藤原俊憲

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藤原 俊憲
時代 平安時代後期
生誕 保安3年(1122年)
死没 仁安2年4月10日(1167年4月30日)
改名 俊憲→真寂(法名)
別名 宰相入道
官位 従三位、参議
主君 近衛天皇→後白河天皇→二条天皇
氏族 藤原南家貞嗣流→藤原北家真夏流(日野家)
父母 父:信西(藤原通憲)、母:高階重仲の娘
養父:藤原顕業
兄弟 俊憲、貞憲、静賢、澄憲、覚憲、憲曜、成範、勝賢、是憲、明遍、脩範、光憲、寛敏、行憲、憲俊、寛兼、憲慶、阿波内侍?、藤原隆季室、藤原長方室、藤原親信室、少将有房室、藤原家房室、源為国室
養兄弟:俊経
妻 三条公教の娘、藤原顕頼の娘
子 基明、範房、信憲、観俊
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藤原 俊憲(ふじわら の としのり)は、平安時代後期の公卿・学者・歌人。藤原南家貞嗣流、少納言・藤原通憲(信西)の長男。藤原北家真夏流(大福寺流)、参議・藤原顕業の養子。官位は従三位・参議。

経歴

文章博士・藤原顕業の養子として儒官の道に進み、鳥羽院政期の康治元年(1142年)文章得業生となり、康治3年(1144年)対策に及第して、大学権助に任ぜられる。のち、式部少丞・六位蔵人・刑部大丞を経て、仁平4年(1154年)従五位下に叙爵。

若年より実父・信西譲りの才智をもって登用され、久寿2年(1155年)立太子して間もない守仁親王(のち二条天皇)の東宮学士に任ぜられる。翌保元元年(1156年)に発生した保元の乱後の除目で右少弁に任官。その後は保元の乱で権力を掌握した父・信西の権勢を背景として要職を歴任。保元2年(1157年)正五位下に昇叙し、それまでの東宮学士に加えて、五位蔵人・左少弁・左衛門権佐(検非違使佐)を兼ねて三事兼帯となり、「希代」のことと評された[1]。保元3年(1158年)この年だけで正五位下・左少弁から一挙に正四位下・権左中弁に昇進する。また、後白河天皇から二条天皇への譲位に伴い、後白河上皇の院別当と二条天皇の蔵人頭を兼ねて、院と朝廷の橋渡し役も務めた。平治元年(1159年)4月に参議として公卿に列し、同年11月には従三位に叙せられる。

しかし、同年12月に平治の乱が勃発。父・信西は殺害され、さらに乱後、戦乱を招いた責任によりその子息は悉く流罪に処せられる。俊憲も解官の上で越後国(後に阿波国に変更)に配流となり、これを契機に出家して法名を真寂と称し、宰相入道と呼ばれた。翌永暦元年(1160年)には平安京に召還されるが、その後は政治の表舞台に立つことなく、仁安2年(1167年)4月10日薨去。享年46。

人物

『愚管抄』や『古事談』『続古事談』にその文才を物語る逸話がある。また、『玉葉』にも、かつて俊憲が「後白河院のもとでは戦乱が止まないであろう」と予言していたことが「聖人格言」として紹介されている[2]。

著書として『新任弁官抄』『貫首秘抄』があり、また歌人としても『千載和歌集』(2首)と『新勅撰和歌集』(1首)にその作が入選している[3]。

官歴

『公卿補任』による。

系譜

脚注

  1. ↑ 『兵範記』保元2年10月23日条
  2. ↑ 『玉葉』元暦元年7月9日条
  3. ↑ 『勅撰作者部類』
  4. ↑ 『山槐記』

出典

  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年
  • 木村真美子「藤原俊憲」『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年