藤原憲方
藤原 憲方(ふじわら の のりかた、嘉承元年(1106年) - 永暦元年5月4日(1160年6月9日))は、平安時代後期の貴族。藤原北家勧修寺流、参議・藤原為隆の長男。官位は正四位下・刑部卿。
経歴
大学助を経て、元永元年(1118年)4月に鳥羽天皇の六位蔵人に補せられるが、早くも6月には叙爵して蔵人を去った。
保安3年(1122年)出雲守に任ぜられると、出雲守重任、周防守を経て、康治3年(1144年)近江守を辞すまで、白河院政期後期から鳥羽院政期中期にかけての20年以上に亘って受領を務める。この間の保延2年(1136年)に右衛門権佐を兼ねると、衛門権佐も約20年に亘って務めた。なお、憲方は鳥羽院判官代を務めたり、永治元年(1141年)鳥羽院の女御であった藤原得子が皇后に立てられた際に皇后宮大進に任ぜられるなど、鳥羽院の近臣であった様子が窺われる。一方で、長承4年(1135年)正五位下に叙せられたのち、20年以上も五位にとどめられており、位階面での昇進は遅滞。久安6年(1150年)には弟の光房が先に従四位下に叙せられ、位階を越えられている。
保元元年(1156年)鳥羽院が没して後白河院政が開始されると、憲方は従四位下・刑部卿に叙任される。その後は、保元2年(1157年)従四位上、保元3年(1158年)正四位下と急速に昇進し、永暦元年(1160年)蔵人頭に補せられて公卿の座を目前にする。しかし、そのわずか1ヶ月後の同年5月4日に卒去した。享年55。
官歴
- 時期不詳:大学助
- 元永元年(1118年) 4月3日:六位蔵人、大学助如元[1]。6月:従五位下(前斎院合爵)[1]
- 保安3年(1122年) 12月15日:出雲守[2]
- 天治元年(1124年) 5月28日:出雲守(重任)[3]
- 大治3年(1128年) 12月29日:周防守[4][5]
- 長承4年(1135年) 4月9日:正五位下[1]
- 時期不詳:近江守
- 保延2年(1136年) 正月22日:右衛門権佐、検非違使宣旨、守如元、見院判官代[6]
- 永治元年(1141年) 12月27日:兼皇后宮大進(皇后・藤原得子)[6]
- 康治元年(1142年) 11月14日:正五位上[7][6]
- 康治3年(1144年) 正月24日:辞近江守[6]
- 久安5年(1149年) 8月3日:止大進(依院号)[6]
- 久安6年(1150年) 10月20日:左衛門権佐[7][6]
- 保元元年(1156年) 11月28日:刑部卿、従四位下[8]
- 保元2年(1157年) 10月22日:従四位上[9]
- 保元3年(1158年) 正月6日:正四位下[9]。2月3日:兼皇后宮亮(皇后・統子内親王)[9]
- 保元4年(1159年) 2月19日:上西門院別当、元皇后宮亮[10]。5月28日:見後白河院別当[11]
- 永暦元年(1160年) 4月3日:蔵人頭、見刑部卿[12]。5月4日:卒去[12]
系譜
『尊卑分脈』による。