第9回東京4歳ステークス

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第9回東京4歳ステークス
(トキノミノル記念)
開催国 日本の旗 日本[1]
主催者 日本中央競馬会(JRA)[1]
競馬場 東京競馬場[1]
施行年 1975年[1]
施行日 2月9日(日)[1]
競走の情報
距離 芝1800m(左回り)[1][2]
賞金 1着賞金1,400万円[1]
出走条件 4歳オープン[注 1][1][2]
負担重量 別定[注 2][1][2]
天候 晴[1]
結果・受賞
優勝馬 カブラヤオー[1]
優勝騎手 菅野澄男[1]
優勝調教師 茂木為二郎(東京)[1][2]
優勝馬主 加藤よし子[1]
優勝生産者 十勝育成牧場(新冠町)[3]
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第9回東京4歳ステークス(だい9かいとうきょう4さいステークス)[注 3]は、1975年2月9日に、日本中央競馬会(JRA[注 4])が主催し、東京競馬場で行われた競馬の競走である。副題を含む競走名は「第9回東京4歳ステークス(トキノミノル記念)」[1]。

3連勝中であったカブラヤオーが、デビューから4戦負けなしの牝馬テスコガビーをクビ差で退け、重賞初勝利を飾った。その後、カブラヤオー、テスコガビーの2頭は、共にクラシック競走二冠を達成。両馬が唯一激突したこの競走は「史上に残る名レース」[6]、「世紀の決戦」[7]と評された。

背景

カブラヤオーとテスコガビーの出走

この年の東京4歳ステークスには、牡、牝それぞれのクラシック有力馬と目されていたカブラヤオー、テスコガビーが共に出走し、クラシック開幕前に激突することとなった[8]。

カブラヤオーは茂木為二郎厩舎所属の牡馬[1]で、ここまで4戦3勝[9]。デビュー戦こそダイヤモンドアイの2着に敗れるも、2回目の新馬戦、ひいらぎ賞(500万下)を勝つと、厩舎の主戦である菅原泰夫を鞍上に、ジュニアカップを逃げ切って3連勝[9][10]。そして、目標としていた弥生賞の前走として、次戦に東京4歳ステークスを選択した[11]。一方のテスコガビーは仲住芳雄厩舎所属の牝馬[1][12]で、こちらも菅原を鞍上にして4戦無敗[13][14]。デビュー以来負けなしの成績で3歳シーズンを終えると、4歳初戦として重賞の京成杯に出走し、牡馬相手に勝利していた[14]。京成杯を勝ったテスコガビー陣営は、桜花賞のステップレースとして阪神4歳牝馬特別を使うことにしていたが、競走間隔が2ヶ月と開いてしまうことから、東京4歳ステークスに同馬をエントリーさせた[15]。

当時、関西の有力馬は弥生賞のタイミングで東上するのが通常であったため、東京4歳ステークスは4歳関東馬の最強を決める戦いという位置付けであったが[15]、この年に限っていえば、両馬の出走によって、東西合わせた4歳馬の日本一決定戦ともいえる状況となった[16]。牡馬クラシック路線を歩むカブラヤオーにとっては、東京4歳ステークスは順当な選択であったが、牝馬のテスコガビーにとってはクラシック前にあえて牡馬に挑む格好となり[8][14]、そのため、両馬の直接対決が実現したのは、対戦を望むファンの思いにテスコガビー陣営が応えた結果ともいわれた[注 5][8]。テスコガビー担当の厩務員も、同馬の出走について次のように語っている[14]。

具合いも悪くないし使う。でも、それだけではありません。先生もオーナーもファンのためと思っています。私だって同じ……。カブラヤオーには負けるかもしれない。でもファンに喜んでもらえることがうれしい。もしかしたら、こんなチャンスはもうやってこないかもしれないから……

