船田兵吾

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ふなだ ひょうご
船田 兵吾
生誕 1868年9月28日
江戸幕府・下野国梁田郡上渋垂村(現:足利市上渋垂町)
死没 (1924-12-11) 1924年12月11日(56歳没)
配偶者 船田きみ
子供 長男・船田中(元衆議院議長)
次男・船田享二(京城帝国大学教授、元衆議院議員)
三男・船田泉介(衆議院議員)
長女・船田小常(作新学院小学部初代部長)
親戚 相舅・元田肇(衆議院議員、長男・中の義父)
家族 孫・船田譲(元参議院議員、元栃木県知事)
孫・船田良(静岡県立農林環境専門職大学学長[1])[2]
曾孫・船田元(衆議院議員、作新学院学院長)
曾孫嫁・船田恵(元参議院議員、作新学院理事長)
受賞 帝国教育会長功牌(1911年)
勲六等瑞宝章(1923年)
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船田 兵吾(ふなだ ひょうご、1868年9月28日〈明治元年(慶應4年)8月13日〉 - 1924年〈大正13年〉12月11日)は、日本の教育者。下野英学校(現・作新学院)の創立者。号は聴蛙(ちょうあ)[3]。

栃木県を地盤とする政治家一族・船田家の祖でもあり、元衆議院議長・船田中ら(通称「船田三兄弟」)の父、元栃木県知事・船田譲の祖父、衆議院議員・船田元の曾祖父にあたる。

経歴

1868年(明治元年)、赤城神社の神職を務める一族の三男として生まれる[4][注 1]。幼少期は、祖父から学問の手ほどきを受けた[5]。

1884年(明治17年)、英学塾に進むため宇都宮に赴き、その翌年には、田中正造や上野松次郎らの援助を得て私立下野英学校を設立[6.1]。1888年(明治21年)の財政難による閉校後は一時現場から退いたが、直後の私立作新館設立をもって復帰、のちに同館長に就任した[5]。

また、1909年(明治42年)には、私立宇都宮盲唖学校(現・栃木県立盲学校[7])の設立にも参画した[5]。

その後は私立尋常中学作新館、私立下野中学校を経て、下野中学校の運営に携わる。1923年(大正12年)には勲六等瑞宝章を叙勲された。

しかし翌年、学校の書記による卒業証書偽造事件が発覚し、学校経営が悪化。その事件による心労がたたり、1924年(大正13年)12月11日に死去[6.2]。享年56歳。

脚注

  1. ↑ “次期学長予定者の決定について” (2025年12月25日). 2026年10月12日閲覧。
  2. ↑ “船田家”. みんなの系図. 2026年10月12日閲覧。
  3. ↑ “聴蛙館”. 作新学院. 2026年10月12日閲覧。
  4. ↑ “創設者 船田兵吾先生”. 作新学院. 2026年10月14日閲覧。
  5. 1 2 3 日本人名大辞典+Plus, 20世紀日本人名事典,デジタル版. “船田兵吾(フナダ ヒョウゴ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2026年10月12日閲覧。
  6. “作新学院高等学校の歴史|作新学院高等学校同窓会”. www.sakushin-ogob.gr.jp. 2026年10月14日閲覧。
    1. ↑ 「学校の建築に際しては田中正造をはじめとして菊地三郎・上野松次郎・手塚五郎平ら有志十数人が建築資金を出し合いました。」
    2. ↑ 「しかし大正13(1924)年になると学校は大きな危機を迎えることになります。それは某書記による卒業証書偽造事件が問題化し、官憲による学校干渉が行われるようになったからです。それから15年は苦境の時期を迎えることになりました。この間兵吾は学校の廃校を決意しましたが、兵吾の長男中の奔走によって廃校だけは免れました。  しかし、県の補助金交付が中止されてしまいました。 心労と無理を重ねた兵吾は大正13年ついに帰らぬ人となりました。」
  7. ↑ “学校概要 - 栃木県立盲学校”. 栃木県教育委員会. 2026年10月14日閲覧。

注釈

  1. ↑ 栃木県足利市上渋垂町119番地内に同名の神社が存在するが、船田家との関係は不明。

関連項目

外部リンク