紗那郵便局
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| 基本情報 | |
| 正式名称 | 紗那郵便局 |
| 前身 |
振別郵便局 択捉島振別郵便局 紗那郵便電信局 |
| 設置者 | 農商務省駅逓局、逓信省、運輸通信省(通信院)、逓信院 |
| 所在地 | 北海道紗那郡紗那村字紗那 |
| 特記事項 | |
| 1945年(昭和20年)9月11日ソ連により接収、同年10月30日解散 | |
紗那郵便局(しゃなゆうびんきょく)は北海道紗那郡紗那村にあった郵便局である。普通郵便局であった。
択捉島に8局あった郵便局の中で本局が唯一の二等郵便局であり、無線電信施設を備えていた[1][2][3]。無線の開通以前は海底ケーブルを用いて通信していたが、根室から国後、国後から択捉と通信する必要があったこと、国後島白糠泊から択捉島丹根萌までの海底ケーブルが流氷により断線すると春まで修理が出来ず不通となることから国後島にあった国後郵便局よりも先に電気設備を設け、無線電信施設を設置した[4]。無線電信施設の設置後も海底ケーブルによる通信は継続されたが冬季に海底ケーブルが断線すると択捉島の電信は本局に集中した[3]。
当時の郵便局の配達は通常郵便が徒歩、電報が自転車であったが、市街地の道路に砂地が多く、有萌に至る道路の途上には200メートルほどの砂丘があったことから自転車を使うことが出来ず本局の電報配達は馬に乗って行われていた[3]。
択捉島がソビエト連邦に占領された際の緊急報は本局より打電された[5]。ソビエト連邦の占領後も引き続き郵便局として使用されたが後に使われなくなり、屋根が抜け落ち朽ちていた[5][6][7][8]。保存を訴える声もあったが2015年(平成27年)に解体された[5][9][10]。
歴史
振別郵便局の開業
1878年(明治11年)7月22日、郡区町村編制法(明治11年太政官布告第17号)が公布され[11]、開拓使においてはこれに応じて1879年(明治12年)7月23日に明治12年開拓使布達乙第4号により千島国振別郡振別村に振別択捉紗那蘂取郡役所を設置し、振別郡、択捉郡、紗那郡及び蘂取郡を管轄する旨を定めた[12][13]。実際に郡役所が開庁したのは翌1880年(明治13年)7月のことであったが、爾来同村一帯は択捉島全域の行政の中心地として機能していた[14][15][16]。このような背景の下、択捉島内において初めて1885年(明治18年)2月1日に五等郵便局として同村内に振別郵便局が開局した[17][18]。同局は当初択捉島内の全域(振別郡、択捉郡、紗那郡及び蘂取郡)をその郵便区としていた[19]。1886年(明治19年)4月26日、地方逓信官官制(明治19年勅令第8号)の三等郵便局制開始に伴い振別郵便局は三等郵便局となり[20]、続いて同年6月1日に択捉島振別郵便局と局名を改めた[21]。
紗那への移転

一方、振別村にあった振別択捉紗那蘂取郡役所は、1885年(明治18年)11月16日に千島国根室県紗那郡紗那村に移転し、紗那振別択捉蘂取郡役所と改称した[22]。これに伴い、振別村には同日から振別村老門村内保村丹根萌村留別村戸長役場が開設され、引き続き振別村、振別郡老門村、択捉郡内保村、択捉郡丹根萌村及び択捉郡留別村の管理を行ったが[22]、この戸長役場も1886年(明治19年)8月15日に留別村に移転して留別村外四箇村戸長役場と改称した[23]。こうして官庁が移転したことにより、振別村の戸数は減少してわずかな漁民を残すのみとなり[15]、1893年(明治26年)の報告によれば、「郡役所ノアリシトキハ船舶ノ出入アリシト雖𪜈現今ハ唯鱒、鮭輸出之際運漕船ノ出入アルノミ」という状況であった[24]。
こうして振別に代って郡役所が置かれた紗那村へ1886年(明治19年)11月25日に択捉島振別郵便局は移転し、局名を紗那郵便局と改めた[25]。その後、1891年(明治24年)7月16日に郵便為替及び郵便貯金[26]、1892年(明治25年)2月1日に小為替振出事務[27]、1896年(明治29年)7月1日に小包郵便の取扱を開始した[28]。なお後に1916年(大正5年)10月1日に簡易生命保険、1926年(大正15年)10月1日に郵便年金の取扱をそれぞれ開始している[29][30]。
電信事務の取扱開始
千島に対する電信線敷設の主張
北海道と千島列島の間における電気通信の必要については、井上毅が1892年(明治25年)12月3日に『北海道意見』において次のように述べている[31]。
千島に電信を架設し、及航通を開くの事亦急にせざるべからず
根室と千島との間の海底電線未だ設置に至らざるは遺憾とすべし、蓋根室と択捉島との間に設くる線費は大約二十万円に過ぎざるべし — 井上毅、「北海道意見」、『井上毅伝 史料篇第二』所収(567頁)、1968年(昭和43年)3月、國學院大學図書館
また、1893年(明治26年)12月16日の第5回帝国議会貴族院本会議においては太田代十郎[32]等が呈出した「千島国冬期開航並電線架設ノ件」が採択され[33]、続いて1894年(明治27年)6月2日の第6回帝国議会貴族院本会議においても「千島国択捉島電線架設ノ件」が採択された[34]。「千島国択捉島電線架設ノ件」の請願にかかる意見書は次の通りであった[34]。
意見書案
千島国択捉島電線架設ノ件
内閣総理大臣伯爵伊藤博文殿 — 「千島国択捉島電線架設ノ件」、『第六回帝国議会貴族院議事速記録十六号』(272頁、1894年(明治27年)6月2日)
北海道函館区富岡町平民太田代十郎外十七名呈出
右ノ請願ハ千島ハ日本トオコースク海ノ咽吭ヲ扼シ帝国北辺ノ要害ヲ占メ其ノ地沍寒ナリト云フト雖之ヲ欧米諸国大都会ノ寒地ニ在ルモノニ比スレハ未タ必シモ其ノ下ニ出テス而シテ海産ノ饒多ナルハ宇内ニ冠タリ陸地ニ至テハ樹木蓊欝地味膏腴耕牧ニ適スルハ従来ノ実験ニ徵シテ明カナリ硫黄ノ如キ獣禽ノ如キ亦多シ実ニ帝国ノ宝蔵タリ然ルニ永ク之ヲ寂寞荒涼ニ委スルモノ職トシテ運輸交通ノ便ナキニ由ラスンハアラス海運ノ如キハ既ニ冬期中二回ノ航海ヲ起シ稍〻開進ノ運ニ向フト雖電線ヲ通架シ辺疆警備ノ実ヲ挙ケ物產出入ノ便ヲ図ラサレハ拓殖ノ業何ニ由テカ振起セン今其ノ電線架設ノ順路ヲ考フルニ根室ノ野付岬ヨリ国後ノ泊港、アトエヤ、択捉島ノベロタルベツ、タン子モエ、紗那、留別等ヲ過キ蘂取港ニ至ル凡百三十里ノ間ニ架設セラレ以テ気脈ヲ本土ニ通シ緩急相応スルノ途ヲ開カレタシ今其ノ費途ヲ概算スルニ弐拾弐万円ヲ要スヘシト雖拓殖ノ大業警備ノ急務ヨリ之ヲ観察スレハ亦巳ムヲ得サルノ必要アリトノ旨趣ニシテ貴族院ハ願意ノ大体ハ採択スヘキモノト議決致候因テ議院法第六十五條ニ依リ別冊及送付候也
明治二十七年五月日
貴族院議長侯爵蜂須賀茂韶
測量及び電信線建設工事概況

1892年(明治25年)9月には札幌電信建築署[35]の塩谷技手が国後島及び択捉島の陸海電信線建築予定地の調査を実施した[36]。『外地海外電気通信史資料 千島・樺太・沖縄・小笠原の部 1』によれば、「この技手は、国後、択捉の二島を跋渉しこの間野宿すること三回、小舟にて大海に漂流すること一回で、この実例の苦労は筆舌につくし得ぬものであった」という[37]。その後、明治29年度予算において国後択捉電信線新設費(総額229718円96銭5厘)が組み込まれ、同年度から明治30年度にかけて2ヶ年継続事業として国後島及び択捉島を結ぶ電信線敷設工事が実施されることになった[36][38]。測量はまず1896年(明治29年)5月21日に国後島西端の国後郡泊村善平古丹より開始され、択捉島における測量は南端の択捉郡丹根萌村より同月31日に開始された[36]。同島における測量は密林を縫い、岸壁を登攀し、熊の獣道を行くといった難行であり、択捉郡丹根萌村から同郡内保村への行程だけでも60日を費やしたが、同年10月20日に蘂取郡蘂取村に到着して完了した[36]。
続いて同島における電信線架設工事は1897年(明治30年)5月7日から開始された[36]。本工事にかかる工夫の募集は同年3月より行われていたが、当時の北海道においては各所において鉄道敷設工事等が実施されており、僻陬の離島に赴くことを希望する者は少なく、やむなく50銭の日給を1割増にして人員を充足したという[36][39]。電信柱に用いる木材(椴松)は現地調達であったが、千島における椴松は太く短く重いものが多く、運搬には非常な労力を要し、また雨や霧のために常に作業着は濡れ、長期間にわたる天幕生活のために病人が続出した[36][37]。3644本の椴松が電信柱のために伐採され、密林を開鑿して道路を築き、また数ヶ所に橋梁の建設が行われた[37]。工事期間を通じて病人は絶えず、夏季にもかかわらず4名の凍死者を出す難工事であったが、同年11月8日に完工した[36]。この間、逓信省電纜敷設船沖縄丸は同年8月14日に根室港に入り、まず標津郡標津村三本木から国後郡泊村の間の野付水道に25.48キロメートルの海底電信線を敷設し、続いて同島より択捉郡丹根萌村の間に35.86キロメートルの海底電信線を敷設する工事を同月20日までに完了している[36]。同年9月16日には北海道根室国標津郡標津村字三本木と千島国国後郡泊村字ノツエト崎との間及び同郡留夜別村字安渡移矢岬と同国択捉郡丹根萌村字丹根萌との間における海底電信線の敷設に伴う線路認定が告示された[40][41]。
この工事の様子と意義について『東京朝日新聞』は次のように報じている[42]。
●千島電線工事と国防 北海道根室より千島泊村を経て沙那に至る海底電線は本年八月中には竣工の予定なるが同工事は頗る困難にして局外者の実に夢想だも及ばざる程なりと云ふ一端を聞くに同地方は寒気厳烈なるを以て冬期は無論工事を中止し之れに着手するは夏期に限ることなれども夏期は一種猛烈なる疫病流行しおまけに飲料水悪しきを以て工夫人夫往々にして死亡し且つ中途党を与(く)んで逃亡するもの踵(きびす)を継(つい)で起ると云ふの姿なれば非常に高価なる賃銀を払ふにあらざれば工事の進行を見る能はず而して泊村より沙那に至るの間は山坂峻嶮にして行くに道なき所多く之がため先づ道路を開いて然る後電線を架設する有様なれば其困難は一方ならざりしも専任技師等の励精により今は泊沙那間の陸線のみ成効を告げたるよし左るにても空漠たる北海の原野に政府は何故に巨額の費を惜まずして斯かる電線を架設するかと言ふに是れ疑もなく同地と内地間に於ける商業の進歩及び同地開拓の趣旨に基くものなれども冬期北海の結氷する頃には電線の外何等交通の機関なきを以て同地に於て一朝事あるの時も内地は漫として其消息を知る能はざる等の不都合あるを懸念し国防上政府は最も此処に重きを置き此の電線の竣工を期図するものなりと当局者は言へり
(引用者註:原文において変体仮名「𛂞」を用いる箇所は「は」に統一し、振り仮名の記載は一部を除き省略した) — 「千島電線工事と国防」、『東京朝日新聞』(朝刊6面、1897年(明治30年)6月5日)
電信取扱開始と局舎新築

こうして択捉島内における電信線設備は整備され、1897年(明治30年)10月1日、紗那郵便局は電信事務の取扱を開始し、等級は二等郵便電信局となり、紗那郵便電信局と改称された[43]。根室と紗那の間を結ぶ電信線は国後島内の泊村郵便局及び乳呑路郵便局、択捉島内の留別郵便局にも接続され、いずれも郵便電信局となって電信の取扱を開始した[43][44]。また、択捉島内における電信線は同年11月21日に蘂取郵便局にまで延伸し、同局も郵便電信局に改組して電信の取扱を開始した[45][46]。
また、同月には紗那郵便電信局の新たな局舎が紗那村31番地に新築された[47]。本局舎新築工事にかかる入札公告は同年5月21日に『官報』上において行われた[48]。設計は逓信省営繕課、監督は札幌逓信局営繕係、工事請負人は関兵之助が担任し、約25404円の工費を以て木造2階建の本館(延床101坪)が建設され、その後5年にわたって木造平屋の附属舎各棟(延床55坪)も竣成した[47]。
択捉島内における電信利用については、元天寧郵便局[49]長松本尚三が次のように述べている[50]。
当時打電先の多かったのは、出稼人の多かった富山県と、仙台でした。