—生島厩務員,『日本の名馬・名勝負物語』417頁

両馬の参戦が決まったことで、カブラヤオー、テスコガビー共にお手馬としていた菅原は、騎乗馬の選択を迫られた[17]。悩んだ菅原は、茂木、中住の両調教師と相談し[16]、「カブラヤオーにはいつでも乗れる」という茂木の言葉もあって、テスコガビーに乗ることを選んだ[18][19]。カブラヤオーの鞍上については、他厩舎のベテラン騎手を乗せる案もあったが、同馬担当の鍋倉厩務員などの反対もあって、菅原の弟弟子の菅野澄男が務めることとなった[20]。

競走前の状況

人気・馬場状態等

東京競馬場(1975年1月20日撮影)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

競走は少数7頭立て[21]。前日にかけての雨の影響もあって、競走施行時には晴れてはいたものの、芝の表面だけが乾いている重馬場での開催となった[22]。

カブラヤオーとテスコガビーに人気の差はないと思われたが、実際にはカブラヤオーが単勝1.9倍という圧倒的な支持を集めた[23]。テスコガビーは3.5倍とカブラヤオーに次いでの支持ではあったが、3番人気のイシノマサル(3.6倍)[注 6]とは僅かな差しかなかった[20][23]。4番人気以下はノワキタカ、テキサスシチー、トウショウリドン、キクノヤマトと続いた[2]。カブラヤオー、テスコガビー共に先行馬であったため、どちらの馬がハナを切るかに注目が集まった[25]。

競走前、菅原は菅野にテスコガビーの後をついてくるよう指示し[16]、第4コーナーを回ってからの直線勝負を提案した[26]。一方、藤野広一郎によれば、陣営から菅野へ「なにがなんでも行け、遠慮なく行け」との指示があったという[27]。

出馬表

1975年2月9日 第2回東京 第5日目 第9競走(天気:晴、馬場状態:重)[1][2]
枠番馬番競走馬名性齢斤量騎手調教師単勝人気馬体重
(増減)
11イシノマサル牡455増沢末夫浅野武志3人 454(-8)
22トウショウリドン牡454西野桂野平富久6人 474(+8)
33テスコガビー牝454菅原泰夫仲住芳雄2人 492(+6)
44カブラヤオー牡455菅野澄男茂木為二郎1人 496(±0)
55キクノヤマト牝452横山富雄山岡寿恵次7人 442(-4)
66ノワキタカ牡454坂本恒三久保田金造4人 476(±0)
77テキサスシチー牡454加賀武見田中和夫5人 442(±0)

競走

展開

ゲートが開くと、テスコガビーが好ダッシュを見せてハナを切るも、カブラヤオーも譲らず主導権を奪いに行った[25]。両馬の激しい先行争いとなったため、共倒れを避けて菅原はテスコガビーを2番手に控えさせた[注 7][18][25]。このとき菅原は菅野に「ゆっくり行け」と声を掛けている[18]。後続との差を2、3馬身ほどとして、折合いついたカブラヤオーを先頭に、2番手にテスコガビー、3番手にイシノマサルが続き、最後尾のテキサスシチーまで順位変わらず、各馬第3コーナーを回った[29]。

そこからテスコガビーがスパート[30]。3番手以下も続き、第4コーナーになるとカブラヤオーと後続との差は半馬身ほどになっていた[30]。カブラヤオーはコーナーを大きく回り[30]、テスコガビーは外[23]、後続馬は開いた内を突いて行った[30]。そして、直線の坂を上がったところで、先頭を走っていたカブラヤオーが内から追ってきたイシノマサルに驚き[注 8][32]、外に大きく斜行した[25]。鞍上の菅野はパニックに陥り、鞭を右に持ち替える余裕もなくなっていた[23]。

泰さんが外にいなかったら、スタンドまで飛んでいったかも知れませんね
菅野澄男, 『優駿』1996年3月号、81頁[23]
おれがカブラヤオーの癖を知ってたから良かったです。驚かずに対処できましたから。ほかの人が乗っていたら、どうなっていたか
菅原泰夫, 同[23]

