袁彦

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袁 彦(えん げん、907年 - 972年)は、五代十国時代から北宋にかけての軍人。本貫は河中府河東県[1]。

経歴

若くして敏捷勇猛なことから従事に応募して、奉国営に属した。後漢の乾祐年間、郭威が軍を率いて李守貞を討つと、袁彦はその麾下に加わった。郭威が鄴に駐屯すると、袁彦は部直小将となった。後周の広順年間、柴栄が澶淵に駐屯すると、袁彦は親事都校をつとめた。柴栄が開封尹となると、袁彦は開封府歩直指揮使に転じた。顕徳元年(954年)、内外歩軍都軍頭に任じられ、泉州刺史を遥領した。ほどなく岳州防禦使に転じた。顕徳2年(955年)、世宗(柴栄)が南唐に親征すると、袁彦は寿州攻撃に参加し、城北造竹龍都部署をつとめた。竹数十万本を調達し、版屋を設けて武装した兵士数百人を載せ、寿州の城壁を攻撃した。顕徳3年(956年)、渦口で橋を修築するよう命じられ、橋が完成すると、世宗がここに赴き、鎮淮軍が立てられた。李継勲が軍の紀律を失って敗れ、軍職を罷免されると、袁彦は武信軍節度使に任じられ、権侍衛歩軍都指揮使をつとめた。さらに淮南道行営馬歩軍副都指揮使となった[2]。

趙匡胤が滁陽を下し、皇甫暉や姚鳳を捕らえると、袁彦はいずれも功労があって、褒賞を受けた。また軍を率いて下蔡に駐屯し、寿春に迫った。顕徳4年(957年)、劉仁贍が降伏すると、袁彦は世宗に従って濠州・泗州を攻め、さらに南唐の将の許文績や辺鎬らを捕らえて献上した。凱旋すると、正式に歩軍都指揮使に任じられ、彰信軍節度使を遥領した。顕徳6年(959年)春、開封周辺の成年男子を動員して五丈河を浚渫すると、袁彦はその夫役の監督を命じられた。恭帝柴宗訓が即位すると、袁彦は陝州保義軍節度使に転じた[3]。

北宋の建隆元年(960年)、袁彦は検校太尉を加えられた。秋、入朝して、曹州彰信軍節度使に任じられた。乾徳6年(968年)、邠州静難軍節度使となった。開宝2年(969年)、鄜州保大軍節度使に転じた。開宝5年(972年)、節度使を退任して開封に帰り、死去した。享年は66[3]。

孫に袁昭慶があった[3]。

脚注

  1. ↑ 宋史 1985, p. 9045.
  2. ↑ 宋史 1985, pp. 9045–9046.
  3. 1 2 3 宋史 1985, p. 9046.

伝記資料

  • 『宋史』巻261 列伝第20

参考文献

  • 『宋史』中華書局、1985年。ISBN 7-101-00323-0。