電報事務もこれらの時期には大変忙しく、昼夜兼行で打電したというが、これにも当時の島民の暮らしぶりをうかがわせるものがあります。
島民は電報で支払いの督促を受け、今度は送金するというわけで、郵便局が忙しくなったのです。このため、”この仕事をしていると、誰が、どこの店にいくら位の借金があるかがよくわかった”という、裏話もあるほどでした — 松本尚三、(出典:北方ライブラリー製作委員会編、『元島民が語る われらの北方四島 行政編』(200頁)、1990年(平成2年)3月、千島歯舞諸島居住者連盟)
択捉島の紗那郵便局に勤務していた人から、”毎年五月に入りますと、有線回線の利用が大変多くなって、ほとんど二十四時間、流し打ちの状態で回線の空くことがなかった”と聞いていました。これはつまり、越冬用物資代金の支払いの督促が多かったためなんです。
開設後の有線電気通信業務
通信方式の変更
根室紗那線の電信線は長距離にわたる線路であったため漏電が多く、開通翌年の1898年(明治31年)10月24日に単流法を複流法に変更した[46]。一般に単流法によっては送信する距離が長くなると、電波の波形が崩れて符号を復調することが難しくなるため、このような場合には打鍵の間隔に反対方向の電気を流して波形を明瞭にする複流法が採用されていた[51]。1899年(明治32年)12月16日にはそれまで用いられていたモールス印字機を音響式に変更した[52]。
海底電信線の新線敷設


1899年(明治32年)2月から3月にかけて根室紗那間の電信線は、野付水道及び国後水道いずれも流氷のために断線し通信障礙を生じた[46]。このため、国後水道においては陸揚点を変更して国後郡留夜別村字白糠泊から択捉郡丹根萌村字丹根萌の間に22.8キロメートルに及ぶ新線を敷設し、同年8月14日にその工事を完了した[46]。同区間における線路認定は同年10月25日に告示され、旧線認定の明治30年逓信省告示第262号は廃止された[53]。
一方、野付水道においては根室国根室郡根室村字ハッタラと国後郡泊村字ケラムイの間に新線が敷設され、1900年(明治33年)9月29日にその工事を完了した[46]。同区間における線路認定は、翌1901年(明治34年)1月14日に告示され、旧線認定の明治30年逓信省告示第261号は廃止された[54]。
紗那測候所との間における有線電話設備

北海道庁は1902年(明治35年)9月1日に紗那郡紗那村において紗那測候所[55]を開設し、同所において気象観測業務を開始した[56][57]。この紗那測候所と紗那郵便局の間に電話設備を施す工事は、1904年(明治37年)12月4日に完成し、翌1905年(明治38年)2月9日より開通した[57][58]。
電信柱の更新
上述の如く、択捉島内における陸上電信線敷設工事においては、当初島内における椴松の生木が電信柱として使用されたため、複数箇所において腐蝕を生じていた[46]。このため、1904年(明治37年)から1907年(明治40年)にかけて防腐剤として胆礬(タンパン)を注入した材木を用いた電信柱に更新された[46]。この電信柱は当地の寒冷なる気候に適応し、30年間使用しても異常のないものがあったという[46]。
択捉島の中心局として
二等郵便電信局への昇格

択捉島内においては三等郵便局として1888年(明治21年)4月1日に蘂取郵便局(蘂取郡蘂取村)及び留別郵便局(紗那郡留別村)[59]、1891年(明治24年)4月1日に内保郵便局(択捉郡内保村)が開業した[60]。島内における三等郵便局の監督事務を担う必要が生じたので、電信事務の取扱開始と同時に、紗那郵便局は1897年(明治30年)10月1日に二等郵便電信局に昇格し紗那郵便電信局と改称した[43][61]。1902年(明治35年)11月5日には千島国択捉島において監督事務を分掌し為替貯金及び取立金資金並びに過超金授受の事務を取扱う二等郵便電信局に指定されている[62]。なお、1903年(明治36年)4月1日には通信官署官制(明治36年勅令第40号)の施行に伴い紗那郵便局(二等)となった[63]。また、1941年(昭和16年)2月1日には通信官署官制(大正13年勅令第273号)改正による郵便局等級制廃止に伴い普通郵便局となっている[64][65]。
通信官署に対する郵便切手類及び収入印紙売下の取扱
三等郵便局に対する郵便切手類売下事務については、1886年(明治19年)6月30日に三等局より特に指定する郵便局へ請求するものとされ、北海道内においては札幌郵便局及び根室郵便局が指定された[66]。続いて1893年(明治26年)11月10日からは明治26年逓信省公達第396号により特に指定する二等郵便電信局において三等郵便電信局に対する売下事務を取扱うものとされ、一等郵便電信局たる札幌郵便電信局の下、北海道内においては函館郵便電信局及び根室郵便電信局が指定された[67]。この明治26年逓信省公達第396号を改正し、紗那郵便局は1898年(明治31年)8月12日から三等局に対する郵便切手類売下事務を取扱う二等郵便局に指定された[68]。
続いて1898年(明治31年)7月14日に収入印紙ニ関スル件(明治31年勅令第140号)により収入印紙制度が開始され[69]、収入印紙売下ニ関スル件(明治32年勅令第50号)及び郵便切手及収入印紙売下規則(明治32年逓信省令第11号)により郵便官署における収入印紙の売下が1899年(明治32年)3月25日に開始された[70][71][72][73]。これに伴い、前述の明治26年逓信省公達第396号は同年5月24日に改正され、収入印紙についても三等郵便局への売下の取扱を行う旨の規定が追加された[74]。
1903年(明治36年)4月1日の通信官署官制(明治36年勅令第40号)の施行後、同年5月16日に根室郵便局が千島国における郵便切手類及び収入印紙売下に関する事務を取扱うこととなり、紗那郵便局等が担っていた明治26年逓信省公達第396号による事務は同月31日限りを以て一旦同局に継承された[75]。その後、改めて紗那郵便局は同年11月28日より千島国択捉島における郵便切手類及び収入印紙の各通信官署に対する売下事務を所掌することとなった[76]。
電信技術者の養成
北海道においては1888年(明治21年)12月10日に初めて札幌郵便局へ電信技術見習生が入学し、道内各所において養成が行われていたが、1896年(明治29年)7月14日の電気通信技術伝習生養成規則(明治24年逓信省公達第46号)改正に伴い、道内における養成局は札幌、函館、釧路、小樽、根室及び紗那が指定された[77][78][79]。実際の養成の大半はもっぱら札幌郵便電信局において行われたが、第一次世界大戦勃発とこれに伴う好況は各所における電信技術者の不足を招き、養成生の増員分を札幌養成所において収容しきれなくなったため、1918年(大正7年)5月には紗那においても臨時にその養成を担当した[80]。その後、1921年(大正10年)5月の改革により、札幌逓信講習所が開設され、またその支所が函館、旭川及び釧路に置かれ、以降紗那における技術者養成は行われなかった[80][81]。
無線通信の開始
有線通信杜絶による苦難

冬期に流氷に閉ざされる千島にあっては、海底電信線は唯一の外界との連絡手段であり、元紗那尋常高等小学校教諭石野栄次郎は次のように当時を回想している[82]。
その頃島の通信機関は、根室からの海底電線により辛くも本道との連絡がとれていた。国内の大きな出来事は、電信により郵便局に知らされ、局員より我々が聞くという風であった。したがって局員は情報の最先端でもあった。親が危篤になっても定期船の入港するまでは行くことができず、ただ、いらいらして待っているだけである。まして流氷が接岸する一月から四月までは、交通が途絶しどんな事態が発生してもどうにもならない状態であった。 船が入港して新聞が配達されると、十日間の国内での出来事がようやくわかるわけで、食い入るように読んだものである。五月の初定期の時などは四ヵ月分の新聞が、どさっと配達されるので、細かに読むわけにはいかず大見出しだけをざっと目を通すに過ぎない。それでも四日も五日もかかったものだ。そして国内にはこんなこともあったのかと驚いたり感心したりした。そんな状態で十月から半年位も世の中から取り残される島民でもあった。局に無線がついたのは自分が島を去ってからで、昭和四、五年頃ではなかったか。 — 石野栄次郎、『潮騒の択捉―島を返せ―』(92から93頁)、1977年(昭和52年)10月、楡書房
しかしこの国後島及び択捉島に通ずる海底電信線は、冬期において風波や流氷のために断線し、島民に非常の不便を強いることが度々あった[83]。元紗那郵便局局員川口広一は次のように述べている[84]。
根室―紗那間には国後を通じて海底線がありましたが、一月末から三月末までの冬季間は流氷が入ってくるため、海底線が断線する場合が多く、春に竣工船が来るまで修理できない状態でした — 川口広一、(出典:北方ライブラリー製作委員会編、『元島民が語る われらの北方四島 行政編』(200頁)、1990年(平成2年)3月、千島歯舞諸島居住者連盟)
こうした通信杜絶による苦難を受け、無線電信設備の必要を主張する声が官民に澎湃として起こり、後に紗那郵便局は無線通信を開始するに至った[83][85]。元紗那郵便局長木村担三郎(可須美)は次のように述べている[85]。
所謂千島列島は北海道本土と露領カムサツカとの間に点在する大小無数の島嶼の総称であり、世界三大漁場の一として最も天産に恵まれた島々である。 然るに同方面への船舶の航行は晩秋より初春にかけ約数ヶ月間は結氷流氷等の為に其の航行を杜絶され、本土島嶼間の運輸交通は全く断絶さるゝのが従来の例である。而して千島と本土との唯一の連絡期間としては根室より国後択捉に通ずる一海底線があるのみであるが、これとても冬季に於て一度不通となるや修理船の廻航さるゝこと能はざる為復旧に其の手段なく数ヶ月間全く本土より連絡杜絶することゝなる。従来殆んど毎年かゝる例を絶たないのであつて、本島島民はかね〴〵本島と北海道本土間の連絡機関として本島に無線電信の設備を熱望してゐたのであるが上局に於かれても亦夙に其の必要を認められ之が実現に付種々画策せられた結果昭和五年度成立の電信拡張費を以て実施せらるゝこととなり茲に関係官民年来の宿望を達成するを得、恰も暗夜に燈火を得たるの感を抱かしめたのである。 — 木村可須美、「局たより 紗那郵便局 無線電信併置新築落成に就て」、『逓信協会雑誌』第270号所収(110から111頁)、1931年(昭和6年)2月、逓信協会
無線設備の請願
1925年(大正14年)3月19日、第50回帝国議会衆議院請願委員会において衆議院議員小池仁郎の紹介による請願「択捉島、根室間に無線電信架設の件」が呈出され採択された[86]。その趣旨は次の通りであった[86]。
○小池仁郞君 請願ノ要旨ハ文書表ニ明記シテアリマス通リ、僅ニ海底電信一本デ繋ガッテ居ルノデアリマス、随テ択捉島ニハ徵兵令モ、或ハ衆議院議員選挙法モ、或ハ道会議員選挙法等モ施行シテアリマスケレドモ、此電信一本ノ為ニ屡〻障碍ヲ来スノデアリマス、暴風激浪ノ為ニ破損シテ故障ガ起リ、冬季流氷ノ為ニ障碍ヲ受ケル等、航海ノ上ニモ不便利デアリマスカラ、ドウシテモ通信ダケハ切メテ冬デモ通ズルヤウニシテ欲シイ、斯様ナ極メテ同情スベキ状態ニ在ル請願デゴザイマス、ドウゾ御採択下サルヤウニ切望致シマス — 小池仁郞、(出典:『第五十回帝国議会衆議院請願委員会議録(速記)第十一回(第四類第一号)』(9頁)、1925年(大正14年)3月19日)
しかし、本件は大正15年度予算に組み込まれず、1926年(大正15年)2月10日の第51回帝国議会衆議院請願委員会(第三分科)において再度小池仁郎の紹介により請願が呈出された。小池仁郎は次のように述べている[87]。