このカブラヤオーの危機を救ったのは、テスコガビー鞍上の菅原であった[23][33]。斜行馬がいればそれを避けるのが通常であるが、菅原は、カブラヤオーがこれ以上よれないよう、テスコガビーの馬体をかぶせにいった[18][33]。結果、カブラヤオーの斜行は止まり、その後、体勢を立て直した同馬と、テスコガビー、そして脱落したイシノマサルに代わって脚を伸ばしていたテキサスシチーが馬体を併せる格好となった[23][33]。最後は3頭の叩き合いのすえ、カブラヤオーがクビ差粘って勝利した[23][25]。2着にテスコガビー、そして3着にはハナ差でテキサスシチーが入った[23]。

競走後

菅原泰夫(調教師時代)
菅原はその後、カブラヤオーとテスコガビーで1975年の春のクラシックを独占する。

カブラヤオーは4連勝。鞍上の菅野にとっては初の、そして騎手人生唯一の重賞勝利となった[34]。菅野は勝利後、茂木から御法について酷く叱られたという[34]。また、直線での斜行は制裁対象となり、菅野には過怠金5,000円が科された[1][34]。

テスコガビーは初の敗戦を喫するも、競走内容から「敗けてなお強し」の印象を与えた[6]。菅原は「カブラヤオーは思ったより強い」と感じ[18]、敗れた悔しさよりも、カブラヤオーへの驚きの方が大きかったという[25]。菅原は競走後、「良馬場だったら勝っていたかも」と語ったが、斜行については何も言わなかった[31]。中住も競走を振り返って「うちのは相手次第で走る馬。並んでもカブラヤオーには負けないと思っていた。いまでも良馬場だったら、テスコガビーが勝っていただろうと思いますよ」と語っている[34]。

勝利したカブラヤオーはこの競走の後、再び菅原を鞍上に据え、皐月賞、東京優駿(日本ダービー)のクラシック二冠を達成する[35]。2着に敗れたテスコガビーも菅原騎乗で桜花賞、優駿牝馬(オークス)に優勝して二冠牝馬となり、菅原はこの年の春のクラシック競走を独占するという史上初の快挙を成し遂げた[35]。東京4歳ステークスの後には両馬の直接対決はなく、この競走が後のクラシック二冠馬同士による唯一度の対戦となった[17]。

果たしてカブラヤオーは菅原騎手の予想[注 9]どおり、皐月賞とダービーを驚異的な強さで逃げ切った。またテスコガビーも桜花賞で大差、オークスで8馬身差の完勝劇を演じ、同期の牝馬を子供扱いにした。この春、彼らにとって、互いの他にライバルなどいなかったのだ。 — 2008年2月9日 レーシングプログラム[25]

評価

この年の東京4歳ステークスは、カブラヤオー、テスコガビーの名馬同士による「史上に残る名勝負」として語られるようになった[注 10][6]。

原良馬はこの競走について、「ハイセイコー、タケホープが相次いで引退して寂しさを隠せない競馬界」において「テスコガビー、カブラヤオーの死闘は、その穴を埋めて余りあるものだった」と述べ[37]、また、藤野は、両馬が二冠を達成する前の勝負ではあったと前置きした上で、「その後のカブラヤオーの皐月賞とダービー、テスコガビーの桜花賞とオークスの楽勝劇を考えあわせてみると、たった一度の対決で終わったこのレースは、たしかに後世への語り草にしたくなるようなすばらしい名勝負であった」と評している[27]。

『優駿』誌上での企画においては、競馬関係者の投票で選ぶ「永遠に語り継ぎたい名勝負BEST60」(2014年)で第18位にランクイン[38]。また、杉本清ら5名[注 11]による議論で選定された「永遠に語り継がれる伝説の名レース・名勝負」(2003年)で、ベスト10には入らなかったものの、番外に選ばれた[注 12][40]。

