畠山政久

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畠山 政久
時代 室町時代中期
生誕 嘉吉元年(1441年)?[1]
死没 長禄3年(1459年)9月頃[2]
別名 弥三郎(通称)、義富
主君 足利義政
氏族 畠山氏
父母 畠山持富
兄弟 政久、政長
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畠山 政久(はたけやま まさひさ)は、室町時代中期の武将。通称は弥三郎(やさぶろう)。別名、義富(よしとみ)。

実名に関しては諸説あるため、畠山 弥三郎の名で呼ばれることが多い[注釈 1]。

父は畠山持富。弟に政長、従兄に義就がいる。

生涯

父の畠山持富は、伯父の畠山持国に嫡子がいなかったため、持国の後継者になっていた[4]。だが、文安5年(1448年)に跡目が持国の庶子の畠山義就に変更されると、持富は廃嫡され、宝徳4年(1452年)に失意の中で死去した[5]。とはいえ、義就の正統性を疑問する一部の家臣団は反発し、弥三郎の擁立を企てた[5][1]。

享徳3年(1454年)4月、神保国宗らによる弥三郎擁立の陰謀が発覚し、持国は遊佐国助らに神保氏の邸宅を攻撃させ、国宗らを誅殺した[5][6][注釈 2]。将軍の足利義政も持国の求めに応じ、弥三郎の討伐命令を出すなど、持国・義就父子を支持した[1][7]。

だが、弥三郎は細川勝元に庇護を求め、その配下の磯谷四郎兵衛の邸宅に匿われた[5]。また、弥三郎派の家臣らは山名宗全の庇護を受けた[8]。そのため、弥三郎は細川氏と山名氏の支持を得る形となった[9]。

8月21日夜、弥三郎派の家臣らが持国の邸宅を襲撃した[1][9]。これにより、持国は一族の畠山義忠の邸宅へ、義就は遊佐国助の邸宅へそれぞれ逃げた[9]。そして、翌21日に義就は遊佐邸に火をかけ、国助らと共に京都から河内(または伊賀)に没落した[1][9]。

8月28日、持国が建仁寺西来院に入り、隠居を表明した[1][9]。弥三郎派の勝利が確定したことで、義政も13歳の弥三郎と対面し、その家督継承を認めた[1][7]。また、弥三郎の討伐命令も撤回している[7]。

9月10日、持国が西来院から自邸に戻り、弥三郎の家督を認めた[10]。

9月14日、義政が勝元に対して、弥三郎を匿った磯谷四郎兵衛の処刑を命じ、これを実行させた[10]。これは、自分が支持していた義就が没落したことに対する、義政の不本意を意味していた[10]。だが、勝元は義政の措置に不満であり、管領の辞任を申し出たため、義政による慰留を受けた[10]。

11月2日、義政は突如、山名宗全の討伐を命じた[10]。この討伐は勝元の取り成しで中止となったものの、12月に宗全は分国の但馬に隠居させられた[11][12]。義政は宗全が京都から退去したことを受けて、義就を呼び戻した[13]。

12月13日、義就が河内から上洛したため[13]、同月26日に弥三郎は大和に没落を余儀なくされた[13][14]。義政のこの対応は、細川氏や山名氏に対する反撃とみることもできるが、畠山氏の内紛をより一層複雑化させた[13]。

享徳4年(1455年)3月、持国が死ぬと、義就が畠山氏の当主になった[13]。義就は成身院光宣に庇護された弥三郎の討伐を目指した[13]。

7月、義就が弥三郎討伐のために大和に侵攻し、弥三郎は大敗した[13]。

8月、弥三郎派の筒井順永・箸尾宗信が敗走し、成身院光宣も鬼薗山城を捨てて行方知れずとなった[13]。これにより、義就派の越智氏や古市氏が復権するに至った[13]。

長禄2年(1458年)に入ると、義就は義政の命令と称して軍事行動を展開し、大和や南山城での勢力拡大を進めた[15]。義就としては、弥三郎らに対抗するための自衛措置であった[15]。だが、義政からすれば、無用な混乱を招く行為にしか映らず、義就は次第に義政の信頼を失っていた[15]。

長禄3年(1459年)5月、勝元の斡旋により、弥三郎派の成身院光宣・筒井順永・箸尾宗信が義政に赦免された[15]。そして、7月23日に弥三郎も赦免された[15][16]。

9月、弥三郎は上洛し、義政から偏諱を与えられ、「政久」と名乗った[注釈 1]。だが、同月頃に死去した[2]。

政久には嗣子がなかったため、成身院光宣らは弟の畠山政長を擁立し、義就との家督争いを継続、応仁の乱のきっかけを生み出した[15][2]。

脚注

注釈

  1. 1 2 実名については、「政久」「義富」と分かれているが、義富と記している『津川本畠山系図』には家系図に誤りが多数あり、信憑性に疑問がある(「富」の字は父・持富の一字から取ったものであろうから、別名或いは初名の可能性も否定できない)。一方、当時の記録である『大乗院寺社雑事記』・『碧山日録』では、長禄3年に弥三郎が義政に召しだされて、9月に上洛し、義政から一字を与えられ、政久と名乗ったと記録されている[3]。
  2. ↑ このとき、神保氏一族の神保越中守とその嫡子も討たれている[5]。

出典

  1. 1 2 3 4 5 6 7 石田 2008, p. 110.
  2. 1 2 3 石田 2008, p. 164.
  3. ↑ 川岡勉『室町幕府と守護権力』吉川弘文館、2002年、260-261頁。
  4. ↑ 石田 2008, p. 109.
  5. 1 2 3 4 5 呉座 2016, p. 59.
  6. ↑ 萩原 2025, p. 206.
  7. 1 2 3 呉座 2016, p. 61.
  8. ↑ 呉座 2016, pp. 59–60.
  9. 1 2 3 4 5 呉座 2016, p. 60.
  10. 1 2 3 4 5 呉座 2016, p. 62.
  11. ↑ 石田 2008, p. 124.
  12. ↑ 呉座 2016, pp. 62–63.
  13. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 呉座 2016, p. 63.
  14. ↑ 石田 2008, p. 125.
  15. 1 2 3 4 5 6 呉座 2016, p. 64.
  16. ↑ 石田 2008, p. 163.

参考文献

  • 石田晴男『戦争の日本史9 応仁・文明の乱』吉川弘文館、2008年。 
  • 呉座勇一『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』中公新書、2016年。ISBN 978-4-12-102401-5。 
  • 萩原大輔 著「神保長誠 ―流浪の室町将軍を越中で支えた管領畠山政長の執事」、山田邦明; 長谷川裕子; 萩原大輔 編『戦国武将列伝5 北陸編』戎光祥出版〈戦国武将列伝〉、2025年6月10日、204-217頁。 

関連項目