○小池仁郞君 本請願ハ屡〻議会ヲ煩シテ御採択ヲ得マシタ問題デアリマス、段々問題ハ進行シ、昨年当局ヨリ地元カラ寄附ガ出来ルカト云フコトデアリマシテ、地元ノ者ハ一万円寄附シタ所ガ、一万円ヂヤ足ラナイカラ、モウ少シ出來ナイカト云フコトデ一万五千円寄附ヲスルコトニ申出デマシテ、実現スルコトヽ思ツテ居リマシタ所ガ、予算ノ都合上出来ナイト云フ中央カラノ通知ガアリマシテ、非常ニ失望シテ居ルノデ、金ハ出来テシマツテ居ルシ、是非此設備ノ出来ルヤウニ御願シタイト云フノデ、重ネテ議会ヲ煩シタ訳デアリマス、御承知モアラセラルヽカ知レマセヌガ、千島ノ択捉島ハ千島三十二列島ノ中デ一番大キイノデ、年中住居シテ居ル者ハ約二千人ヲ超エテ居リマス、夏ニナリマスレバ更ニ二千人、若クハソレ以上ノ者ガ出稼スルノデアリマスガ、十二月ノ下旬カラ翌年ノ四月下旬マデハ全ク航海ハ杜絶シ、唯海底電線一本デ繫ガツテ居ルノデ、丁度臍ノ緒デ胎児ガ母親ト繋ツテ居ルヤウナ状態デアリマス、所ガ此海底電線ハ屡〻故障ヲ生ズルノデ、丁度母体ト胎児トカ絶縁ヲスルヤウナ状態ガ時々アル、昨年モ故障ガ起ツタコトガアツテ、直ニ当局者ノ御配慮デ修繕ガ出来マシタケレドモ、又此冬季ニ故障ガアルト云フコトヲ聞イテ居リマス、洵ニ此二千人以上ノ居住者デハ何トモ同情ノ言葉ガナイ有様デアリマス、ソレデアリマスカラ当局者モ、何トカシテヤリタイ 云フノデ御心配ニナツテ居ルヤウデアリマスガ、一日モ速ニ此設備ガ出来マスヤウニ、本案御採択アランコトヲ切望スル次第デアリマス — 小池仁郎、(出典:『第五十一回帝国議会衆議院請願委員(第三分科)会議録(速記)第一回(第三類第四号)』(7から8頁)、1926年(大正15年)2月10日)
この小池仁郎の発言を受け衆議院議員寺田市正は本請願にかかる予算が組み込まなかった理由の説明を政府側に求めた[87]。これに対し衆議院議員川崎克は政府委員として次のように経費や維持費が多額にわたる見込みであるため大正15年度予算に組み込めなかったと述べている[87]。
○川崎政府委員 只今紹介議員ノ小池君カラ御説明ノアリマシタ如ク全ク必要ノ線デアリ、地方ニ於テハ熱烈ナル希望モアツテ、寄附金マデ集マツタト云フコトデ、政府ニ於テモ此線ハ是非計画ヲ致シタイト考ヘテ居ルノデアリマスケレドモ、大体経費ガ五万九千円程掛リマス、維持費トシテ一年ニ七千三百円程要ルノデアリマス、經費ガ五万九千円デアリマシテモ、維持費ガ七千三百円モ要ルノデアリマス関係上、寄附ハ受入レマシテモ経常費ノ支出モ関係致シマスノデ、十五年度ノ予算ニハ是ハ組込ムコトガ出來ナカツタ訳デアリマスガ、何トカシテ財政ノ都合ガ出来マスルナラバ、実現ヲ致シタイ希望ヲ持ツテ居リマス — 川崎克、(出典:『第五十一回帝国議会衆議院請願委員(第三分科)会議録(速記)第一回(第三類第四号)』(7から8頁)、1926年(大正15年)2月10日)
これに対し衆議院議員岡田伊太郎は次のように述べ、また各委員もこれに賛成し本請願は採択された[87]。
○岡田委員 斯ウ云フ離レタ場所ニ居ル同胞ノ便宜ノ為ニ、国家ハ相当ノ犠牲ヲ払ツテ行カナケレバナラヌノデアリマス、単ニ収支ニノミ重キヲ置カズ、速ニ実施セラレンコトヲ望ンデ採択シタイト思ヒマス
〔「賛成」「賛成」ト呼フ者アリ〕 — 岡田伊太郎、(出典:『第五十一回帝国議会衆議院請願委員(第三分科)会議録(速記)第一回(第三類第四号)』(7から8頁)、1926年(大正15年)2月10日)
択捉島水産会等をはじめとする択捉島内漁業関係者や有志島民は、無線電信取扱所設置の運動を1928年(昭和3年)末に開始し、約220名の人々が醵金して無線電信設備を有する局舎の整備を行う計画を立てた[83]。1929年(昭和4年)2月27日の第56回帝国議会衆議院請願委員会(第三分科)においては再び「択捉島に無線電信局設置の件」が衆議院議員木下成太郎の紹介によって呈出されたが、この際には政府としても昭和4年度から5年度にかけてこれを実施する方針であり、逓信省電務局長畠山敏行は政府委員として次のように述べた[88]。
○畠山政府委員 只今委員長カラ御話ガゴザイマシタ通リ、択捉ニ無線電信局設置ノ問題ハ、従来カラ請願若クハ建議案等デ衆議院ニ度〻出タコトガアルノデアリマス、逓信当局ニ於キマシテモ、此方面ニ無線電信ノ施設ノ必要ガアルト云フコトヲ認メマシテ、過般衆議院ヲ通過致シマシタ予算案ノ中ニ、択捉ニ無線電信局ヲ置クト云フ予算モ含メテアツタノデアリマス、即チ昭和四年度、五年度、二箇年間ノ継続費ヲ以テ要求致シマシタ電信拡張改良計画ノ中ニ、択捉ニ無線電信局設置ノ事項ヲ組込ンデアリマシテ、是ハ昭和五年度ニ於テ施行スルト云フコトニナツテ居ルモノデゴザイマス、幸ニシテ予算案ガ通過致シマスレバ、此請願ノ趣旨ガ実現サレルコトニナラウカト思フノデアリマス、是ハ現在デハ択捉ト云フ処ト、ソレカラ北海道ノ本島トノ間ニ海底線ガアリマスケレドモ、始終故障ガアリマシテ、甚ダ旨ク行キマセヌノデ、無線電信局ヲ置キタイト云フノデアル、処ガ冬ノ間ハ非常ニアノ辺ノ海ガ荒レマシテ、中〻船ノ交通ガ出来マセヌ、ソコデ択捉ト内地トノ間ハ単ニ電信ノ連絡ヲ取ツテ居リマス、其電信ガ現在デハ往々ニシテ故障ガアルノデアリマスカラ、之ヲ救フニハ無線電信ノ外途ガナイノデアリマス、幸ニシテ皆様ノ御協賛ヲ得テ衆議院ハ通過致シタノデアリマスルガ、私ハ今度ノ予算ガ貴族院ヲ通過致シマスレバ、此土地ノ方モ非常ニ結構デアリマセウシ、逓信当局トシマシテモ非常ニ喜バシイコトヽ思フノデアリマス、御参考マデニ申上ゲテ置キマス — 畠山敏行、(出典:『第五十六回帝国議会衆議院請願委員第三分科(陸軍省、海軍省及逓信省所管)会議録(速記)第三回(第三類第四号)』(4から5頁)、1929年(昭和4年)2月27日)
本請願は採択され[88]、同年4月9日に紗那郵便局の新局舎建設工事が開始された[83][47][89]。1897年(明治30年)10月1日竣工の局舎は事業の発展に伴って狭隘となり無線設備を施す余裕がなく、また所在地が窪地であったため無線通信を行うには新築移転の必要があり、島民から506坪の土地の寄附を受けて建設が進められた[85]。
新局舎の竣工と無線通信の開始
工事中は冬期における交通の杜絶や工事用品の不足に苦しんだが、新局舎は1930年(昭和5年)10月20日に竣工した[47][83][90]。設計は逓信省営繕課、監督は札幌逓信局営繕係が担当し、局舎は木造平屋建(約98坪)で他に官舎二棟を有した[47][85]。紗那郵便局は同年11月1日に落石無線電信局[91]との間に無線通信を開始し[92]、無線電報規則(明治41年逓信省令第16号)による無線電報局を定める大正14年逓信省告示第1350号中、固定局の部に紗那(呼出符号:JSH)を追加した[93]。同年11月10日には庁舎移転並に無線事務開始の式典を挙行し、官民多数参列してこれを祝した[85]。無線設備としては自立式三角型の鉄塔2基(高さ30メートル)に逆L型の空中線が4条備わり(空中線電力250ワット)、逓信省真空管式送信機とオートダイン受信機が施された[85]。この空中線鉄塔は、地元漁業関係者の寄附によって建設されたものといわれ、発受共に電報の多くが当地方における鮭、鱒及び捕鯨等の漁業に関する連絡に用いられたという[94]。無線通信が島民の生活に与えた影響は大きく、かつて択捉島に勤務した医学博士荒木治義は次のように述べている[95]。
今は発動船が根室から往復して居ると云ふが私のゐた頃は命令航路になつてゐたので、日本郵便の船が函館との間を月に三回往復してゐた。函館を出帆して五日目に紗那に着く。千噸内外の船だから、波が荒くとも航海は余りに心配はなかつた。勿論時々激しい時化を食ふことはあつて、船が港に近寄れぬなどと云ふことは度々ある。だが寧ろ恐れられるのは北海特有の濃霧の襲来だ。濃霧がやつて来ると真に一間先も見えない様な濃霧だ。ボーボーと不気味な汽笛を鳴らして進む。濃霧が薄らいで来て、島影が見ゆると真にホッとした気持になる。
夏の漁期には郵船の外には社外船の二三百噸位のが二日に一回位は入港して来る。漁夫や荷物の運搬だが、郵便物を積んで来るのが嬉しい。
今は無線電信があるから、真に夢のやうな昔語りに過ぎなくなつた。 — 荒木治義、「千島の思出」、『今月の臨床』昭和15年6月号所収(55から59頁)、1940年(昭和15年)6月号、臨床月報社
其待たるゝ郵船の定期航海も十二月になると一回限りだ。一月になると西海岸である紗那へは来ずに東海岸に一回来て帰るだけで絶航となり所謂越年生活に入る。此越年生活が又なかなか味のあるもので多くの話題を残す。斯くして五月一日函館出帆で初航海の船が四ヶ月分の手紙や新聞紙を積んで一度に持つて来る。扨て目を通して内地の報導を知るのだから面白い。尤も郵便局の技手が夜閑を盗んで内地と電線の連絡などもするがそれも重大なことでもあれば兎に角、大ていの出来事は知らない。殊に海底電線でも切れたら大変だ。明治何年かに郵税が変つて三銭になつた時、海底電線を切られた為め、島ではそれを知らずに二銭で通信してゐたと云ふ挿話もある。
また、元紗那郵便局局員川口広一の証言するところによれば、冬期において海底電信線が流氷のために切断された際には、厳冬の漁閑期とはいえ島内電信の全部が集中するために繁忙を極め、平素は発信側と受信側で電報一通毎に確認しながら送受信するところ、流し打ちで打電して業務をさばいたという[96]。元北海道鮭鱒孵化場長半田芳男は、紗那郵便局の無線設備について次のように述べている[97]。
紗那へ上陸したのが午前十時頃。曽遊の地であるから格別珍らしいこともなかったが、新築中の択捉島水産会事務所と無線電信局とは、僻遠の本島には異彩を放つ近代的建築であり入港する者の目を惹くに足るものである。 — 半田芳男、『鹹淡往来』(49頁)、1968年(昭和43年)7月、北氷協会
戦前において紗那郵便局のほか、内地において二等郵便局ないし固定電信局として無線通信を取扱った局は女島無線電信局[98]や名瀬郵便局[99]の例がある[100]。
- 紗那郵便局新局舎(昭和15年頃)
- 局舎の傍らに聳える空中線鉄塔。紗那におけるランドマーク的存在であった。
- 紗那郵便局電信室
- 紗那村の遠景。中央に紗那郵便局の無線塔が見える。
- 昭和9年頃の紗那村。中央に空中線鉄塔が見える。
- 昭和5年11月1日現在国内無線連絡系統図
- 落石無線電信局の空中線鉄塔
紗那郵便局の電気設備と島民の生活


戦前の択捉島内においては送電設備がなかったために一般に電燈が用いられず、もっぱら日常生活は石油ランプやカーバイド燈等を使用していたが、紗那郵便局は無線電信に用いるために自家発電設備を有し電燈を燈していた[101]。元島民畑慶助は次のように述べている[102]。
紗那村は島内三村の内で真中に位置し、根室港より汽船で国後海峡を経て一昼夜を要するオホーツク海に面した処です。市街は百五十位の小さな街でしたが、島第一の集落で、政経の中心地でもありました。村役場を始め、各出先機関があり、その内際立って立派なのは無線台を有した二等郵便局で、ここだけは自家発電の電燈があり、他は不自由なランプ生活でした。 — 畑慶介、「紗那の想い出」、『歴史への招待 1』所収(236から237頁)、1979年(昭和54年)12月、日本放送出版協会
島民の娯楽としてラジオ放送は人気を集めていたが、送電設備がないためにその普及率は低く、元島民村田喜代治の証言によれば「ラジオも郵便局で充電してもらうことの特権をえた一、二の家に限られていた」[103][104]。こうした状況であったため、人々は相撲実況や歌謡番組のあるときはラジオ受信機のある家庭に集まって聴取し、定期船の就航し得ない冬期においては、紗那村役場においてラジオにより聴取した時事報道や漁況を謄写版で印刷し、各地へ犬橇を用いて配布していたという[104]。
電話の開通
択捉島においては上述の通り紗那測候所と紗那郵便局の間において1905年(明治38年)2月9日に開設された電話回線や択捉水産の専用電話[105]があったものの、一般の連絡手段としては電話設備が整備されておらず、1938年(昭和13年)3月15日に貴族院議員宇野勇作は貴族院請願委員第二分科会に択捉島振興ニ関スル件を呈出し、「島内連絡並ニ本道トノ連絡ノ為、電話ノ設置」を求めている[106]。この請願は同月18日に請願委員会における採択を経て[107]、同月25日に貴族院本会議において採択された[108]。
1940年(昭和15年)7月22日、紗那郵便局は電話規則(昭和12年逓信省令第73号)による電話事務を開始した[109]。続いて1941年(昭和16年)10月16日から電話通話事務[110]、同年12月1日から電話交換事務を開始した[111]。1944年(昭和19年)時点における加入者は8件であったという[112]。