わずか二分足らずの短かいドラマだったが、東京四歳Sは最高の盛り上がりを見せた。結果は見応えある力相撲となり、テスコガビーの出バナをたたいて先頭に立ったカブラヤオーが、二番手から直線豪快に追い込むテスコガビーを、首差振り切って初の重賞勝ち。〔中略〕この手に汗にぎるゴール前の攻防は、両馬の“強さ”を強烈にアッピール〔ママ〕したばかりではなく、歴史に残る“名勝負”として前半戦のハイライトとなった。 — 原良馬、「1975年サラ系四歳」『蹄跡』昭和50年度、129頁

結果

着順

出典:『中央競馬年鑑』昭和50年[1]、『競馬名勝負読本』[2]

着順枠番馬番競走馬名騎手タイム着差単勝人気賞金(万円)
附加賞含
1着44カブラヤオー 菅野澄男 1:52.0 1人 1406.3
2着33テスコガビー 菅原泰夫 1:52.1クビ 2人 561.8
3着77テキサスシチー 加賀武見 1:52.1ハナ 5人 350.9
4着11イシノマサル 増沢末夫 1:52.52+1⁄2馬身 3人 210.0
5着66ノワキタカ 坂本恒三 1:52.92+1⁄2馬身 4人 140.0
6着22トウショウリドン 西野桂 1:53.11馬身 6人
7着55キクノヤマト 横山富雄 1:55.2大差 7人

タイム

出典:『優駿』1975年3月号[41]

上がり4ハロン 49.3秒
上がり3ハロン 36.6秒

払戻金

出典:『中央競馬年鑑』昭和50年[1]、『競馬名勝負読本』[2]

投票券馬番払戻金
単勝 4 190円
複勝 4 130円
3 140円
連複 3-4 280円

脚注・出典

脚注

  1. ↑ 1975年2月2日までの未出走・未勝利馬は除く[1]。
  2. ↑ 馬齢重量、1975年2月2日までの収得賞金800万円毎1kg増[1]。
  3. ↑ 東京4歳ステークスは、1983年の『共同通信杯4歳ステークス』を経て、2001年に『共同通信杯』へ改称されている[4]。
  4. ↑ 日本中央競馬会がJRAの略称を制定したのは1987年4月からであるが[5]、便宜上JRAと表記する。
  5. ↑ 菅原によれば、「ローテーションの関係でたまたまぶつかっただけ」であったという[16]。
  6. ↑ テスコガビーの前走、京成杯の2着馬[24]。
  7. ↑ テスコガビーのポジションについては、菅原が「(カブラヤオーが他馬を怖がるという)弱点を悟られないようにカブラヤオーの外にテスコガビーをつけ、他馬がカブラヤオーの側に来ないような位置取りを取った」とも語っている[28]。
  8. ↑ 斜行の原因は菅野がムチを入れたためとも[18]。馬場の入口から帰ろうとしたというのもある[31]。
  9. ↑ 「カブラヤオーが同世代の馬には負けないのではないか」という予想[25]。
  10. ↑ 施行当時も当年の4歳牡馬・牝馬ナンバーワン同士の対決として相当の話題を呼んではいた[36]。
  11. ↑ 杉本清(アナウンサー)、小林皓正(アナウンサー)、長岡一也(競馬キャスター)、井崎脩五郎(評論家)、福田喜久男(『優駿』編集部)[39]。
  12. ↑ この企画ではベスト10に11戦(10位タイが2戦)、番外に9戦が選ばれている[40]。

