立花家花橘

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立花家 花橘(たちばなや かきつ)は、音曲・落語の名跡。現在は空き名跡となっている。

古くは立花家ではなく七昇亭花橘や三遊亭花橘で2代続いた。

「立花家」の亭号は、もともと色物の音曲師のものであるが、後には落語家も名乗るようになった。

初代

初代 立花家(たちばなや) 花橘(かきつ)
本名 加藤 よね
生年月日 1881年2月
没年月日 1906年9月16日
出身地 日本の旗 日本
師匠 初代立花家橘之助
名跡 1. 柳家枝女子(1884年 - 1896年)
2. 初代立花家花橘(1896年 - 1906年)
活動期間 1884年 - 1906年
活動内容 音曲
家族 初代春風亭柳條(父)
春風亭柳橘(息子)
所属 柳派
三遊派

初代 立花家 花橘(たちばなや かきつ、1881年2月 - 1906年9月16日)は、明治時代の女流音曲師[1]。本名: 加藤よね[1]。

初代春風亭柳條は実父[1]。

1885年に数え年5歳で、子役として柳家枝女子(あるいは〆子)[要出典]を名乗り柳派の[要出典]寄席の高座に上がっていた[1]。明治20年代半ばには[要出典]下谷で芸者をしていたが、1896年正月[要出典]から初代立花家橘之助の門下に入って立花家花橘と改名し、三遊派の[要出典]寄席に出演した[1]。音曲(端唄、都都逸、義太夫、大津絵節など)手りの花形として活躍したが、1906年に満25歳で死去した[1]。遺児は春風亭柳橘[1]。

『萬朝報』1906年9月19日付の訃報によれば、同年同月17日没、享年33とあるが、この享年は恐らく誤り。6代目林家正蔵『墓誌(技芸士招魂録)』によれば、同年同月16日没、享年26とある(この享年は数え年)。墓所は浅草・源空寺、元麻布・光善寺の2説ある。法名: 賢譽妙惠信女。[要出典]

2代目

2代目 立花家(たちばなや) 花橘(かきつ)
2代目 立花家(たちばなや) 花橘(かきつ)
本名 菱川 一太郎
生年月日 1884年11月17日
没年月日 (1951-09-23) 1951年9月23日(66歳没)
出身地 日本の旗 日本・徳島県徳島
死没地 日本の旗 日本・大阪府大阪市住吉区粉浜
師匠 初代笑福亭福松
5代目林家正三
7代目桂文治
初代立花家橘之助
弟子 2代目立花家一奴
名跡 1. 笑福亭福二
(? - ? )
2. 2代目林家正六
(? - 1906年? )
3. 初代桂一奴
(1906年? - 1909年? )
4. 桂一團治
(1909年? - 1912年)
5. 2代目立花家花橘
(1912年 - 1951年)
活動期間 ? - 1951年
活動内容 古典落語
SPレコードの吹込み
所属 三友派
三遊派
三友派
花月
主な作品
『文人踊り』

2代目 立花家 花橘(たちばなや かきつ、1884年11月17日 - 1951年9月23日)は、明治から昭和にかけての上方落語の落語家[2][注釈 1]。本名∶菱川 一太郎[3][2]。

徳島に生まれる[3]。家業は「菱忠」という名の通った鰻屋だった[3]。1899年に来阪し、素人仁輪加に加わる[3][2]。その後、初代笑福亭福松の門下で福二と名乗る[3][2][注釈 2]。次に5代目林家正三の門下で2代目林家正六を襲名した[3][2]。1901年8月、平野町第二此花館で初高座を踏む[3]。

2代目桂文團治の門下で初代桂一奴となる[3][2][注釈 3]。1909年ごろに桂一團治に改めた[2][注釈 4]。

このあと、明治末(1912年ごろ)には東京に移り[2]、1912年10月には初代立花家橘之助門下で2代目立花家花橘を襲名[3]。しかし、先代が早世した音曲師であったために、2代目を継ぐ時、周囲に反対されたという[3]。

1914年には上方に戻り、三友派に席を置き、後に花月三友両派の合同で吉本興業に所属する[3]。その後1928年には吉本を離れる[3][2][注釈 5]。5代目笑福亭松鶴主催の「楽語荘」同人となり、主に「上方はなしを聴く会」で高座に上がる[要出典]。この間、吉本外の芸人による「睦会」を1933年に立ち上げ、堀江の賑江亭(しんえてい)で興行を打ったこともあった[2]。