また、1944年(昭和19年)1月28日には志登郵便局及び多楽郵便局において落石無線電信局との間における無線電話業務が開始され、紗那郵便局との間にも無線電話を延長して市外回線を延長する工事が行われていたが、試験通話を行っていた段階で終戦となり、赤軍に設備を接収された[113]。
大戦と紗那郵便局
戦時下の影響
1941年(昭和16年)11月20日、海防艦国後の相良辰雄中尉が突如天寧郵便局を訪問し、海軍の命令であるとして島内における一切の通信を暫時遮断する旨を告げた[114][115]。同局長松本尚三は突然のことで困惑したが、内保郵便局と相談の上、札幌逓信局に指示を仰いだところ、同月21日から通信を遮断する旨の回答があり、同日午前0時をもって通信遮断が実施された[114]。相良辰雄中尉が紗那郵便局ではなく天寧郵便局を訪問したのは、同局が単冠湾に一番近く紗那まで行く時間の余裕がなかったからだという[114]。折しも当時は越冬用の物資の手配のために根室へ連絡を行う時期であり、理由のわからない関係者を困惑させる事態であったが、22日早朝より単冠湾には大量の軍艦が続々集結し、同月26日に真珠湾攻撃のために出撃していった[116][114]。また、戦時下には軍の要請によって無線通信のために用いられていた鉄塔は撤去され、代って木柱がその役目を任ずることとなった[117]。
北千島の占拠
千島列島においては1944年(昭和19年)春以来、米軍によって幌筵島柏原をはじめとする陸海軍設備や阿頼度島や占守島片岡における漁場および缶詰工場などが爆撃され、同地方において操業する漁民にとって脅威となっていたが、1945年(昭和20年)8月15日昼からは米機の襲来は全くみられなくなった[118]。一方、同月9日に対日宣戦を布告した赤軍は、同月14日にカムチャッカ半島ロパトカ岬の砲台より占守島を砲撃したのを嚆矢として、同月18日に同島竹田浜に上陸、戦闘を開始した(占守島の戦い)[119]。同月19日には幌筵海峡を航行中であったソ連海軍3隻に対して日本海軍第51警備隊が幌筵島潮見崎より砲撃を加えて撃退するなど、各所においてしばらく戦闘状態が継続したが、同月21日に停戦し、同月23日から24日にかけて占守島防衛にあたっていた日本陸軍第91師団主力は武装解除を受けた[120]。続いて同月26日に松輪島の独立混成第41聯隊、同月31日に得撫島の独立混成第129旅団がそれぞれ武装解除された[121]。
- 幌筵島柏原の漁民季節聚落
- 幌筵島村上湾における漁業関連施設
- 占守島片岡における開鱈乾燥作業
- 占守島における別所佐吉とその漁舎
- 阿頼度島の漁舎
択捉島への上陸と紗那郵便局の接収
択捉島においてはソ連軍はまず1945年(昭和20年)8月28日に択捉郡留別村ウエンシリ岬附近及び留別川北方イチマス漁場附近に上陸し、同村市街地所在の留別郵便局を占拠して通信設備を破壊した[122]。この際には留別郵便局長三上一郎から紗那郵便局及び天寧郵便局へ赤軍上陸の旨が電話で連絡されている[123]。同月29日からは日本陸軍第89師団主力の武装解除も開始された[121]。一方で紗那方面に赤軍が上陸したのは9月3日のことであった[124]。このときはわずか6名の小部隊による状況視察であったが[124]、同月11日午後3時50分に至って紗那郵便局は接収され、内地との連絡は全く杜絶した[117]。紗那郵便局職員は同日午後4時に最後の無線連絡を落石無線電信局との間に試みたものの、折悪しく同局は札幌との通信中であったため、連絡がとれないままの接収となった[117]。同年10月30日に紗那郵便局は解散し、日本側による紗那郵便局運営は終了した[117][125]。根室と紗那を結んでいた海底電信線は、赤化工作に使用される虞があるとして根室側の陸揚点において切断され、海中に投棄された[126]。
占領下における紗那郵便局

赤軍による占領以来、択捉島においては軍政が敷かれていたが、1946年(昭和21年)2月頃より民政に移行して、紗那には地方民政局が置かれた[127]。この民政移管と共に紗那には再びソ連政府によって郵便局が設置された[127]。この郵便局は当初ソ連人にのみ利用が認められ、日本人の利用は認められなかったが、1947年(昭和22年)末の日本人引揚開始後から一般通信のために開放された[127]。ただし、日本人の利用が認められたということはあまり周知がなされず、ほとんどの島民は利用せずにいたという[127]。その後も旧紗那郵便局の局舎はソ連ないしロシアの郵便局として長く用いられた[128]。北海道新聞社の1994年(平成6年)頃の報告によれば、紗那郵便局には電話局が併設され、樺太から定期連絡船が運航する時季には日本からの手紙が2、3週間程度で届いたという[129]。1990年(平成2年)に紗那を訪れた真鍋繁樹は、次のようにソ連占領下における旧紗那郵便局局舎の様子を報告している[130]。
レーニン広場から、街のメーンストリートであるソビエツカヤ大通りの交差点まで出る間に、右側に木造の郵便局があった。
日本時代から郵便局だったというその建物は、いまも郵便局として使われている。
同行していた地元の地域行政委員会のロシア人は、そういって苦笑した。 — 真鍋繁樹、『戦後初めて明かされた四島の素顔 北方四島を行く』(39から40頁)、1991年(平成3年)1月、評伝社
(中略)
郵便局をカメラにおさめながら、改めて日本人の知恵に感心した。
日本人が建てた建物は、外側の板の張り方が、ロシア人とは違う。
ロシア人の建てた建物は、ただ板と板をきちんとそろえて張るだけだが、日本人の建てた建物は、板の端を次の板の端に少しずつ重ねながら張っていく。
こうすれば、張り合わせた板のスキ間から、雨や風が入りこまないからである。
「だから、日本人の建てた建物はすぐにわかるんです。実に日本人というのは、細かいところにも、気を使うのに感心しました。そんな細かい神経をわれわれロシア人も持っていれば、もっと経済的に違ってきたのかもしれません」
その後、旧紗那郵便局局舎は老朽化のため、解体計画が進んでいたが、2004年(平成16年)8月に択捉島へ訪問した日本のビザなし交流団がクリル管区行政府長イーゴリー・カルプマン(Игорь Иосифович Карпман)へその中止を求めたところ、カルプマンは修復と保存のための資金援助がなされるならば、建物の所有権も日本側へ引渡してもよいと回答した[131][132]。これを受けて日本側では2005年(平成17年)7月1日に元衆議院議員塩川正十郎を会長として「北方領土の日本家屋保存友好委員会」なる民間団体を発足させ[133]、2007年(平成19年)9月3日に同団体はクリル地区行政府へ保存作業を進めるための覚書を提出した[134]。また、2005年(平成17年)8月22日には日本郵政公社が旧紗那郵便局の局舎を意匠とした80円郵便切手を発行している[135]。しかし、旧紗那郵便局局舎はロシアが郵便局としての利用を終了した2006年(平成18年)から空家となり、2007年(平成19年)に壁板が何者かに持ち去られたこともあって、「跡形もなくなりそう」な状態になっていた[136]。2011年(平成23年)8月の県民会議主体の船によるビザなし交流の際にも旧紗那郵便局保存についてロシア側関係者は前向きな姿勢を見せたものの[137]、その後の進展はなく、2014年(平成26年)には老朽化が進行して「建物も朽ち、ほとんど骨組みだけ」の状態であった[138]。そして交渉もむなしく、旧紗那郵便局局舎は2015年(平成27年)6月9日に解体工事を完了してその姿を消した[139]。
年表
- 1885年(明治18年)2月1日 - 振別郡振別村に五等郵便局として振別郵便局を設置する[17]。
- 1886年(明治19年)
- 1891年(明治24年)7月16日 - 郵便為替及び郵便貯金事務の取扱を開始する[26]。ただし小為替振出事務は取扱わない[26]。
- 1892年(明治25年)2月1日 - 小為替振出事務の取扱を開始する[27]。
- 1896年(明治29年)7月1日 - 小包郵便の取扱を開始する[28]。
- 1897年(明治30年)
- 1902年(明治35年)
- 1903年(明治36年)
- 1904年(明治37年)4月6日 - 郵便局経費渡切規則施行細則(明治37年逓信省令第30号)を定め[143]、紗那郵便局は郵便局経費渡切規則施行細則第1条各号に掲げる経費、すなわち器具器械費、式紙帳簿雑品費、図書購入費、薪炭費、点燈費、通信運搬費、傭人費、賄費及び諸雑費の交附を受ける局となる[144]。
- 1905年(明治38年)
- 1907年(明治40年)4月1日 - 通信官署経費渡切規則施行細則(明治38年逓信省令第30号)を全部改正し、通信官署経費渡切規則施行細則(明治40年逓信省令第14号)を公布する[148]。紗那郵便局は通信官署経費渡切規則施行細則第1条第1号ないし第7号及び第11号ないし第13号に掲げる経費、すなわち器具器械費、式紙帳簿雑品費、図書購買費、薪炭費、点燈費、通信運搬費、傭人料、船舶車輛費、賄費及び諸雑費の交附を受ける局となる[149]。
- 1916年(大正5年)10月1日 - 簡易生命保険の取扱を開始する[29]。
- 1920年(大正9年)4月1日 - 明治40年逓信省告示第223号を改正し、紗那郵便局は郵便、電信及電話官署經費渡切規則施行細則第1条第1号ないし第3号、第6号、第7号及び第12号ないし第13号に掲げる経費、すなわち器具器械費、式紙帳簿雑品費、図書購買費、通信運搬費、傭人料、賄費及び諸雑費の交附を受ける局となる[150]。
- 1926年(大正15年)10月1日 - 郵便年金の取扱を開始する[30]。
- 1930年(昭和5年)
- 1940年(昭和15年)7月22日 - 電話規則(昭和12年逓信省令第73号)による電話事務を開始する[109]。
- 1941年(昭和16年)
- 1945年(昭和20年)
- 2015年(平成27年)6月9日 - 局舎が解体される[154][155]。
組織

1902年(明治35年)9月1日時点の『逓信省職員録』によれば、紗那郵便局には郵便掛、電信掛及び会計掛の3掛が置かれ、各掛には掛長を置いてその事務を管理することとなっていた[156]。また、郵便掛の下には庶務部、発着部及び為替貯金部、電信掛の下には通信部及び受配部、会計掛の下には主計部及び用度部が置かれ、事務の分掌を図っていた[156]。この時点においては局長木村祐治のほか、郵便掛には掛長仲田常次郎含め4名、電信掛には掛長齋藤孫一含め4名、会計掛には掛長羽坂勇吉含め2名が勤務していた[156]。
『昭和四年九月現在 逓信省職員録』によれば、この時点における紗那郵便局の官吏定員は通信書記が1名、通信書記補が6名であり、実際には局長木村坦三郎のほか、通信書記中山仁兵衛と通信書記補5名の官吏が勤務していた[157]。また、1930年(昭和5年)に発行された『逓信六十年史』によれば、紗那郵便局には官吏7名に加え、傭人が8名勤務していたという[158]。
振別郵便局時代からの歴代局長は次の通りであった[159][160][161][162][163][164][165][166][167][168]。
- 初代 - 久慈誠記
- 2代 - 栖原角兵衛
- 3代 - 金丸和吉
- 4代 - 深野一友
- 5代 - 木村祐治
- 6代 - 犬塚均太郎
- 7代 - 齋藤孫一(局長心得)
- 8代 - 中内強鹿
- 9代 - 木村坦三郎
- 10代 - 橋本豊五郎
- 11代 - 今熊金太郎
- 12代 - 伊藤末次郎
- 13代 - 田中源治
- 14代 - 池田軍平
紗那郵便局官吏の地域手当制度
根室紗那間の電信線設備の工事が進められていた1897年(明治30年)5月28日、逓信大臣野村靖は千嶋国国後嶋、同国択捉嶋、大隅国大嶋、琉球国八重山嶋ニ設置スル二等郵便及電信局職員月手当ノ件について閣議請議を行った[169]。その趣旨は次の通りであり、工事竣成後に設置されるべき二等郵便電信局の職員に地域手当の支給を求めるものであった[169]。