出典

  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 「昭和50年重賞競走成績」『中央競馬年鑑』 昭和50年、日本中央競馬会、1976年、95頁。
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 『競馬名勝負読本 こだわりと偏愛の名勝負事典』別冊宝島178、宝島社、1993年、13頁の競走成績より。
  3. ↑ “カブラヤオー”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2024年1月26日閲覧。
  4. ↑ “今週の注目レース 共同通信杯”. 日本中央競馬会. 2011年1月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年9月16日閲覧。
  5. ↑ “JRAのあゆみ#昭和62年”. 日本中央競馬会. 2024年7月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年9月21日閲覧。
  6. 1 2 3 横尾一彦「夭折した天才少女・テスコガビー」『優駿』1986年5月号、日本中央競馬会、27頁。
  7. ↑ 後藤正俊「永遠に語り継ぎたい名勝負BEST60/第18位 1975年東京4歳S」『優駿』2014年3月号、日本中央競馬会、43頁。
  8. 1 2 3 日夏雄高「永遠に語り継がれる伝説の名レース・名勝負/番外編 昭和50年東京4歳S」『優駿』2003年3月号、日本中央競馬会、33頁。
  9. 1 2 梶要造「カブラヤオー テスコガビー 強者ゆえの孤独」『名馬・名勝負物語』中央競馬ピーアール・センター、1980年、416頁。
  10. ↑ 瀬戸慎一郎. “【最強ヒストリー】カブラヤオー 第3話 落ちこぼれ健闘す”. Yahoo!スポーツナビ+. 競馬最強の法則WEB. 2016年4月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年9月2日閲覧。
  11. ↑ 井口民樹「カブラヤオーvsテスコガビー『ひとりと2頭の春』(上)」『優駿』1996年2月号、日本中央競馬会、91頁。
  12. ↑ 阿部珠樹「テスコガビー 青き女王、その速さは永遠に」『優駿』2001年6月号、日本中央競馬会、39頁。
  13. ↑ 阿部珠樹「テスコガビー 青き女王、その速さは永遠に」『優駿』2001年6月号、日本中央競馬会、40頁。
  14. 1 2 3 4 梶要造「カブラヤオー テスコガビー 強者ゆえの孤独」『名馬・名勝負物語』中央競馬ピーアール・センター、1980年、417頁。
  15. 1 2 井口民樹「カブラヤオーvsテスコガビー『ひとりと2頭の春』(上)」『優駿』1996年2月号、日本中央競馬会、90頁。
  16. 1 2 3 4 瀬戸慎一郎. “【最強ヒストリー】カブラヤオー 第4話 夢の対決”. Yahoo!スポーツナビ+. 競馬最強の法則WEB. 2016年4月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年5月6日閲覧。
  17. 1 2 井口民樹「カブラヤオーvsテスコガビー『ひとりと2頭の春』(下)」『優駿』1996年3月号、日本中央競馬会、80頁。
  18. 1 2 3 4 5 6 阿部珠樹「テスコガビー 青き女王、その速さは永遠に」『優駿』2001年6月号、日本中央競馬会、41頁。
  19. ↑ “伝説のジョッキー 第4回 遅咲きの勝負師菅原泰夫”. 日本中央競馬会. 2018年1月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年9月21日閲覧。
  20. 1 2 梶要造「カブラヤオー テスコガビー 強者ゆえの孤独」『名馬・名勝負物語』中央競馬ピーアール・センター、1980年、418頁。
  21. ↑ 藤野広一郎「青毛の弾丸娘 テスコガビー」『名馬物語』中央競馬ピーアール・センター、1990年、25頁。
  22. ↑ 「第六章 テスコガビー」『「優駿」観戦記で甦る 桜花賞十番勝負』小学館、1999年、207頁。
