筒井順尊
| 時代 | 室町時代後期 |
|---|---|
| 生誕 | 宝徳3年(1451年) |
| 死没 | 長享3年7月22日(1489年8月27日) |
| 別名 | 栄藤、舜覚坊 |
| 氏族 | 筒井氏 |
| 父母 | 父:筒井順永 |
| 兄弟 |
順尊、成身院順盛、安楽坊順憲、 箸尾為国室、遊佐長直室 |
| 子 | 順賢、順興 |
略歴
当時の大和は畠山義就と畠山政長が対立した影響で国人も2派に分かれて抗争していた。筒井氏は政長派に属し、応仁の乱では順尊は父・順永と共に義就派の越智家栄、古市澄胤と大和で戦った。
順尊は順永の長男で、幼名を栄藤といった。『大乗院寺社雑事記』文明2年(1470年)4月20日条に「筒井順永律師長子栄藤」が22日に得度すると見える[1]。
応仁の乱のさなか、西軍の大内政弘の軍勢が相楽郡椿井まで進出したとき、順尊(舜覚房)は奈良を守ると称して河内での合戦に加わらず、尋尊はこれを臆病とみた[2]。一方で順尊は佐川某とともに、大内氏の兵を山城国の木津と天神川原で打ち破ってもいる[3]。文明8年(1476年)4月5日に順永が没すると、順尊が家督を継いだ[4]。
しかし、文明8年(1476年)に父が死去、翌年9月に畠山義就が河内国に下向して政長派を撃滅・制圧すると越智家栄らも勢いづいて順尊・箸尾為国らを大和から追放、河内と大和は義就の手に入った(正式な守護は政長と興福寺だが、義就が実力で取得した)。結果、順尊ら政長派は流浪の身となった。後に十市遠清・遠相父子も大和から脱出した。
その後も、没落した十市遠相らは順尊と多武峯の援助を受けて義就方に反撃しようとした。順尊自身は福住(天理市)に身を置き、十市父子は小山戸などに潜んで、部下や足軽を郡山などへ繰り出している[5]。のち幕命を背景に、順尊は成身院順盛らとともに一時本拠の筒井城へ入り、稗田・箕田を焼き払った[6]。
その後は大和で度々ゲリラを仕掛けるがその度に敗北、復帰を果たせぬまま長享3年(1489年)7月22日、京都で死去。享年39。同じ年の3月には将軍足利義尚も没している。順尊は牢人の身のまま京都で没した[7]。
家督は長男の藤王(のちの筒井順賢)が継いだ。藤王は福住氏に養子に入っていたが、戻って跡を継いだと考えられる。まだ若年であったため、叔父の成身院順宣が後見した[8]。
脚注
参考文献
- 朝倉弘『奈良県史 第十一巻 大和武士』名著出版、1993年。ISBN 4-626-01461-5。
外部リンク