藤野彪

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藤野 彪(ふじの たけき、1907年 - 1958年)は、日本の歴史学者。専門は東洋史、特にモンゴル帝国・元朝時代史。愛媛大学教授等を歴任し、「遷轉法」の研究をはじめとする元朝集権制やモンゴル帝国史の研究において大きな足跡を残した。

概要

1907年(明治40年)2月17日、愛媛県伊予郡松前町に父・藤野荘太郎、母・ジンカの長子として誕生した[1]。北予中学校を卒業後、1927年(昭和2年)に松山高等学校文科乙類に入学し、植村清二に師事した[1]。1930年(昭和5年)に松山高等学校を卒業し、同年4月に東京帝国大学文学部東洋史学科に入学した[2]。1933年(昭和8年)に同大学を卒業後、大学院等で和田清の指導を受け、主として北アジア史、とりわけ14世紀以降を専攻した[2]。

大学院修了後、東京府立第五中学校を皮切りに、千葉県立千葉中学校教諭、善隣専門学校教授などを歴任した[2]。太平洋戦争敗戦直後の1945年(昭和20年)10月、アメリカ軍の東京空襲によってすべての蔵書と蒐集資料を焼失したことを機に故郷の愛媛県松前町へ帰郷し、母校である松山高等学校教授に就任した[3]。その後、学制改革に伴う昇格を経て、1949年(昭和24年)に愛媛大学助教授に就任し、1953年(昭和28年)に教授に昇任して同大学東洋史学教室の基礎を固めた[3]。愛媛大学においては最初の東洋史特殊講義として「元代の遷轉法について」を担当し、のちに研究の伴走者となる牧野修二らに多大な影響を与えた[3]。

専攻をいわゆるモンゴル元朝時代史に絞り込み、「遷轉法」や元の行大司農司、朱清・張瑄、元朝の金融・経理政策などに関する優れた論考を発表した。また、1933年(昭和8年)に通子夫人と結婚し、二男四女をもうけた[2]。長年、愛媛大学で後進の育成と研究に尽力したのち、晩年は自身の門下生らとともにモンゴル元朝時代史に関する共同論集の刊行準備を進めていたが、1958年に死去した[4]。没後、弟子の牧野修二が藤野の論考と自らの論考を一冊にまとめて『元朝史論集』として出版している[4]。

主要な著作

  • 「元代の遷轉法について」『愛媛大學紀要 第一部 人文科學』1巻3号、1952年
  • 「元の行大司農司について」『愛媛大學歴史學紀要』第1輯、1953年
  • 「朱清・張瑄について」『愛媛大學歴史學紀要』第3輯、1954年
  • 「元朝の金融策について」『愛媛大學紀要 第一部 人文科學』2巻2号、1955年
  • 「元朝の經理」『愛媛大學歴史學紀要』第5輯、1957年

上記の論文は全て『元朝史論集』に所収されている。

脚注

  1. 1 2 藤野 & 牧野 2012, p. 1115.
  2. 1 2 3 4 藤野 & 牧野 2012, p. 1116.
  3. 1 2 3 藤野 & 牧野 2012, p. 1117.
  4. 1 2 藤野 & 牧野 2012, p. 1119.

参考文献

  • 藤野彪、牧野修二 編『元朝史論集』汲古書院、2012年5月20日。ISBN 978-4-7629-6047-5。