茶加藤
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明治時代の店舗 | |
| 種類 | 株式会社 |
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| 本社所在地 |
〒259-1131 神奈川県伊勢原市伊勢原2丁目9番33号 北緯35度23分53.7秒 東経139度18分23.6秒 / 北緯35.398250度 東経139.306556度座標: 北緯35度23分53.7秒 東経139度18分23.6秒 / 北緯35.398250度 東経139.306556度 |
| 設立 | 1948年6月1日(創業は1728年) |
| 廃止 | 2022年4月 |
| 業種 | 小売業 |
| 法人番号 | 1021001021189 |
| 事業内容 | 茶、海苔の販売 |
| 代表者 | 十代目加藤宗兵衛 |
| 資本金 | 1000万円 |
| 売上高 | 8億円(2002年1月期)[1] |
| 外部リンク | http://www.chakato.jp/ |
茶加藤(ちゃかとう)は、かつて神奈川県伊勢原市に本店を置いていた茶の販売店である。創業は1728年(享保13年)で、10代続く老舗であったが、2022年に倒産した[1]。
歴史
伊勢原の地は、古くは千手ケ原と呼ばれ、松が生い茂る見渡す限りの草原であった。1619年(元和5年)、伊勢国宇治山田の曾右衛門と鎌倉の湯浅清左衛門[注釈 1]が大山詣での際に千手ケ原で野宿をした際に、この地への永住を思い立つ。七反ほどの土地を開墾し、アワを撒くと、近隣の村の者も集まり、やがて村落を形成した。享保年間のころには大山街道の両側に商店が建ち、江戸商人が参加して銭相場が立つほどの商業地に発展した[3]。この伊勢原の町に、甲斐武田氏遺臣の加藤丹後守景忠を祖先に持つ加藤家の旧家があった。名跡を継いだのは遠州森町で茶園を営む小野長左衛門の息子の喜七であった。茶どころの出身ということもあり、茶の商いを始めた[4]。当初は「清壽軒」の屋号であった[5]。1728年(享保13年)より棚卸勘定帳の記録があり、この年を創業年としている[6]。当主は加藤宗兵衛を名乗り、代々襲名した。二代目、三代目のころは茶のほかに米穀や干鰯、種粕なども扱い、質屋も兼営していた。
四代目のとき、天明の大飢饉が起き米価格は高騰した。米相場に乗じて利益を上げることもできたが、石門心学の研究者でもあった四代目は、「人の道に外れたことだ」と、これを行わなかった[7]。四代目の妻の兄である川崎屋孫右衛門は大磯で米穀商を営んでいたが、この騒動で打ちこわしと焼き討ちの被害を受けた[8]。財政再建の手腕で知られた二宮尊徳が、小田原藩主大久保忠真の命で、宇津家再建のため下野国物井村[注釈 2]の桜町陣屋に出向中に、五代目宗兵衛が寄食していたことから、四代目と尊徳の間に接点があった[9]。妻の生家の再建に乗り出した四代目は尊徳の教えを請い、衣類や家財を売却して大磯宿に寄付する善行を行った。この一件から、四代目は尊徳の報徳仕法を受ける[8]。弟の為蔵の分家問題について、「商売熱心な為蔵は商いを成功させるだろうから、店を為蔵に譲り、自分は農業を生業にしようと思う」と相談したところ、「もし、商売を譲った後に五代目が困窮することになれば、為蔵を恨むことになるだろう。為蔵の子にしてみれば『自分の働きが悪くて困窮したくせにこちらを恨むとはけしからん』と憤慨するだろう。親類同士に仲違いが起きれば、本家・分家とも永続は不可能だ。共倒れを避けるため、財産を分けてはならない。」それでは為蔵が気の毒ではないか、と言うと「為蔵が自力で家を興す分には、本家・分家の諍いは生じない。私が二十両か三十両を無利子で貸し与えよう」尊徳の心遣いにより、宗兵衛・為蔵の兄弟は一家の安泰を得た[10]。1853年ごろからは、横浜港から茶の輸出も手掛けた[5]。