千嶋国国後嶋択捉ノ二嶋及大嶋台湾間海底線布設中ニ有之其工事竣工ノ上ハ国後嶋泊村、択捉嶋紗那、大島久慈、八重山島石垣四ヶ村等ヘ二等郵便及電信局設置ノ見込ニ候処該地ハ辺陬ノ孤嶋ニシテ交通ノ便ヲ欠キ諸物価高貴ヲ極メ在勤官吏ノ生計甚タ困難ナルヘキニ依リ特ニ月手当金給与相成度茲ニ勅令按ヲ具シ閣議ヲ請フ
明治三十年五月二十八日
逓信大臣子爵 野村 靖(印) — 「公文類聚」、(出典:郵政省編、『郵政百年史資料 第七巻』(99から100頁)、1970年(昭和45年)3月、吉川弘文館)
本件は同年6月11日に閣議決定され、同年8月3日に千島国後島、同国択捉島、大隅国大島、琉球国八重山島ニ設置スル二等郵便及電信局職員月手当ノ件(明治30年勅令第250号)が公布された[169][170]。同勅令により当該地域に赴任する局長は30円以内、郵便電信書記は20円以内、郵便電信書記補は12円以内で月手当を支給することとなった[170]。また、その給与細則についても在外国本邦郵便電信局長郵便局長以下局員月手当金給与細則(明治24年逓信省令第7号)によると定められ、内地に設置する郵便電信局及び郵便局とは異なる取扱を行うこととなった[171][172]。
その後、1901年(明治34年)4月4日に在外国郵便及電信局官吏手当給与細則(明治34年逓信省令第19号)と千島国国後島、同国択捉島、大隅国大島、琉球国八重山島ニ設置スル二等郵便及電信局職員在勤月手当給与細則(明治34年逓信省令第20号)が公布され、同年3月31日分から適用されることとなった[173][174]。両細則は、1909年(明治42年)9月1日に船舶内ニ設置シタル通信官署ニ在勤スル職員ニ手当給与ノ件(明治42年勅令第215号)及び交通至難ノ場所ニ設置シタル通信官署ニ在勤スル職員ニ手当給与ノ件(明治42年勅令第216号)が定められ[175]、根拠法令である千島国後島、同国択捉島、大隅国大島、琉球国八重山島ニ設置スル二等郵便及電信局職員月手当ノ件(明治30年勅令第250号)が廃止されたため[176]、船舶内及交通至難ノ場所ニ設置シタル通信官署職員手当給与細則(明治42年逓信省令第39号)により廃止された[177]。紗那郵便局は交通困難地の二等地に指定され、局長は17円、通信属通信技手は12円、通信手は8円、雇員は3円の手当が支給された[172]。
1920年(大正9年)9月16日、交通至難ノ場所ニ在勤スル職員ニ手当給与ノ件(大正9年勅令第405号)が公布され、同年8月分より実施されることとなった[178]。逓信省においては同勅令に基づき交通至難ノ場所在勤職員月手当給与給与規程(大正10年逓信省公達第760号)によって紗那郵便局を含む交通困難地在勤職員の給与を定めることなり、1921年(大正10年)9月1日に船舶内及交通至難ノ場所ニ設置シタル通信官署職員手当給与細則(明治42年逓信省令第39号)は廃止された[179][172]。本規程に基づく紗那郵便局職員の手当は、1940年(昭和15年)時点においては局長25円、書記及び技手20円、書記補及び逓信手15円、雇員10円であった[172]。
こうした特別手当の制度は今次大戦の終結まで継続されたが、交通至難ノ場所ニ在勤スル職員ニ手当給与ノ件(大正9年勅令第405号)は、1948年(昭和23年)10月15日に政府職員の特殊勤務手当に関する政令(昭和23年政令第323号)により廃止された[180][181]。
郵便局経費渡切制度と紗那郵便局
1903年(明治36年)3月20日、郵便局経費渡切規則(明治36年勅令第44号)を定め、郵便局における渡切費の制度が創設された[182][183]。本勅令は明治36年度予算から施行するものとされたが、翌1904年(明治37年)4月6日に郵便局経費渡切規則施行細則(明治37年逓信省令第30号)が公布され[184]、また明治37年逓信省告示第254号により郵便局経費渡切規則及び郵便局経費渡切規則施行細則に基づき渡切費を交付する郵便局とその種類等が示された[144][185]。紗那郵便局は郵便局経費渡切規則施行細則第1条各号に掲げる経費、すなわち器具器械費、式紙帳簿雑品費、図書購入費、薪炭費、点燈費、通信運搬費、傭人費、賄費及び諸雑費の交附を受ける局となった[144]。
1905年(明治38年)3月22日、新たに通信官署経費渡切規則(明治38年勅令第62号)が公布され、明治38年度予算からこれを施行することとなった[145]。逓信省は同年4月4日、通信官署経費渡切規則施行細則(明治38年逓信省令第30号)を定め[146]、また明治38年逓信省告示第174号により通信官署経費渡切規則及び通信官署経費渡切規則施行細則に基づき渡切費を交付する郵便局とその種類等を示した[147]。紗那郵便局は通信官署経費渡切規則施行細則第1条第1号ないし第7号及び第11号ないし第13号に掲げる経費、すなわち器具器械費、式紙帳簿雑品費、図書購買費、薪炭費、点燈費、通信運搬費、傭人費、船舶車輛費、賄費及び諸雑費の交附を受ける局となった[147]。
1907年(明治40年)4月1日、通信官署経費渡切規則施行細則(明治38年逓信省令第30号)を全部改正し、通信官署経費渡切規則施行細則(明治40年逓信省令第14号)を公布したが、傭人費を傭人料と改めたほかは紗那郵便局に交附する経費の種別に変更はなかった[148][149]。その後、1913年(大正2年)6月13日に通信官署経費渡切規則は郵便、電信及電話官署経費渡切規則、通信官署経費渡切規則施行細則は郵便、電信及電話官署経費渡切規則施行細則と改称され[186][187]、1920年(大正9年)4月1日に明治40年逓信省告示第223号を改正し、紗那郵便局は郵便、電信及電話官署經費渡切規則施行細則第1条第1号ないし第3号、第6号、第7号及び第12号ないし第13号に掲げる経費、すなわち器具器械費、式紙帳簿雑品費、図書購買費、通信運搬費、傭人料、賄費及び諸雑費の交附を受ける局と改められた[150]。また、1930年(昭和5年)7月1日の改正によって紗那郵便局は郵便、電信及電話官署經費渡切規則施行細則第1条第1項第1号、第2号、第6号、第12号及び第13号に掲げる経費、すなわち器具器械費、図書購買費、通信運搬費、賄費及び諸雑費の交附を受ける局となった[151]。
1941年(昭和16年)7月1日、郵便、電信及電話官署經費渡切規則施行細則[188]及び明治40年逓信省告示第223号は廃止され[189][190]、以降は普通郵便局、電信局及電話局渡切経費施行規程(昭和16年逓信省公達第487号)及び特定郵便局等渡切経費施行規程(昭和16年逓信省公達第488号)により逓信官署の渡切経費を規定することとなった[191]。普通郵便局たる紗那郵便局は普通郵便局、電信局及電話局渡切経費施行規程別表第1号においてその渡切経費が規定された[191]。
利用状況
『根室要覧』によれば紗那郵便局の利用状況は次の通りであった[159]。
| 年度 | 郵便引受 | 郵便配達 | 小包引受 | 小包配達 | 電信発信 | 電信受信 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1909年(明治42年) | 31300 | 67633 | 2558 | 2915 | 6613 | 5505 |
| 1910年(明治43年) | 33010 | 59135 | 2104 | 3408 | 6290 | 5371 |
| 年度 | 為替振出 | 為替払渡 | 貯金預入 | 貯金払戻 |
|---|---|---|---|---|
| 1909年(明治42年) | 40684円 | 46768円 | 16505円 | 12185円 |
| 1910年(明治43年) | 36329円 | 39003円 | 15298円 | 12435円 |
| 1911年(明治44年) | 38610円 | 72851円 | 17886円 | 17030円 |
紗那郵便局局長木村坦三郎の『逓信協会雑誌』上の報告によれば、1926年(大正15年・昭和元年)から1928年(昭和3年)度にかけての紗那郵便局における利用状況は次の通りであった[61]。
| 年度 | 郵便引受 | 郵便配達 | 小包引受 | 小包配達 |
|---|---|---|---|---|
| 1926年(昭和元年) | 39716 | 50867 | 3572 | 5000 |
| 1927年(昭和2年) | 41783 | 88433 | 3274 | 5009 |
| 1928年(昭和3年) | 49247 | 102594 | 3317 | 5622 |
| 年度 | 発信 | 着信 | 中継 |
|---|---|---|---|
| 1926年(昭和元年) | 8233 | 8322 | 15910 |
| 1927年(昭和2年) | 9690 | 9764 | 16150 |
| 1928年(昭和3年) | 11640 | 11311 | 17570 |
| 年度 | 為替振出 | 為替払出 | 貯金預入 | 貯金払戻 |
|---|---|---|---|---|
| 1926年(昭和元年) | 122,698円 | 165,035円 | 48,371円 | 53,763円 |
| 1927年(昭和2年) | 112,818円 | 153,508円 | 61,784円 | 52,574円 |
| 1928年(昭和3年) | 173,083円 | 232,231円 | 60,168円 | 34,595円 |
| 年度 | 保険申込 | 保険受持合計数 | 年金申込 | 年金受持合計数 |
|---|---|---|---|---|
| 1926年(昭和元年) | 14 | 218 | 3 | 3 |
| 1927年(昭和2年) | 92 | 275 | 3 | 3 |
| 1928年(昭和3年) | 62 | 316 | 0 | 6 |
特色ある業務風景
冬期の逓送

冬期には択捉島はオホーツク海側は流氷によって全く閉ざされるが、太平洋側は航行が可能であり、月に一度単冠湾の年萌港に貨客船が来航するので、ここから年萌郵便局の職員が馬橇により結氷した年萌湖を経由して留別まで郵便物を配送し、その後各所に逓送されていた[192][193]。留別から紗那へは約30キロメートルの距離があり、途中には標高500メートルの峠を擁するため、馬橇によって運搬することはできず、厳寒の中を全部人力によって配送するほかなかった[192][193]。一方で冬期には漁に出られない紗那の人々にとってこの郵便物逓送の任務は貴重な現金収入ともなっていた[192][193]。択捉島では犬が多く飼育されていたが、この犬たちも人々と共に郵便物を負って働いた[194][192][193]。こうして紗那まで届けられた郵便物は、紗那の分を残して再び別飛や蘂取までリレー形式で送られていったが、年萌港に到着してから蘂取に届くまではおよそ2週間の時間を要したという[192][193]。
馬による電報配達

紗那郵便局の電報普通配達区域には紗那からすこし離れた有萌や内岡が含まれ、その区域はかなり広範であった[195]。またこの地方の道路は砂地であり、紗那から有萌へ向かう途中には砂丘があったので、自転車による配達は困難であった[195]。そのため紗那郵便局においては電報配達には馬が使用されていた[195]。
郵便為替の繁忙期
紗那郵便局においては4月以降の越冬用物資の代金を支払う時期と8月の盆に出稼ぎの漁民が内地へ送金する時期に郵便為替や電信為替がさかんに利用された[196]。5月に入ると越冬用物資の支払いの督促が電報で大量に送られてくるため、職員は昼夜兼行で送受にあたったという[196]。出稼ぎの漁民は仙台と富山県から来た者が多く、この時期の打電先もこの地方からのものが多くを占めていた[196]。
脚注
- ↑ 『北方領土物語』1979年。doi:10.11501/9490790。2026年7月8日閲覧。
- ↑ 『東北海道の林業 : 100年の回顧と展望』1969年。doi:10.11501/12010041。2026年7月8日閲覧。
- 1 2 3 『われらの北方四島 : 元島民が語る 行政編』1990年。doi:10.11501/13135971。2026年7月8日閲覧。
- ↑ 『われらの北方四島 : 元島民が語る 行政編』1990年。doi:10.11501/13135971。2026年7月8日閲覧。
