庫太[1]。

経歴

松前藩勘定奉行・田崎忠純の長男として江戸藩邸に生まれる。1856年(安政3年)台子の間勤め、1860年(万延元年)近習役・御髪番となる[1]。1868年(明治元年)より近習頭、福山裁判司を務める[3]。

同年の箱館戦争にて御中老職・軍事総宰に任じられ、江差で軍を指揮するが、榎本武揚率いる軍隊に敗れ、その後当時の藩主であった松前徳広と共に弘前に逃亡した[2][3]。1869年(明治2年)4月29日の矢不来の戦いで敵弾を受けて負傷し、福山の陸軍病院で死去[2][4]。

田崎東を扱った作品

出典

  1. 1 2 3 高倉新一郎『北の先覚』北日本社、1947年、p.141。
  2. 1 2 3 「田崎東」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』。コトバンクより2022年7月13日閲覧。
  3. 1 2 高倉新一郎『北の先覚』北日本社、1947年、p.142。
  4. ↑ 高倉新一郎『北の先覚』北日本社、1947年、pp.143-144。