戦後は戎橋松竹などに出演しながら、5代目桂文枝や3代目桂春団治らの若手に多くの稽古を付けた[3]。1951年9月23日、大阪市住吉区粉浜の自宅で死去した[7]。享年68(満66歳没)[3]。

芝居を題材とした演目(『蛸芝居』『七段目』『お玉牛』等)が得意であった[3]。また、口調がはっきりとした芸風のため、SPレコードの吹き込みに向いており、上方落語では初代桂春団治に次いでリリース数が多く(録音演目数では上方でトップ)、レコードには滑稽噺、芝居噺、艶笑噺、新作落語など多種にわたる吹き込みをしている[3]。他の同時代の落語家と比較した場合、「寄席で人気があるから録音した」のではなく、大量の録音をリリースしたことで人気を得たという点で特異だった[3]。一方、花橘の口調は「味わいや深み」を重視する「落語通」には受けなかったという[2]。

落語家になってから、過去の経歴を生かして俄に出たことが何度かあり、その際は「大門亭正六」という名前を用いた[2]。

高座が終わった後は、安来節を元に文人画の格好をした『文人踊り』という滑稽な踊りを披露した[3]。

体の後ろ首筋の少し下に、家紋の刺青を彫っていた[3]。これは、裸になった時にも礼を失わないように、との計らいである[3]。

弟子

その他の花橘

脚注

注釈

  1. ↑ 『古今東西落語家事典』は生誕の「月日不詳」としていた[3]。
  2. ↑ 時期について、『ご存じ古今東西噺家紳士録』収録「噺家紳士録」の橋本礼一の解説では「明治38年8月? 」、同じページの「改名と師匠」の箇所では「明治34年8月? 」と記している[2]。
  3. ↑ 時期について、『ご存じ古今東西噺家紳士録』収録「噺家紳士録」の橋本礼一の解説では「明治30年代末」と記している[2]。西暦だと1906年となる。
  4. ↑ 『落語系圖』には名跡の違いにより3箇所に2代目花橘の言及があるが、「一團治」を記しているのは1箇所(林家正六)のみで[4]、他の2箇所(2代目立花家花橘・笑福亭福二)では欠落している[5][6]。『古今東西落語家事典』も「一團治」を記していない[3]。
  5. ↑ 『古今東西落語家事典』には吉本離脱時期の記載なし。

出典

  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 古今東西落語家事典 1989, pp. 448–449, 索引小事典―江戸・東京.
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 橋本礼一「噺家紳士録(レコードの二代目立花家花橘の項)」『ご存じ古今東西噺家紳士録』
  3. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 古今東西落語家事典 1989, pp. 326–327, 上方篇 七、戦後上方落語を支えた人々(二代目立花家花橘の項).
  4. ↑ 落語系圖 1929, p. 103.
  5. ↑ 落語系圖 1929, p. 50.
  6. ↑ 落語系圖 1929, p. 110.
  7. ↑ 都家歌六「立花家花橘の手紙」『ご存じ 古今東西噺家紳士録 別冊 思い出の楽我記手帳』APP、2005年、pp.57 - 67。該当記述は当時の新聞記事(具体的紙名は記載なし)の引用としてpp.66 - 67にある。記事では死因を「老衰」とするが、歌六は直前まで文通をしていたため「今ひとつピンと来ない」としている。

参考文献

  • 月亭春松 編『落語系圖』植松秀一郎(自費出版・春松の本名)、1929年。NDLJP:1194413。 
  • 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会 編『古今東西落語家事典』平凡社、1989年4月7日。ISBN 4-582-12612-X。 
  • 『古今落語系図一覧表(文之助系図)』日本芸術文化振興会、2004年。
  • 『ご存じ 古今東西噺家紳士録』(CD-ROM)丸善(発売)・エーピーピーカンパニー(発行)、2005年。
    • 8代目都家歌六 著、小島豊美 編『ご存じ 古今東西噺家紳士録 別冊 思い出の楽我記手帳』 丸善(発売)・エーピーピーカンパニー(発行)、2005年

関連項目