祁廷訓

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祁 廷訓(き ていくん、924年 - 981年)は、五代十国時代から北宋にかけての軍人。もとの名は廷義[注釈 1]。本貫は河南府洛陽県[1]。

経歴

後梁の左監門衛大将軍の祁珪の子として生まれた。計算や騎射を得意とし、郭威の幕下に属した。後周の広順年間、東西班右蕃行首・鉄騎都虞候を歴任した。顕徳元年(954年)、世宗柴栄が即位すると、廷訓は東西班都指揮使となり、内殿直都指揮使に転じ、蘭州刺史や睦州刺史を遥領した。南唐への親征に従い、明光細甲を賜り、水軍を率いて長江沿岸まで進出した。南唐軍が三江口の葭中に伏兵を置いて、廷訓を不意打ちしようとすると、廷訓は奮戦してこれを撃破した。1000人を捕斬し、残軍を敗走させた。江北が平定されると、廷訓は功により吉州団練使となり、鉄騎左廂都指揮使を領した。1か月あまりして、嵐州防禦使に転じ、龍捷右廂都指揮使を領した[2]。

北宋の建隆元年(960年)、廷訓は安遠軍節度観察留後となった。秋、河陽節度観察留後に転じた。乾徳2年(964年)、彰徳軍節度留後に任じられた。まもなく権知鄧州をつとめた。乾徳5年(967年)、義武軍節度使となった。開宝2年(969年)、太祖趙匡胤が北漢を征討すると、廷訓は北面副都部署をつとめた。太平興国元年(976年)、開封に入朝した。太平興国2年(977年)冬、左領軍衛上将軍に転じた。太平興国5年(980年)、竹や木を高く売って官に納入した罪に問われて、本衛大将軍に降格された。ほどなくもとの官にもどされた。太平興国6年(981年)、死去した。享年は58[3]。

廷訓は体格が大きくたくましかったが、才略に乏しく、面倒ごとの多くを避けたので、当時の人に「祁橐駝」と称された[3]。

脚注

注釈

  1. ↑ 宋の太宗の諱を避けるために廷訓と名を改めた。

出典

  1. ↑ 宋史 1985, p. 9046.
  2. ↑ 宋史 1985, pp. 9046–9047.
  3. 1 2 宋史 1985, p. 9047.

伝記資料

  • 『宋史』巻261 列伝第20

参考文献

  • 『宋史』中華書局、1985年。ISBN 7-101-00323-0。