- 1 2 3 “ロシア、紗那郵便局解体 北方領土・択捉島 「日本の証し」また消失”. 北海道新聞. 2015年6月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年7月8日閲覧。
- ↑ 『目で見る北方四島の実像』1996年。doi:10.11501/12750603。2026年7月8日閲覧。
- ↑ “「ビザなし訪問」で見た北方領土 写真特集:時事ドットコム”. 時事ドットコム. 2026年7月8日閲覧。
- ↑ “択捉島 ビザなし訪問 写真特集:時事ドットコム”. 時事ドットコム. 2026年7月8日閲覧。
- ↑ “北方領土に行ってみた(1)(小泉悠) - エキスパート”. Yahoo!ニュース. 2026年7月8日閲覧。
- ↑ 『国際情勢 : 紀要 (75);2005・2』2005年2月。doi:10.11501/11630839。2026年7月8日閲覧。
- ↑ 明治11年太政官布告第17号(『法令全書 明治十一年』(11から12頁)、1890年(明治23年)9月、内閣官報局)
- ↑ 明治12年開拓使布達乙第4号(『現行 類聚法規第三編 上』(283から308頁)、1881年(明治14年)7月、司法省)
- ↑ 福井貞治、「北海道立文書館の史料について」、『郵便史研究』第10号所収(31から37頁)、2000年(平成12年)9月、郵便史研究会
- ↑ 北海道庁編、『新撰 北海道史 第七巻』(い24頁)、1937年(昭和12年)11月、北海道庁
- 1 2 山下精一、「千島・色丹および歯舞諸島の郵便史」、『郵趣手帖』第15号所収(19から40頁)、1961年(昭和36年)3月、郵趣手帖社
- ↑ 本城玉藻編、『根室千島両国郷土史』(227頁)、1933年(昭和8年)5月、本城寺
- 1 2 駅逓局広告、『官報』(16頁)、1885年(明治18年)1月14日
- ↑ 山口修監修、『全国郵便局沿革録 明治篇』(15頁)、1980年(昭和55年)12月、日本郵趣出版
- ↑ 札幌郵便電信局編、『北海道郵便電信沿革誌稿』(107頁)、1896年(明治29年)5月、札幌郵便電信局
- 1 2 明治19年逓信省令第8号(『官報』本号及び附録、1886年(明治19年)4月26日)
- 1 2 明治19年逓信省告示第43号(『官報』、1886年(明治19年)5月17日)
- 1 2 根室県公告(『官報』(20頁)、1885年(明治18年)11月27日)
- ↑ 『官報』(98頁)、1886年(明治19年)8月11日
- ↑ 多羅尾忠郎、『千島探検実紀』(15から16頁)、1893年(明治26年)7月、鹿田書店。引用文中「トキ」とある箇所は、原文においては合略仮名のトキを用いる。
- 1 2 明治19年逓信省告示第103号(『官報』、1886年(明治19年)11月25日)
- 1 2 3 明治24年逓信省告示第144号(『官報』、1891年(明治24年)6月30日)
- 1 2 明治25年逓信省告示第5号(『官報』、1892年(明治25年)1月9日)
- 1 2 明治29年逓信省告示第112号(『官報』、1896年(明治29年)5月23日)
- 1 2 簡易生命保険法(大正5年法律第42号)は、簡易生命保険法及簡易生命保険特別会計法施行期日ノ件(大正5年勅令第205号)により1916年(大正5年)10月1日より施行された(『官報』、1916年(大正5年)8月18日)。なお簡易生命保険規則(大正5年逓信省令第46号)第1条は「簡易生命保険ハ郵便官署ニ於テ之ヲ取扱フ」ものと規定しており、同条但書の「特ニ之ヲ取扱ハサルコトヲ告示シタル郵便官署」は、大正5年逓信省告示第775号によれば「在支那各郵便局所」、「船舶内ニ設置シタル郵便局」及び「期節ニ依リ開設スル郵便局」の三種であって、郵便物集配事務を行わない郵便局と代金引換郵便物の居宅引換等の取扱をしない地域を有する集配局にあっては、その取扱事務範囲に一定の制限を有するものの、逓信省所管郵便局は基本的には同日より一様にその取扱を開始した(簡易保険局編、『簡易生命保険郵便年金事業史』(221頁)、1936年(昭和11年)10月、簡易保険局)。後に大正5年逓信省告示第775号は廃止され、1926年(大正15年)9月30日より簡易生命保険を取扱わない郵便官署は、在支郵便局所の撤廃と郵便取扱所(大正15年逓信省令第39号)制度開始に伴い、船舶内設置郵便局、為替貯金事務を取扱わない郵便局、期節に依り開設する郵便局及び郵便取扱所の四種が規定された(大正15年逓信省告示第1860号)。1940年(昭和15年)12月1日には郵便取扱所制度の廃止により、大正15年逓信省告示第1860号を改正し、郵便取扱所の規定を削除した(昭和15年逓信省・厚生省告示第1号)。
- 1 2 郵便年金法(大正15年法律第39号)は、大正15年勅令第280号により1926年(大正15年)10月1日に施行された(『官報』、1926年(大正15年)8月10日)。なお郵便年金規則(大正15年逓信省令第27号)第1条は「郵便年金ハ郵便官署ニ於テ之ヲ取扱フ」ものと規定しており、同条但書の「特ニ之ヲ取扱ハサルコトヲ告示シタル郵便官署」は、大正15年逓信省告示第1846号によれば、「船舶内ニ設置シタル郵便局」、「為替貯金事務ヲ取扱ハサル郵便局」、「期節ニ依リ開設スル郵便局」及び郵便取扱所の四種であった(『官報』、1926年(大正15年)9月29日)。後に大正15年逓信省告示第1846号は廃止され、昭和4年逓信省告示第2663号により同様に上記の四種の局において郵便年金事務を取扱わないものとした(『官報』、1929年(昭和4年)10月1日)。また、郵便取扱所制度の廃止に伴い、1940年(昭和15年)12月1日に昭和4年逓信省告示第2663号を改正し、郵便取扱所の規定を削除した(昭和15年逓信省・厚生省告示第2号)
- ↑ 井上毅、「北海道意見」、『井上毅伝 史料篇第二』所収(567頁)、1968年(昭和43年)3月、國學院大學図書館
- ↑ 太田代十郎は請願に先立って逓信省に電信線架設を直訴したが色よい返事は得られていなかった、『東京朝日新聞』(同紙朝刊1面、1893年(明治26年)10月10日)曰く、「千島国紗那郡留別村太田代十郎氏は千島諸島の交通不便にして天然の富源を埋没するを嘆き昨日逓信省に出頭して田郵務局長及び小松参事官に面会し電線架設及び冬期航海等の必要を縷陳したるに郵務局長は既に政府にても此辺に着目し夫々取調たるも大約経費三十万円を要する事業にもあり且他に差掛りたる緊急事業ありて本年の議会には提出し能はざるも尚調査の上早晩実行する見込なり云々と答へたりといふ」。」
- ↑ 『第五回帝国議会貴族院議事速記録第九号』(152頁、1896年(明治29年)12月16日)
- 1 2 『第六回帝国議会貴族院議事速記録十六号』(272頁、1894年(明治27年)6月2日)
- ↑ 札幌電信建築署は1891年(明治24年)8月16日に電信建築署官制(明治24年勅令第151号)により北海道一円を管轄する電信建築署として設置された(『官報』号外、1891年(明治24年)7月27日)
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 日本電信電話公社北海道電気通信局編、『北海道の電信電話史』(42から43頁)、1964年(昭和39年)10月、電気通信共済会北海道支部
- 1 2 3 日本電信電話公社総裁室文書課編、『外地海外電気通信史資料 千島・樺太・沖縄・小笠原の部 1』(4から5頁)、1956年(昭和31年)3月、日本電信電話公社
- ↑ 明治二十九年度歳入歳出総予算並明治二十九年度各特別会計歳入歳出予算(『官報』、1896年(明治29年)3月14日)
- ↑ ほかに明治29年逓信省公達第140号においては「電信電話工夫看守見習規則第四十条ノ靴草鞋料ハ北海道千島国国後及択捉両郡ニ於テハ特ニ一箇月金四十五銭ヲ給与ス」と定められている(『逓信公報令達類篇 第十』(323頁)、1897年(明治30年)7月、逓信省)
- ↑ 明治30年逓信省告示第261号(『官報』、1897年(明治30年)9月16日)
- ↑ 明治30年逓信省告示第262号(『官報』、1897年(明治30年)9月16日)
- ↑ 『東京朝日新聞』(朝刊6面、1897年(明治30年)6月5日)
- 1 2 3 4 明治30年逓信省告示第247号(『官報』、1897年(明治30年)9月11日)
- ↑ 明治30年逓信省告示第248号(『官報』、1897年(明治30年)9月11日)
- ↑ 明治30年逓信省告示第319号(『官報』、1897年(明治30年)10月29日)
- 1 2 3 4 5 6 7 8 日本電信電話公社北海道電気通信局編、『北海道の電信電話史』(44から45頁)、1964年(昭和39年)10月、電気通信共済会北海道支部
- 1 2 3 4 5 逓信省編、『逓信事業史 第七巻』(866頁)、1940年(昭和15年)9月、逓信協会
- ↑ 『官報』(272頁)、1897年(明治30年)5月21日
- ↑ 天寧郵便局は1937年(昭和12年)12月16日に択捉郡留別村大字振別村字天寧において開業した(昭和12年逓信省告示第3913号)
- ↑ 北方ライブラリー製作委員会編、『元島民が語る われらの北方四島 行政編』(200頁)、1990年(平成2年)3月、千島歯舞諸島居住者連盟
- ↑ 青木武、『改訂 解説電気工事』(220から221頁)、1942年(昭和17年)6月、コロナ社
- ↑ 高倉新一郎監修、『根室市史 下巻』(766頁)、1968年(昭和43年)7月、根室市
- ↑ 明治32年逓信省告示第298号(『官報』、1899年(明治32年)10月25日)
- ↑ 明治34年逓信省告示第12号(『官報』、1901年(明治34年)1月14日)
- ↑ その後紗那測候所は1938年(昭和13年)10月1日より中央気象台紗那測候所へ改組された(昭和13年文部省令第21号並びに昭和13年文部省告示第323号及び325号)。1939年(昭和14年)11月1日に再び名称を紗那測候所と改め(昭和14年文部省令第51号)、1946年(昭和21年)11月13日にこれを廃止した(昭和21年運輸省令第40号)。
- ↑ 『官報』(283頁)、1902年(明治35年)8月19日
- 1 2 札幌管区気象台、「札幌気象百年史」、『測候時報』第43巻第3-5号所収(165頁)、1976年(昭和51年)7月、気象庁
- ↑ 根室市史編さん委員室編、『根室市史 年表編』(110頁)、1988年(昭和63年)3月、根室市
- ↑ 明治21年逓信省告示第39号(『官報』、1888年(明治21年)3月10日)
- ↑ 明治24年逓信省告示第82号(『官報』、1891年(明治24年)3月27日)
- 1 2 木村可須美、「北国の夏」、『逓信協会雑誌』第264号所収(40から43頁)、1930年(昭和5年)8月、逓信協会
- 1 2 明治35年逓信省公達第642号(『逓信公報令達類編 第十六ノ下』(527から528頁)、1903年(明治36年)4月、逓信省
- 1 2 明治36年勅令第40号(『官報』、1903年(明治36年)3月20日)
- 1 2 昭和16年勅令第95号及び昭和16年逓信省告示第207号(『官報』、1941年(昭和16年)1月28日、内閣印刷局)
- 1 2 郵政省編、『続逓信事業史 第三巻』(38から40頁)、1960年(昭和35年)12月、前島会
- ↑ 明治19年逓信省公達第36号(駅逓局第一部庶務課編、『現行駅逓法令類聚 下編』(147から148頁)、1886年(明治19年)10月、駅逓局)
- ↑ 明治26年逓信省公達第396号(『逓信公報令達類篇 第七』(567から568頁)、1894年(明治27年)3月、逓信省)
- ↑ 明治31年逓信省公達第422号(『逓信公報令達類篇 第十二』(675頁)、1899年(明治32年)6月、逓信省)
- ↑ 明治31年勅令第140号(『官報』、1898年(明治31年)7月14日)
- ↑ 明治32年勅令第50号(『官報』、1899年(明治32年)3月11日)
- ↑ 明治32年逓信省令第11号(『官報』、1899年(明治32年)3月25日)
