翊軍校尉
翊軍校尉(よくぐんこうい)は、中国の西晋の初めから東晋の初めまで、280年から316年以後しばらくの間あった官職である。他の5つの校尉とともに宮殿の警備にあたった。
解説
西晋(265年 - 316年)初代の武帝(司馬炎)が、太康元年(280年)6月に新設した[1]。宮殿・皇帝の護衛にあたる特別な校尉は漢の時代からあり、西晋では屯騎校尉・歩兵校尉・越騎校尉・長水校尉・射声校尉を五校とした[2]。五校の中に翊軍校尉はないが、これを記した『晋書』でも皇帝の外出時の行列(鹵簿)を記す中にはあり、翊軍校尉は右列で長水校尉が率いる隊列の後ろにつき、左に射声校尉を見て、二列になった兵士を率いた[3]。兵士の数も他の校尉と同じである。他の校尉と同列なら、上官は中軍将軍である[2]。その改称により、永嘉元年(307年)から中領軍将軍、(このときまだ翊軍校尉が廃止されていなければ)永昌元年(322年)から北軍中候に属した[2]。
西晋で作られた翊軍校尉は、東晋(317年 - 420年)で省かれた[4]。それでも、東晋初代の元帝が即位(317年)した後に、司馬紘が翊軍校尉に任命されたので[5]、最初期にはあった。
東晋の後にできた南朝の宋では、皇太子のために太子翊軍校尉を設けた[4]。これより後、皇帝に属する翊軍校尉はなく、太子翊軍校尉が南朝の最後の陳まで続き、北朝にも北魏にはあった。『宋書』『南斉書』の列伝には、太子翊軍校尉に任命された人物に混じって、孔覬、張緒、褚賁の3人が「太子」なしの翊軍校尉に任命されたと記される[6]。彼らはみな皇太子の側近である中庶子の兼任なので[6]、それらは太子翊軍校尉の略であろう。
翊軍校尉の人物
西晋
西晋か東晋か不明
東晋
脚注
- ↑ 『晋書』巻3、武帝紀第3、太康元年六月丁丑。
- 1 2 3 『晋書』巻24、志第14、職官。
- ↑ 『晋書』巻25、志第25、輿服、中朝大駕鹵簿。
- 1 2 『宋書』巻40、志第30、百官下。
- 1 2 『晋書』巻37、列伝第7、宗室、彭城穆王權、紘。
- 1 2 『宋書』巻84、列伝第44、孔覬。『南斉書』巻33、列伝第14、張緒。『南斉書』巻23、列伝第4、褚淵、長子賁。
- ↑ 『晋書』巻42、列伝第12、唐彬。
- ↑ 『晋書』巻45、列伝第15、何攀。
- ↑ 『晋書』巻31、列伝第1、后妃上、恵賈皇后。巻59、列伝第29、八王、斉王冏。
- ↑ 『晋書』巻59、列伝第29、八王、河間王顒。巻60、列伝第30、李含。
- ↑ 『晋書』巻43、列伝第13、山濤、該。
参考文献
外部リンク
- 中央研究院・歴史語言研究所「漢籍電子文献資料庫」。