  23. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 井口民樹「カブラヤオーvsテスコガビー『ひとりと2頭の春』(下)」『優駿』1996年3月号、日本中央競馬会、81頁。
  24. ↑ 「昭和50年重賞競走成績」『中央競馬年鑑』 昭和50年、日本中央競馬会、1976年、88頁。
  25. 1 2 3 4 5 6 7 8 “昭和50年(1975年)第9回東京4歳S カブラヤオーVSテスコガビー 最強牡馬VS最強牝馬”. 日本中央競馬会. 2018年1月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年9月21日閲覧。
  26. ↑ 井口民樹「カブラヤオーvsテスコガビー『ひとりと2頭の春』(下)」『優駿』1996年3月号、日本中央競馬会、80-81頁。
  27. 1 2 藤野広一郎「青毛の弾丸娘 テスコガビー」『名馬物語』中央競馬ピーアール・センター、1990年、26頁。
  28. ↑ 菅原泰夫「テスコガビーがいたから名馬になれた カブラヤオー」『忘れられない名馬100』学習研究社、1996年、47頁。
  29. ↑ 伊藤元彦「東京4歳S(トキノミノル記念)」『優駿』1975年3月号、日本中央競馬会、81-82頁。
  30. 1 2 3 4 伊藤元彦「東京4歳S(トキノミノル記念)」『優駿』1975年3月号、日本中央競馬会、82頁。
  31. 1 2 梶要造「カブラヤオー テスコガビー 強者ゆえの孤独」『日本の名馬・名勝負物語』中央競馬ピーアール・センター、1980年、419頁。
  32. ↑ 江面弘也「カブラヤオーと狂気の逃げ」『優駿』2019年8月号、日本中央競馬会、84頁。
  33. 1 2 3 「第六章 テスコガビー」『「優駿」観戦記で甦る 桜花賞十番勝負』小学館、1999年、209頁。
  34. 1 2 3 4 井口民樹「カブラヤオーvsテスコガビー『ひとりと2頭の春』(下)」『優駿』1996年3月号、日本中央競馬会、82頁。
  35. 1 2 「カブラヤおお強し ダービー」『朝日新聞』 東京朝刊、朝日新聞社、1975年5月26日、18頁。
  36. ↑ 梶要造「カブラヤオー テスコガビー 強者ゆえの孤独」『日本の名馬・名勝負物語』中央競馬ピーアール・センター、1980年、413頁。
  37. ↑ 原良馬「1975年サラ系四歳」『蹄跡』 昭和50年度、日本中央競馬会、1976年、129頁。
  38. ↑ 「永遠に語り継ぎたい名勝負BEST60」『優駿』2014年3月号、日本中央競馬会、5頁。
  39. ↑ 「永遠に語り継がれる伝説の名レース・名勝負」『優駿』2003年3月号、日本中央競馬会、10頁。
  40. 1 2 「永遠に語り継がれる伝説の名レース・名勝負」『優駿』2003年3月号、日本中央競馬会、17頁。
  41. ↑ 『優駿』1975年3月号、日本中央競馬会、81頁掲載の図より。

参考文献

  • 『中央競馬年鑑』 昭和50年、日本中央競馬会、1976年。doi:10.11501/12431137。 
  • 『蹄跡』 昭和50年度、日本中央競馬会、1976年。doi:10.11501/12441176。 
  • 『日本の名馬・名勝負物語』中央競馬ピーアール・センター、1980年。doi:10.11501/12441232。 
  • 藤野広一郎『名馬物語』中央競馬ピーアール・センター、1990年。ISBN 4-924426-27-X。 
  • 『競馬名勝負読本 こだわりと偏愛の名勝負事典』 別冊宝島178、宝島社、1993年。ISBN 4-7966-9178-2。 
  • 『忘れられない名馬100』学習研究社、1996年。ISBN 4-05-601392-6。 
  • 寺山修司 ほか『「優駿」観戦記で甦る桜花賞十番勝負』小学館、1999年。ISBN 4-09-402484-0。 

雑誌

  • 『優駿』日本中央競馬会、1975年3月号、1986年5月号、1996年2月号、1996年3月号、2001年6月号、2003年3月号、2014年3月号、2019年8月号

外部リンク