五代目は若くして亡くなり、1858年(安政5年)生まれの六代目が継いだ。六代目は四代目に劣らぬ報徳運動の推進者で、東大竹の報徳社[注釈 3]の社長を務めた。1905年(明治38年)から2年間伊勢原町長を務め、養蚕の傍ら、ドイツ人の指導を受けビール麦の栽培もおこなった[11]。こんにちの複式簿記に当たる、福沢諭吉の『帳合之法』を学び、商いに取り入れたのも六代目であり、為替手形に相当するものも残っている[12]。1910年に55歳で死去した六代目に代わり店を継いだ七代目も商売熱心で、1921年(大正10年)に平塚店、1935年に厚木店を開店。1948年には株式会社に改組した。平塚店は空襲で焼失して仮店舗で営業していたが、1952年に新築した[13]。その1952年に、当時31歳[6]の八代目に代替わりした。伊勢原本店とすでに出店している厚木店・平塚店に加え、秦野店、小田原店、茅ヶ崎店、横浜市の藤が丘店、商業施設内の伊勢原OX店、伊勢原とうきゅう店、平塚駅ビル店、小田原地下街店の11店舗を有するまでに発展し[13]、東京・新宿の小田急百貨店にも売店を設けた[12]。
九代目は44歳、十代目は25歳で事業承継した[6]。2005年に店を継いだ十代加藤宗兵衛は2022年2月25日に死去[14]。3月より事業を停止した。同年4月11日までに、横浜地方裁判所小田原支部より破産手続き開始の決定を受けた。負債総額は4億4800万円[1]。厚木店は、のれん分けの形で以前より別会社(有限会社茶加藤厚木店)が運営している[15]。
- 厚木店(2016年)
- 秦野店(2026年)
加藤宗兵衛
当主は代々加藤宗兵衛を襲名しており、九代目までは前述のとおりである。
十代加藤宗兵衛は1979年10月11日に生まれ[6]、2002年に慶應義塾大学総合政策学部卒業。同年に茶加藤の専務取締役に就任し、2005年に九代目死去により、25歳で十代目代表取締役社長に就任した。商工会やロータリークラブ、青年会議所の活動も積極的に行い、2019年には日本青年会議所の副会頭に就任した[16]。2022年2月25日、死去[14]。
商号
茶の商いを始めた宗兵衛は、「お茶屋の加藤」から、いつしか「茶加藤」と呼ばれるようになった[4]。当初は「清壽軒」であった店の屋号も、大正時代に「茶加藤」に改められた[5]。
漢数字の十一を丸囲みした商号を使用しているが、これは初代宗兵衛が創業時に暖簾に描いたことに由来し、「十で元々、十二ではいただきすぎ。十一分の気持ちで商いを続けなさい」の理念が込められていた[5]。
脚注
注釈
出典
- 1 2 3 「伊勢原の「茶加藤」販社倒産 創業300年近い老舗」『神奈川新聞カナロコ』2022年4月22日。オリジナルの2022年4月11日時点におけるアーカイブ。2026年2月1日閲覧。
- ↑ “いせはらの歴史”. 伊勢原市教育委員会 (2012年10月4日). 2026年2月1日閲覧。
- ↑ (島 1981, pp. 20–21)
- 1 2 (島 1981, p. 21)
- 1 2 3 4 株式会社茶加藤 at the Wayback Machine (archived 2022-01-17)
- 1 2 3 4 10代目加藤宗兵衛「伝統の継承について」(PDF)『平塚ロータリークラブ週報』第3217巻、平塚ロータリークラブ、2019年8月1日、2026年2月1日閲覧。
- ↑ (島 1981, p. 22)
- 1 2 (田島 1972, p. 182)
- 1 2 (島 1981, p. 23)
- ↑ (島 1981, pp. 24–25)
- ↑ (島 1981, pp. 25–26)
- 1 2 (田島 1972, p. 183)
- 1 2 (島 1981, p. 27)
- 1 2 “訃報” (PDF). SDGsマネジメント (2022年3月1日). 2026年2月1日閲覧。
- ↑ 「お茶と厚木と八十七年」(PDF)『さぽーと』第565巻、厚木商工会議所、2022年5月1日、2026年2月4日閲覧。
- ↑ “運営委員・CPOに加藤宗兵衛氏が就任”. 公共政策調査機構. 2026年2月1日閲覧。
参考文献
(上記文献著者の田島武は、島武史の本名。)
外部リンク
- 株式会社茶加藤 at the Wayback Machine (archived 2022-01-17)
- 茶加藤 創業享保13年 (@chakato1728) - X(旧Twitter)