- ↑ 明治32年逓信省告示第98号(『官報』、1899年(明治32年)3月25日)
- ↑ 明治32年逓信省公達第136号(『逓信公報令達類篇 第十三』(682頁)、1900年(明治33年)6月、逓信省)
- ↑ 明治32年逓信省公達第259号(『逓信公報令達類篇 第十三』(853頁)、1900年(明治33年)6月、逓信省)
- ↑ 明治36年逓信省公達第473号及び第474号(『逓信公報令達類篇 第十七ノ上』(954から955頁)、1903年(明治36年)12月、逓信省)
- 1 2 明治36年逓信省公達第841号(『逓信公報令達類篇 第十七ノ下』(390から391頁)、1904年(明治37年)3月、逓信省)
- ↑ 明治29年逓信省公達第251号(『逓信公報令達類篇 第十』(397から404頁)、1897年(明治30年)7月、逓信省)
- ↑ 日本電信電話公社北海道電気通信局編、『北海道の電信電話史』(67から68頁)、1964年(昭和39年)10月、電気通信共済会北海道支部
- ↑ 北海道教育研究所編、『北海道教育史 全道編 四』(90頁)、1964年(昭和39年)3月、北海道教育委員会
- 1 2 日本電信電話公社北海道電気通信局編、『北海道の電信電話史』(148から150頁)、1964年(昭和39年)10月、電気通信共済会北海道支部
- ↑ 北海道教育研究所編、『北海道教育史 全道編 四』(198から199頁)、1964年(昭和39年)3月、北海道教育委員会
- ↑ 石野栄次郎、『潮騒の択捉―島を返せ―』(92から93頁)、1977年(昭和52年)10月、楡書房
- 1 2 3 4 5 日本電信電話公社総裁室文書課編、『外地海外電気通信史資料 千島・樺太・沖縄・小笠原の部 1』(11頁)、1956年(昭和31年)3月、日本電信電話公社
- ↑ 北方ライブラリー製作委員会編、『元島民が語る われらの北方四島 行政編』(201頁)、1990年(平成2年)3月、千島歯舞諸島居住者連盟
- 1 2 3 4 5 6 木村可須美、「局たより 紗那郵便局 無線電信併置新築落成に就て」、『逓信協会雑誌』第270号所収(110から111頁)、1931年(昭和6年)2月、逓信協会
- 1 2 『第五十回帝国議会衆議院請願委員会議録(速記)第十一回(第四類第一号)』(9頁)、1925年(大正14年)3月19日
- 1 2 3 4 『第五十一回帝国議会衆議院請願委員(第三分科)会議録(速記)第一回(第三類第四号)』(7から8頁)、1926年(大正15年)2月10日
- 1 2 『第五十六回帝国議会衆議院請願委員第三分科(陸軍省、海軍省及逓信省所管)会議録(速記)第三回(第三類第四号)』(4から5頁)、1929年(昭和4年)2月27日
- ↑ 起工日を同年4月30日とする文献もある(木村可須美、「局たより 紗那郵便局 無線電信併置新築落成に就て」、『逓信協会雑誌』第270号所収(110から111頁)、1931年(昭和6年)2月、逓信協会)。
- ↑ 竣工日を同年10月31日とする文献もある(木村可須美、「局たより 紗那郵便局 無線電信併置新築落成に就て」、『逓信協会雑誌』第270号所収(110から111頁)、1931年(昭和6年)2月、逓信協会)。
- 1 2 落石無線電信局は北海道根室郡和田村大字落石村に1908年(明治41年)12月26日に開設された(明治41年逓信省告示第1411号)
- 1 2 電波監理委員会編、『日本無線史 第四巻』(56頁)、1951年(昭和26年)9月、電波監理委員会
- 1 2 昭和5年逓信省告示第2521号(『官報』、1930年(昭和5年)10月30日)
- ↑ 北方ライブラリー製作委員会編、『元島民が語る われらの北方四島 行政編』(193頁)、1990年(平成2年)3月、千島歯舞諸島居住者連盟
- ↑ 荒木治義、「千島の思ひ出」、『今月の臨床』昭和15年6月号(55から59頁)、1940年(昭和15年)6月、臨床月報社
- ↑ 北方ライブラリー製作委員会編、『元島民が語る われらの北方四島 行政編』(195及び202頁)、1990年(平成2年)3月、千島歯舞諸島居住者連盟
- ↑ 半田芳男、『鹹淡往来』(49頁)、1968年(昭和43年)7月、北氷協会
- ↑ 長崎県南松浦郡女島灯台構内に1929年(昭和4年)5月1日開設せられた二等電信局であった(昭和4年逓信省告示第1271号)。なお同灯台においては1927年(昭和2年)12月1日の開設と同時に官庁用無線電信施設は設置されている(昭和2年逓信省告示第1299号及び第2489号)。
- ↑ 1928年(昭和3年)5月1日に開始した久慈郵便局(鹿児島県大隅国大島郡西方村)における無線通信機能(昭和3年逓信省告示第1102号)を1938年(昭和13年)10月21日より名瀬郵便局(鹿児島県大隅国大島郡名瀬町)に移し(昭和13年逓信省告示第3330号)、同時に久慈郵便局は三等郵便局、名瀬郵便局は二等郵便局に改定された(昭和13年逓信省告示第3328号)。
- ↑ 逓信省編、『逓信事業史 第四巻』(847頁)、1940年(昭和15年)11月、逓信協会
- ↑ 北方ライブラリー製作委員会編、『元島民が語る われらの北方四島 生活編』(226から229頁)、1991年(平成3年)7月、千島歯舞諸島居住者連盟
- ↑ 畑慶介、「紗那の想い出」、『歴史への招待 1』所収(236から237頁)、1979年(昭和54年)12月、日本放送出版協会
- ↑ 帯広営林局編、『千島森林誌 千島の国有林』(244頁)、1959年(昭和34年)6月、帯広営林局
- 1 2 北方ライブラリー製作委員会編、『元島民が語る われらの北方四島 生活編』(318から321頁)、1991年(平成3年)7月、千島歯舞諸島居住者連盟
- ↑ 北方ライブラリー製作委員会編、『元島民が語る われらの北方四島 行政編』(203頁)、1990年(平成2年)3月、千島歯舞諸島居住者連盟
- ↑ 『第七十三回帝国議会貴族院請願委員第二分科会(外務省、内務省、文部省、厚生省)議事速記録第七号』(6から7頁)、1938年(昭和13年)3月15日
- ↑ 『第七十三回帝国議会貴族院請願委員会議事速記録第八号』(6頁)、1938年(昭和13年)3月18日
- ↑ 『官報』号外(『第七十三回帝国議会貴族院議事速記録第三十一号』)(458から460頁)、1938年(昭和13年)3月26日
- 1 2 昭和15年逓信省告示第1994号(『官報』、1940年(昭和15年)7月20日)
- 1 2 昭和16年逓信省告示第2102号(『官報』、1941年(昭和16年)10月11日)
- 1 2 昭和16年逓信省告示第2338号(『官報』、1941年(昭和16年)11月25日)
- ↑ 日本電信電話公社総裁室文書課編、『外地海外電気通信史資料 千島・樺太・沖縄・小笠原の部 1』(30頁)、1956年(昭和31年)3月、日本電信電話公社
- ↑ 日本電信電話公社総裁室文書課編、『外地海外電気通信史資料 千島・樺太・沖縄・小笠原の部 1』(13頁)、1956年(昭和31年)3月、日本電信電話公社
- 1 2 3 4 読売新聞社北海道支社編集部編、『忍従の海――北方領土の28年』(219から220頁)、1973年(昭和48年)8月、読売新聞社
- ↑ 『忍従の海――北方領土の28年』中の天寧郵便局長松本尚三の証言には「十一月十日」とあるが、『戦史叢書 ハワイ作戦』(防衛庁防衛研修所戦史室編、同書258頁、1967年(昭和42年)12月、朝雲新聞社)には「軍令部からの連絡を受けていた大湊警備府は、機動部隊が単冠湾に進出する前の十一月二十日ごろ、「国後」(海防艦)を同地に派遣し、演習と称して同地の沙那(引用ママ)郵便局の通信業務を一時停止させ出入船舶を一切押え、機動部隊在泊中同湾の警戒を厳にした」とあり、また戦後の草鹿龍之介による回想でも「集合地点単冠湾には艦隊集合期日の一、二日前に砲艦国後(くなしり)を先遣し、沙那(引用ママ)郵便局にも予め人を遣わして通信業務を一時停止させ」とあって、11月10日ではなく11月20日のことであるとしている(草鹿龍之介、『聯合艦隊 草鹿元参謀長の回想』(13頁)、1952年(昭和27年)4月、毎日新聞社)。よって本項においては、とりあえず11月20日を採用した。
- ↑ 北方ライブラリー製作委員会編、『元島民が語る われらの北方四島 行政編』(205から209頁)、1990年(平成2年)3月、千島歯舞諸島居住者連盟
- 1 2 3 4 5 6 日本電信電話公社総裁室文書課編、『外地海外電気通信史資料 千島・樺太・沖縄・小笠原の部 1』(31頁)、1956年(昭和31年)3月、日本電信電話公社
- ↑ 防衛庁防衛研修所戦史室編、『戦史叢書 北東方面陸軍作戦〈2〉 ―千島・樺太・北海道の防衛―』(546から553頁)、1971年(昭和46年)3月、朝雲新聞社
- ↑ 防衛庁防衛研修所戦史室編、『戦史叢書 北東方面陸軍作戦〈2〉 ―千島・樺太・北海道の防衛―』(561頁)、1971年(昭和46年)3月、朝雲新聞社
- ↑ 防衛庁防衛研修所戦史室編、『戦史叢書 北東方面陸軍作戦〈2〉 ―千島・樺太・北海道の防衛―』(578から581頁)、1971年(昭和46年)3月、朝雲新聞社
- 1 2 防衛庁防衛研修所戦史室編、『戦史叢書 北東方面陸軍作戦〈2〉 ―千島・樺太・北海道の防衛―』(584頁)、1971年(昭和46年)3月、朝雲新聞社
- 1 2 北方ライブラリー製作委員会編、『元島民が語る われらの北方四島 戦後編』(32頁)、1995年(平成7年)3月、千島歯舞諸島居住者連盟
- ↑ 宮崎繁樹、『国際法における国家と個人』(253頁)、1963年(昭和38年)12月、未來社
- 1 2 北方ライブラリー製作委員会編、『元島民が語る われらの北方四島 戦後編』(33から34頁)、1995年(平成7年)3月、千島歯舞諸島居住者連盟
- ↑ 『続逓信事業史 第三巻』(郵政省編、同書38頁、1960年(昭和35年)12月、前島会)には「領土喪失によるものは、千島の二局(昭和二二年度)を除き、他の一五局は、昭和二〇年度に廃止された」とあり、書類上は1947年(昭和22年)度に廃止されている。
- ↑ 日本電信電話公社北海道電気通信局編、『北海道の電信電話史』(267頁)、1964年(昭和39年)10月、電気通信共済会北海道支部
- 1 2 3 4 北方ライブラリー製作委員会編、『元島民が語る われらの北方四島 戦後編』(182から184頁)、1995年(平成7年)3月、千島歯舞諸島居住者連盟
- ↑ 六角弘、『北方領土』(258頁)、1991年(平成3年)4月、ぴいぷる社
- ↑ 北海道新聞社編、『千島横断』(37頁)、1994年(平成6年)8月、北海道新聞社
- ↑ 真鍋繁樹、『戦後初めて明かされた四島の素顔 北方四島を行く』(39から40頁)、1991年(平成3年)1月、評伝社
- ↑ 「択捉島の日本家屋を保存 戦前の2棟、ロシア側も前向き」、『朝日新聞』朝刊(38頁)、2004年(平成16年)8月31日、朝日新聞社
- ↑ 斎藤元秀、「プーチンの北東アジア政策の現段階―朝鮮半島対策と他日政策を中心に―」、『国際情勢』第75号(ISSN:0385-8928)所収(152頁)、2005年(平成17年)2月、国際情勢研究会
- ↑ 「択捉の日本建築保存へ募金 民間支援団体発足」、『朝日新聞』朝刊32面(北海道総合)、2005年(平成17年)7月13日、朝日新聞社
- ↑ 「択捉の日本家屋保存へ 民間団体現地行政府に覚書案」、『朝日新聞』朝刊25面(北海道1)、2007年(平成19年)9月4日、朝日新聞社
- ↑ “平成17年ふるさと切手「最北の自然・北海道」の発行”. 日本郵便. 2026年9月4日閲覧。
- ↑ 「北方領土の択捉島に戦前建てられた木造建築で(窓)」、『日本経済新聞』北海道朝刊38面、2008年(平成20年)6月12日、日本経済新聞社
- ↑ 「択捉の日本家屋、保存前向き発言 サハリン州側」、『朝日新聞』朝刊27面、2011年(平成23年)8月23日、朝日新聞社
- ↑ 「北方領土、進むロシア化 空港や港湾…開発は既成事実に」、『朝日新聞』朝刊5面、2014年(平成26年)7月12日、朝日新聞社
- ↑ 「戦前の日本建築、「郵便局」を解体 択捉島」、『日本経済新聞』夕刊14面、2015年(平成27年)6月11日、日本経済新聞社
- ↑ 明治30年逓信省告示第288号(『官報』、1897年(明治30年)10月1日)
- ↑ 『官報』第5163号(1900年(明治33年)9月15日)掲載。
- ↑ 明治35年逓信省告示第93号(『官報』、1902年(明治35年)2月21日)
- ↑ 明治37年逓信省令第30号(『官報』、1904年(明治37年)4月6日)
- 1 2 3 明治37年逓信省告示第254号(『官報』、1904年(明治37年)4月6日)
- 1 2 明治38年勅令第62号(『官報』、1905年(明治38年)3月22日)
- 1 2 明治38年逓信省令第30号(『官報』、1905年(明治38年)4月4日)
- 1 2 3 明治38年逓信省告示第174号(『官報』、1905年(明治38年)4月4日)
- 1 2 明治40年逓信省令第14号(『官報』、1907年(明治40年)4月1日)
- 1 2 明治40年逓信省告示第223号(『官報』、1907年(明治40年)4月1日)
- 1 2 大正9年逓信省告示第186号(『官報』、1920年(大正9年)2月13日)
- 1 2 昭和5年逓信省告示第1608号(『官報』、1930年(昭和5年)6月23日)
- ↑ 『われらの北方四島 : 元島民が語る 戦後編』1995年。doi:10.11501/13163879。2026年7月8日閲覧。
- ↑ 産経ニュース (2014-07-12), 探訪 北方領土・択捉島の紗那郵便局 朽ちる「ソ連軍侵攻」発信地 2026年7月8日閲覧。
- ↑ “ロシア、紗那郵便局解体 北方領土・択捉島 「日本の証し」また消失”. 北海道新聞. 2015年6月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年7月8日閲覧。
- ↑ “解体された紗那郵便局跡 今は「勝利広場」に(択捉島)”. 2026年7月8日閲覧。
- 1 2 3 『逓信省職員録』(417から419頁)、1902年(明治35年)12月、逓信省
- ↑ 逓信大臣官房秘書課編、『昭和四年九月現在 逓信省職員録』(739頁)、1929年(昭和4年)11月、逓信省経理局
- ↑ 逓信六十年史刊行会編、『逓信六十年史』(続編121頁)、1930年(昭和5年)10月、逓信六十年史刊行会
- 1 2 近藤亀次郎編、『根室要覧』(147から148頁)、1913年(大正2年)3月、市川常陽堂
- ↑ 『大正二年 職員録(甲)』(830頁)、1913年(大正2年)、印刷局
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- ↑ 『職員録 昭和六年七月一日現在』(448頁)、1931年(昭和6年)、内閣印刷局
- ↑ 逓信大臣官房秘書課編、『昭和十年十一月十五日現在 職員録』(155頁)、1935年(昭和10年)11月、逓信省経理局
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- ↑ 逓信大臣官房秘書課編、『昭和十七年四月二十日現在 職員録』(259頁)、1942年(昭和17年)5月、逓信省
- ↑ 『昭和二十年二月一日現在 職員録』(188頁)、1945年(昭和20年)、運輸通信省通信院
- 1 2 3 郵政省編、『郵政百年史資料 第七巻』(99から100頁)、1970年(昭和45年)3月、吉川弘文館
- 1 2 明治30年勅令第250号(『官報』、1897年(明治30年)8月3日)
- ↑ 明治30年逓信省令第27号(『官報』、1897年(明治30年)8月5日)
- 1 2 3 4 逓信省編、『逓信事業史 第一巻』(229から232頁)、1940年(昭和15年)10月、逓信協会
- ↑ 明治34年逓信省令第19号(『官報』、1901年(明治34年)4月4日)
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- ↑ 明治42年勅令第215号(『官報』、1909年(明治42年)9月1日)
- ↑ 明治42年勅令第216号(『官報』、1909年(明治42年)9月1日)
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- ↑ 大正9年勅令第405号(『官報』、1920年(大正9年)9月16日)
- ↑ 大正10年逓信省令第42号(『官報』、1921年(大正10年)9月1日)
- ↑ 日本電信電話公社電信電話事業史編集委員会編、『電信電話事業史 第5巻』(352頁)、1960年(昭和35年)3月、電気通信協会
- ↑ 昭和23年政令第323号(『官報』、1948年(昭和23年)10月15日)
- ↑ 明治36年勅令第44号(『官報』、1903年(明治36年)3月20日)
- ↑ 山口修編、『郵便百科年表』(98頁)、1987年(昭和62年)4月、ぎょうせい
- ↑ 明治37年逓信省令第30号(『官報』、1904年(明治37年)4月6日)
- ↑ 山口修編、『郵便百科年表』(102頁)、1987年(昭和62年)4月、ぎょうせい
- ↑ 大正2年勅令第225号(『官報』、1913年(大正2年)6月13日)
- ↑ 大正2年逓信省令第57号(『官報』、1913年(大正2年)6月13日)
- ↑ 既に郵便、電信及電話官署経費渡切規則(明治38年勅令第62号)は、1922年(大正11年)4月1日の会計規則全部改正により廃止されていたが(大正11年勅令第1号)、郵便、電信及電話官署経費渡切規則施行細則は会計規則第61条第1項の2号に規定する逓信官署にそのまま準用されていた(大正11年逓信省令第29号)。
- ↑ 昭和16年逓信省令第50号(『官報』、1941年(昭和16年)5月8日)
- ↑ 昭和16年逓信省告示第1177号(『官報』、1941年(昭和16年)5月8日)
- 1 2 郵政省編、『続逓信事業史 第九巻』(45から52頁)、1962年(昭和37年)10月、前島会
- 1 2 3 4 5 北方ライブラリー製作委員会編、『元島民が語る われらの北方四島 総集編』(317から320頁)、1994年(平成6年)3月、千島歯舞諸島居住者連盟
- 1 2 3 4 5 北方ライブラリー製作委員会編、『元島民が語る われらの北方四島 行政編』(195から197頁)、1990年(平成2年)3月、千島歯舞諸島居住者連盟
- ↑ 鹿能辰雄、『北方風土記 択捉島地名探索行』(171から172頁)、1976年(昭和51年)11月、みやま書房
- 1 2 3 北方ライブラリー製作委員会編、『元島民が語る われらの北方四島 行政編』(204から205頁)、1990年(平成2年)3月、千島歯舞諸島居住者連盟
- 1 2 3 北方ライブラリー製作委員会編、『元島民が語る われらの北方四島 行政編』(199から200頁)、1990年(平成2年)3月、千島歯舞諸島居住者連盟
参考文献
『官報』、帝国議会速記録及び法令集等並びに各職員録は上記脚註各号に示す通り。
- 多羅尾忠郎、『千島探検実紀』、1893年(明治26年)7月、鹿田書店
- 札幌郵便電信局編、『北海道郵便電信沿革誌稿』(107頁)、1896年(明治29年)5月、札幌郵便電信局
- 近藤亀次郎編、『根室要覧』、1913年(大正2年)3月、市川常陽堂
- 『逓信協会雑誌』第264号、1930年(昭和5年)8月、逓信協会
- 逓信六十年史刊行会編、『逓信六十年史』、1930年(昭和5年)10月、逓信六十年史刊行会
- 『逓信協会雑誌』第270号、1931年(昭和6年)2月、逓信協会
- 本城玉藻編、『根室千島両国郷土史』、1933年(昭和8年)5月、本城寺
- 北海道庁編、『新撰 北海道史 第七巻』、1937年(昭和12年)11月、北海道庁
- 荒木治義、「千島の思ひ出」、『今月の臨床』昭和15年6月号所収、1940年(昭和15年)6月、臨床月報社
- 逓信省編、『逓信事業史 第七巻』、1940年(昭和15年)9月、逓信協会
- 逓信省編、『逓信事業史 第一巻』、1940年(昭和15年)10月、逓信協会
- 逓信省編、『逓信事業史 第四巻』、1940年(昭和15年)11月、逓信協会
- 電波監理委員会編、『日本無線史 第四巻』、1951年(昭和26年)9月、電波監理委員会
- 日本電信電話公社総裁室文書課編、『外地海外電気通信史資料 千島・樺太・沖縄・小笠原の部 1』、1956年(昭和31年)3月、日本電信電話公社
- 帯広営林局編、『千島森林誌 千島の国有林』、1959年(昭和34年)6月、帯広営林局
- 日本電信電話公社電信電話事業史編集委員会編、『電信電話事業史 第5巻』、1960年(昭和35年)3月、電気通信協会
- 郵政省編、『続逓信事業史 第三巻』、1960年(昭和35年)12月、前島会
- 山下精一、「千島・色丹および歯舞諸島の郵便史」、『郵趣手帖』第15号所収、1961年(昭和36年)3月、郵趣手帖社
- 宮崎繁樹、『国際法における国家と個人』、1963年(昭和38年)12月、未來社
- 北海道教育研究所編、『北海道教育史 全道編 四』、1964年(昭和39年)3月、北海道教育委員会
- 日本電信電話公社北海道電気通信局編、『北海道の電信電話史』、1964年(昭和39年)10月、電気通信共済会北海道支部
- 防衛庁防衛研修所戦史室編、『戦史叢書 ハワイ作戦』、1967年(昭和42年)12月、朝雲新聞社
- 井上毅、「北海道意見」、『井上毅伝 史料篇第二』所収、1968年(昭和43年)3月、國學院大學図書館
- 半田芳男、『鹹淡往来』、1968年(昭和43年)7月、北氷協会
- 高倉新一郎監修、『根室市史 下巻』、1968年(昭和43年)7月、根室市
- 郵政省編、『郵政百年史資料 第七巻』、1970年(昭和45年)3月、吉川弘文館
- 防衛庁防衛研修所戦史室編、『戦史叢書 北東方面陸軍作戦〈2〉 ―千島・樺太・北海道の防衛―』、1971年(昭和46年)3月、朝雲新聞社
- 読売新聞社北海道支社編集部編、『忍従の海――北方領土の28年』、1973年(昭和48年)8月、読売新聞社
- 札幌管区気象台、「札幌気象百年史」、『測候時報』第43巻第3-5号所収、1976年(昭和51年)7月、気象庁
- 鹿能辰雄、『北方風土記 択捉島地名探索行』、1976年(昭和51年)11月、みやま書房
- 畑慶介、「紗那の想い出」、『歴史への招待 1』所収、1979年(昭和54年)12月、日本放送出版協会
- 山口修監修、『全国郵便局沿革録 明治篇』、1980年(昭和55年)12月、日本郵趣出版
- 山口修編、『郵便百科年表』、1987年(昭和62年)4月、ぎょうせい
- 根室市史編さん委員室編、『根室市史 年表編』、1988年(昭和63年)3月、根室市
- 北方ライブラリー製作委員会編、『元島民が語る われらの北方四島 行政編』、1990年(平成2年)3月、千島歯舞諸島居住者連盟
- 真鍋繁樹、『戦後初めて明かされた四島の素顔 北方四島を行く』、1991年(平成3年)1月、評伝社
- 六角弘、『北方領土』、1991年(平成3年)4月、ぴいぷる社
- 北方ライブラリー製作委員会編、『元島民が語る われらの北方四島 生活編』、1991年(平成3年)7月、千島歯舞諸島居住者連盟
- 北方ライブラリー製作委員会編、『元島民が語る われらの北方四島 総集編』、1994年(平成6年)3月、千島歯舞諸島居住者連盟
- 北海道新聞社編、『千島横断』(ISBN:9784893637352)、1994年(平成6年)8月、北海道新聞社
- 北方ライブラリー製作委員会編、『元島民が語る われらの北方四島 戦後編』、1995年(平成7年)3月、千島歯舞諸島居住者連盟
- 福井貞治、「北海道立文書館の史料について」、『郵便史研究』第10号所収、2000年(平成12年)9月、郵便史研究会
- 斎藤元秀、「プーチンの北東アジア政策の現段階―朝鮮半島対策と他日政策を中心に―」、『国際情勢』第75号(ISSN:0385-8928)所収、2005年(平成17年)2月、国際情勢研究会